着物を脱いだ渡り鳥 ― 落語家をやめて、落語のことを考えた。 ナツノカモ

2020.5.8

06戸惑いの出航

 

 その日、僕は着物を着て、お客さんを待っていた。場所は自宅からほど近い、とある古民家だった。縁側があり、床の間があり、古い日本家屋のどこか懐かしい香りがするここで、僕は今から落語会を開く。築60年のその建物はイベントスペースとして普段から貸し出されており、知り合いに紹介してもらった会場だ。

 十二畳ほどの和室の角に座卓を置き、その上に毛氈をかけ座布団を敷いた。僕が座ることになっている「高座」だ。持参した落語用の座布団はサイズが大きく、座卓の上に乗せると前面が少しはみ出してしまった。しかし今日のところは仕方がない。

 空は晴れていた。落語家をやめて半年が経った初夏のその日の気温は、暑くもなく寒くもなく、エアコンをつけなくても平気だろうと思われた。

 お客さんはどんな気持ちでここへ来るだろうか。案内はすべてメールで出した。公に開かれるものではない、元落語家による秘密の落語会。ワカコさんやリエさん、さらにはトザワさんなど、連絡先が分かる人にしか招待を出していない。返事をくれた十数名が、今からここに集まることになる。リエさんは子どもが生まれたばかりにもかかわらず、

 「きっとまたやると思っていました。行きます」

 と、すぐに返信をくれた。

 古民家の庭には小さなお社があった。お客さんが座るための座布団を畳の上に敷き終え、ふと縁側の窓から庭を見ると、それが目に入った。雪駄を履いて庭に出る。なんとなくその前で手を合わせる。会の成功を祈りつつ、同時に「この会にとっての成功とはなんだろう?」という疑問も湧いた。ただ僕がやりたいことをやるだけの時間だ。自分で会場をセッティングし、自分で案内を出し、自分が演じる。

 「作家」としての仕事は順調だった。自分の書いたゲームのシナリオがテレビで紹介されたりした。このまま作家業に徹して生きていけば、ある程度の成功は望めるのかもしれない。でも僕は今日、やめたはずの落語をする。ほんのわずかなお客さんの前で。

 お社に向け合わせた両手は、冷たい。

 ……本当は、迷っていた。

 

 

 リエさんの結婚パーティーで落語を披露し、クローズド落語会ならば出来るのでないかと思いついた僕は、すぐさま会場を探し始めた。先に書いたように知り合いから紹介してもらったこの古民家を会場として押さえたのが二ヶ月前。密やかにその準備を進めて来た。形はどうあれ、再び落語が出来る機会を自分の手で用意したのだ。心は前向きだった。

 けれど同時に、生の落語の空間からしばらく離れていることに対して、危機感のようなものも覚えていた。パーティーでの落語を除けば、もう一年半ほど高座に上がっていない。その状態でまた自然に落語が出来るだろうか。

 まずは落語の勘を取り戻そう。それには落語会に行くことだ、と僕は思った。

 そこで数日前、ある先輩の落語家の会に一人の観客として足を運んだ。久しぶりに客席で過ごす時間は新鮮で楽しく、素直に笑った。小さな会場だったが、お客さんもみな喜んでいるように見えた。

 それほど付き合いがあったわけではないが、顔は知っている仲なので、終演後に楽屋へ挨拶に行った。

 「おお、久しぶり。今は何をしてるの?」

 着物から私服に着替えながら、その先輩はさらりと聞いてきた。もう同業ではなくなった者に対する、なにげない質問がチクリと僕の胸を刺した。

 「一応、作家をやっています。舞台が多いです」

 「へぇ、そうなんだ。僕も芝居とか好きだから、また一緒に何か出来たらいいね」

 笑顔で放たれる言葉に、お返しをしなきゃいけないと思った僕は、

 「今日、楽しかったです。しばらく落語から離れてしまってたんですけど、また落語を好きになれそうです」

 精一杯、応えた。嘘じゃなかった。

 先輩は「ああ、それは嬉しいね。また来てよ。何も気にしなくていいからさ」と言って、手を差し出して来た。一瞬ためらったが、

 「ありがとうございます」

 と、僕も右手を出した。

 落語を演じ終えたばかりのその手は、温かかった。

 楽屋口から会場を出る頃、僕の胸にはある逡巡が芽生えていた。来たるクローズド落語会に向け、落語の勘を取り戻そうと足を運んだわけだが、帰り道、前向きだったはずの僕の心はすっかり後ずさりを始めていたのだ……

 年の近いその先輩の高座から、僕は落語の「技」を改めて感じた。噺を伝えるための人物の演じ方、空間を支配するための間、笑いを生み出すテクニック。それらは落語という芸がこの世に誕生して以来、先人たちが長い時間をかけて作りあげてきたものだ。芸が上手いとか下手ではなく、その世界に生きていれば自然に染みついていくもの。観客は落語家のそれを見るために客席に座る。

 わずか8年ではあったが、その場所にいた僕の身体にもそれは確実に刻まれている。努力や才能とは別の次元の、何十年、何百年という時間をかけて受け継がれ、後世にも引き継がれていくべき落語の「技」。

 クローズドだとしても落語会を開くということは、その「技」を披露するということだ。

 「技」を愛しているならば、それを安売りしてはいけないのではないか?

 僕の身体が、僕の心を迷わせていた。

 そんな状態のまま、僕は今日という本番の日を迎えた。

 

 カミヤくんという、大学のサークルの後輩がいた。彼にはプロ時代から会の運営を手伝ってもらっていた。落語は一人で演じる芸とは言え、公演をするとなると受付などにどうしても人手が必要になる。大手企業に勤める彼に、休みを返上して今日も来てもらった。

 庭のお社で、祈りなのか躊躇いなのか分からない願掛けを済ませ、建物の中に戻ると、彼は玄関の上がり框で受付の設営をしていた。

 「申し訳ないね」

 後ろから声をかける。「わざわざこのために来てもらっちゃって」

 「いえ。絶対やったほうがいいですから」

 カミヤくんは僕に背を向けたまま返事をくれた。「あなたは」と「落語を」が省略されていた。

 先輩の高座を見に行く前、彼にこのクローズド落語会の話を聞かせた時、「一回きりで終わることを想定していない」という話をした。できれば定期的に続けていきたい。それは、やる以上は「ただの思い出作りにはしたくない」という思いからだった。文化祭ではないから。

 カミヤくんは「いいですよ。全部、手伝います」とすぐに言ってくれた。

 しかし考えてみれば、これはどこに向かうのか行き先の分からない船に、船員として彼を乗せるようなものだ。そして意気揚々と出航するはずが、船長はすでに港で迷ってしまっている。

 落語家をやめた男が、落語をして何になるのか。

 

 お客さんがポツポツと集まり始めた。会場である十二畳の和室の、襖一枚を隔てた隣りの部屋を楽屋とした。僕はそこで開演まで待機していた。着ているのは、学生時代に使っていた丈の短い紺色の着物で、リエさんのパーティーでも着たものだ。

 ガラガラと玄関の引き戸を開ける音がして、カミヤくんの小さな「いらっしゃいませ」という声が聞こえてくる。ギシギシと音の鳴る板廊下を通り、お客さんが一人また一人と会場に入っていくのが分かる。

 みな静かに開演を待っていた。

 

 「えー、ご来場ありがとうございます」

 十数人の、しかし思いの込められた拍手をもらい、僕は高座につき語り始めた。

 「おそらくほとんどの皆様が困惑した状態でこちらに来られたことと思います。あなたは落語家をやめたのではないのかと」

 客席はシンとしている。目の前にいるのは僕が引退した時、その事実を嘆き、惜しんでくれた方々ばかりだ。

 「ただ」

 僕はお客さん全員を、見渡した。

 「この中で一番この状態に困惑しているのは、僕です」

 少しお茶らけた風に言ってみた。古民家の空気が少し緩むのを感じた。

 「一体なんでやってるんでしょうね?」

 その日、最初の笑いが起こった。

 

 

(第6回・了)

 

本連載は隔週更新でお届けします。
次回:2020年5月22日(金)掲載予定