着物を脱いだ渡り鳥 ― 落語家をやめて、落語のことを考えた。 ナツノカモ

2020.6.5

08明晰夢

 

 --僕はまだ「なぜ落語家をやめたのか」を書いていない。

 

 クローズド落語会は月に一度のペースで続けた。初夏から始めたこの秘密の公演は、夏が過ぎ、秋を迎え、やがて冬が訪れ、形を変えぬまま継続された。会場として使っていた古民家の庭には、季節ごとに違う花が咲いた。カミヤくんは必ず手伝いに来てくれた。お客さんはいつも十数名、毎回足を運んでくれる人と、たまにふらりと覗きに来てくれる人がいた。中には「アマチュアに戻ったあなたの姿は見たくない」と一度きりで去ってしまった人もいた。当然の感想であると思うし、それでも一度は足を運んでくれたことに対して、僕は感謝の気持ちしかなかった。

 作家活動の中で新たに出会って「実はこんなものをやってまして」と案内を出すと、興味を持って見に来てくれる人もいた。

 迷うことをやめてからは、学生時代の感覚に戻っていた。あの頃のように、落語に夢中になれていた。これで良かったのだ。落語をやめるか続けるか、そんなことを迷う時間は僕にとっては無駄でしかない。落語をするしか、僕にはないのだから。 

 そしてある日、一通のメールが届いた。

 「おれも見に行ってもいい?」

 イナベさんだった。

 

 イナベさんとの関係は、学生時代に始まり、プロになってからも続いていた。僕が落語家になるきっかけを与えてくれたのはこの人だ。「プロにならないの?」というあのひと言で、僕はその青写真を描くことが出来た。たまに会うと、その時々の活動報告をしていた。自らの落語会に漫才ゲストとして出演してもらったこともあった。

 その後、もうやめなくてはいけないという状況に立たされた時は「もう少し考えてほしい」と何度も引き止められた。

 結局、そんな言葉をふり切り、僕は落語家をやめた。それを一番惜しんでくれたのはこの人だったかもしれない。

 「見に行っていい?」という連絡に、僕はすぐに返信が出来なかった。また僕の落語を見たいと思ってくれた気持ちには応えたいが、プロではない今の僕の姿はイナベさんにどう映るだろうか。

 しばらく考えて、迷うことでもないかと思い直し「どうぞ。是非いらしてください」と返信した。

 

 その日は『明晰夢』という新たに創った噺を演じる予定だった。

 月に一度のクローズド落語会で、しばらくは過去に創った噺や古典落語を演じていたのだが、新作をおろすことがあった。見てもらえるのがわずかなお客さんだとしても、創りたい衝動に駆られた時は、素直にその思いに従うことにしていた。

 『明晰夢』は作家で入っているテレビ番組の打ち合わせに向かうため、新宿の交差点で信号待ちをしている時に突然、閃いた。

 群衆の中でぼんやりと赤信号が青に変わるのを待っていた僕は、なにげなく視線を信号機の奥に送った。そこには新作映画の看板があった。渡るべき横断歩道の向こうは映画館だったのだ。その中に、今ヒット真っ最中の邦画のものがあった。有名な日本の俳優陣が並んでおり、みなポーズを取ってこちらを見つめている。「あれ?」と僕は思った。すぐには自分が何を感じたのか分からなかった。しかし、とにかく違和感があった。信号が青に変わり、周囲の人が歩き始めても、僕はしばらくその場から動けずにいた。落語という芸能をはじめて知った頃に、この違和感を僕は覚えたことがあった。捉えがたく、しかし無視のできない違和感だった。

 打ち合わせを終え、帰宅中もずっと考えていた。僕はあの映画の看板を見て、何を思ったのか。これを逃してはならない、この感覚をつかまえなくてはならない、そんな気がした。電車の窓から外を眺めても、実際には何も目には入って来ず、僕はずっと考え続けた。

 そして、はたと気づいた。

 「この映画の中の人物たちは、この映画のことを知らないのか?」

 それが僕が信号待ちで覚えた、違和感の正体だった。

 

 

 

 僕は帰宅後、すぐにパソコンを開いた。自分の中に浮かんだ「問い」を形にする。

 『真田小僧』という落語がある。プロになると早めに覚える基礎的な噺だ。登場人物が少なく主題がハッキリしているため、演じやすくウケやすい。主に父と息子の会話で展開していくのだが、途中で「落語」というワードが出てくる。

 「お父っつぁん、落語は知ってる?」

 と、息子が言う。「知ってるよ」と父が答える。この父は落語が好きでよく見に行っているという設定だった。

 学生時代、これをはじめて聴いた時、僕の中に疑問が湧いた。

 「落語の中に落語という言葉が出て来て良いのか?」

 「落語を知っているなら、この父親は『真田小僧』という有名な噺も知っていることにはならないのか?」

 「落語という芸が存在する世界を描いているのに、そこには『真田小僧』だけがたまたま無いということなのか?」

 映画の看板を見て浮かんだ問いと同質のものだ。つまり、あそこに出ていた俳優は、その映画の描く世界では俳優としては存在していないことになっており、その映画自体も存在しない。当たり前のようだが、僕はそれに違和感があった。

 僕はパソコンに物語を打ち始めた。落語を知り、演じる歓びを覚え、いつのまにか忘れてしまっていた、あの頃に抱いた疑問。今から創る噺は、あの頃の自分に向けて書く「答え」だ。

 僕は明け方まで夢中で文字を打っていた。

 

 「おう、今から落語を見に行こうじゃねぇか」

 「落語? 面白いのかい」

 「もちろんだよ。行こう行こう」

 お馴染みとなった古民家で、僕はその噺を語り始めた。今日も客席には十名ほどの人が座っている。そして、一番奥の座布団にはイナベさんがいた。

 「今から落語家が出てくるからな。お辞儀したら、拍手をするんだぞ」

 「そうなのか? めんどくせぇなぁ。ほとんどお客もいねぇじゃねぇかよ」

 「そうじゃないよ。最初は一番下手な奴が出てくるけど、だんだん上手い落語家が出てきて、そうすると客も増えていくんだ」

 この『明晰夢』という噺は、落語の中の人物たちが落語を見に行くという設定になっている。八っつぁんと熊さんが寄席小屋で落語を見ているのだが、その中身が「落語を見に行く」という落語で、「あれ? このやりとりはさっきおれたちがしたやりとりじゃないか?」となる。さらに、その落語の中でもまた「落語を見に行く」という噺が始まり、落語の中で始まった落語の中で落語が始まったことになり、「おいおい、これ永遠に続くじゃないか!」と人物たちが困惑する。

 古民家の客席は戸惑いと笑いに包まれた。おそらく落語の歴史上、そこに踏み込んだ噺はこれまで無かったからだろう。

 そして物語の中盤で、八っつぁん熊さんはふと気づく。

 「もしかして、おれたちの存在も落語なのか?」

 フィクション内の登場人物がフィクションの存在を意識するというメタ構造を持つ物語は、他ジャンルではそれほど珍しいものでもない。映画や漫画や小説でお目にかかることはあるし、「実は夢でした」と同様に掟破りの感はある。しかし、落語が他ジャンルと違うのは、明確に「オチがある」という点だ。最後の一行でお客さんが思わず拍手をしてしまうようなラストを用意しなくてはいけない。

 「おれたちが落語の中の人物ならば、落語が終わった途端におれたちの存在が消えてしまうのか?」

 「だったら、オチが来ることを避けねばならない」

 八っつぁんと熊さんは、なんとかオチを回避し噺を終わらせないように奮闘する、という方向にこの噺はシフトしていく。 

 夢の中で、これが夢であると自覚する夢を「明晰夢」というそうだ。それをそのままタイトルとした。

 覚めない夢はない。この噺も、やがて終わりが来た。

 

 会を閉じた後、古民家の外へ出ていつも通り一人一人に挨拶をしてお客さんを送り出す。木枯らしが吹いており、肩をすくめたくなるような寒さだったが、常連となったお客さん達はみんなにこやかに去って行った。『明晰夢』の手応えは、オチの後の拍手の大きさで感じ取っていた。良い噺を創れたと思った。あの頃の僕自身が見たら、きっと自分の疑問を笑いに昇華させたこの噺に満足し、喜んでくれただろう。

 終演したにもかかわらず、一人だけ外へ出て来ない人物がいた。「あれ?」と思いつつ、着物姿のままでいることに寒さを感じたので、僕は会場の和室へ戻った。イナベさんは、奥の同じ場所に座ったままだった。

 「ありがとうございました」

 僕は近づき、頭を下げる。

 「うん」

 イナベさんはあの頃と変わらない紫のサングラスをかけ、虚空を見つめていた。

 「外、寒いですよ」

 そんな僕の言葉を無視して、イナベさんは言った。

 「君の落語は……」

 あ、と思った。出会った日のことがフラッシュバックした。大事なことだけ話そう。イナベさんはずっとそうだ。

 「良い温度で、ゆったりと心地好く、その世界に連れて行ってくれるんだよな。で、気づいたら現実ではない、異世界に迷い込んでいる感覚になる」

 慎重に言葉を選ぶようにしながら、ゆっくりとイナベさんは語る。

 「はい」

 と、僕は返した。もっと自分の落語を良くしたいから、この人の評は聞かねばならない。僕は続きを待った。『明晰夢』はどうだったのか。

 しかし、イナベさんはその先を続けることはしなかった。

 「ありがとう。帰るね」

 スッと立ち上がる。少し拍子抜けしながら、「あ、はい」と僕は畳の上で一歩身を引く。長身のイナベさんに和室は似合わない。その高い位置にある頭をぐっと下げて鴨居をくぐり、廊下に出た。玄関まで送るべく僕はその背中を追う。

 と、上がり框の手前でイナベさんは僕の方をふり返った。

 「あのさ」

 紫のサングラスで、こちらを見つめる。「はい」と僕は応える。

 「落語界に、戻る気はないか?」

 

 僕が落語家をやめて一年後の出来事だった。

 

 

(第8回・了)

 

本連載は隔週更新でお届けします。
次回:2020年6月19日(金)掲載予定