着物を脱いだ渡り鳥 ― 落語家をやめて、落語のことを考えた。 ナツノカモ

2020.6.19

09おれが守る

 

 「戻る気はないか?」

 イナベさんは僕を見て言った。まっすぐな視線だった。一瞬、自分が「落語家」に戻っている姿が脳裏を過った。確かにそれは自分でも何度か考えたことだった。こんな風にいつまでもクローズド公演をしていても仕方ないのではないか。本当にやりたいなら、その世界に戻ればいいのではないのか。

 しかし、

 「それはない、ですね……

 と、僕は返した。誰に聞かれても、そう返してきた。そんなに簡単に戻るつもりならば、あの時やめるという決断はしていない。戻れない理由が僕にはある。

 イナベさんはしばらく僕の目を見つめたあと、「……そうだね」と言った。落語家をやめる際、イナベさんには僕の思いを伝えていた。なぜやめようと思ったか。僕の決心が固かったことをイナベさんはよく知っていた。だから、僕が今「それはない」と答えるであろうことも予想した上で、それでも聞いてくれたようだった。

 諦めたように、「分かった。じゃあ、帰るわ」と言って、イナベさんは靴を履くため上がり框に腰を下ろす。申し訳ない気持ちと、今でも惜しんでくれていることに対して、素直に嬉しい気持ちが胸に去来した。

 一緒に外に出る。辺りはすっかり夜になっていた。繁華街から離れた場所にあるこの古民家は、そばに街灯も少なく、夜になると寂しげな雰囲気が漂う。

 数歩進むと、イナベさんは建物をふり返った。

 「良い会場だねぇ」

 「あ、はい。見つけた時、ここだと思って」

 「そっか。こういう場所を選ぶのが、君らしい気もする」

 イナベさんはいつもサングラスをかけている。その奥の目で、何を考えているのかこちらに悟らせてくれない。

 「じゃあ」

 と、イナベさんは言った。

 「これからは、おれが守るわ」

 唐突な言葉だった。

 「君の落語は、誰かが守らなくてはいけない。おれがやる。おれが守る」

 僕は思わず、イナベさんの横顔を見る。変わらず古民家を眺めていた。表情からは分からないが、その声から、イナベさんの決意が読み取れた。こんな風に悟らせてくれる時もあるのか、と僕は思った。

 守る……

 そうだ、それこそ僕が落語家をやめた理由だ。

 イナベさんの言葉で、僕の頭に、ある過去の場面が浮かんだ。

 それは、僕が落語家をやめるきっかけとなった夜のことだった。

 

 僕には落語家の後輩が何人もいた。落語界にも、舞踊や唄の世界などと同じように様々な流派がある。同じ流派に属する者を「一門」と呼んだりする。そこには入門の順番で先輩、後輩がある。

 同じ門の後輩たちは、みんな僕を慕ってくれた。何か迷うことがあれば相談に乗り、芸の話をし、どう落語と向き合っていくか、よく話した。

 トラのように現在その世界で成功している者もいれば、なかなか思うよう落語ができず、奮闘し続ける者もいた。しかし、そのほとんどが、やめた。

 彼らがやめた理由というのは様々だった。共通していたのは、落語は好きだが、自分の力が足りない、やっていく自信がない、そういったものだった。

 ゴウという名前の男は、僕より一年ほど後にその世界に入って来た。年齢は二つ下で、10代の時はバイクを乗り回し、好き勝手に生きてきたらしいが、芸に関しては真面目な男だった。落語を好きになり、五年間の落語家生活を送っていく中で、彼は変わった。そう本人が言っていたわけではないが、入門前に彼がどう生きていたかの話を聞けば、きっとそうなのだろうなと思えた。20代の五年という月日は、決して短くない。

 「やめようかと思うんですよね」

 その日、ゴウはファーストフード店で僕の前に座っていた。二人で行った仕事の帰りに寄った店だった。

 「うん」

 またか、君もか、と僕は思った。しかし予感はしていた。今日の彼の表情はどこかおかしかった。俯きがちに、絞り出すように放つ言葉。テーブルには一口も飲んでいない、冷めたコーヒーが二つあった。何度も見てきた光景だ。

 こんな時、僕はいつも「やめるな」と安易に引き止めることはしなかった。出来なかった。その人にとって何が正解か、どんな決断が正しいかなんて分からない。ここでやめることのほうが本人にとって幸せなのかもしれない。

 「それは分かった。でも…

 一方で、僕は迷う。多くの先人たちから受け継がれてきた芸である落語。それを未来に繋げるためには、簡単にやめさせてはいけないのではないか。ここで、先輩として、引き止めるべきではないのか。

 「おれは続けて欲しいと思ってる」

 いつもいつも、それを言うのが精一杯だった。もう少し強い言葉はないのか。不甲斐ない……

 「でも、向いてないと思うんですよね」

 ゴウは言う。大概、後輩たちはこう言う。向き、不向き。しかし、そんなもの本当にあるのだろうか。落語は、演じる人を選ぶような窮屈な芸なのか? 僕はそうは思っていなかった。その人の存在をまるごと肯定し、寄り添ってくれるもの。それが落語だと信じていた。落語では相手の言葉を頭から否定せず、人物たちは起きた事態を真に受ける。それは人と人がただお喋りしているその空間を認め、許し合い、肯定するということだ。そんな芸だからこそ惹かれ、僕たちは落語家になったのではないのか?

 しかし本人がこういう気持ちでいる以上、それを伝えるのは空虚なことのようにも思えた。

 「もう少し、考えてみてもいいと思う」

 時間が問題を解決してくれるとは限らない。決定を遅らせることが、本当に最善策なのかどうかは分からない。しかし、悩みあぐねている男を前に、僕はそう言うしかなかった。

 「はい……

 「うん。……じゃあ、行こうか」

 これ以上、ここで話せることは何もない。終わりの切り出しは、先輩である自分がしなければならない。

 「はい」

 ゴウは立ち上がる。僕のコーヒーを、彼は自然に片付けようとする。上下関係が身体に沁みついている。

 「あ、いいよ」

 僕は自分の飲み残したコーヒーだけを持ち、先に店内のゴミ箱へと向かった。「すみません」とゴウは言って、それに続く。すまないことなど何もない。後ろにいる彼がどんな表情をしているのか、ふり返ることはしなかった。

 店を出て、同じ電車に乗った。

 どちらも無言だった。終電の近い、上りの各駅停車は空いていた。でも僕らは、どちらも座ろうとはしなかった。

 途中の駅で、乗り換えのためにゴウだけが降りることになっていた。ドアが開いた瞬間、彼はか細い声で「お世話になりました」と言った。僕はハッと彼の目を見る。ああ、そうか。もう決めてるんだな。僕の言葉は届かなかったんだな。

 彼は一歩、己の身をドアの外へ進める。

 いいのか? ここで止めなければ、彼を置いていくことになる。腕を掴んででも、引き止めたほうがいいのではないか?

 しかし、僕は手を差し伸べられなかった。二歩目で、彼はもう手の届かない場所に行ってしまった。

 先輩である僕を見送るため、ホーム上でゴウは電車の方へ向き直り、その場に留まる。ドアが閉まる瞬間、彼はこちらを見て、寂しそうに笑った。

 

 イナベさんは去って行った。「守る」という言葉を残して。

 古民家の門の前で、イナベさんの背中を見送りながら、「ああ、僕はゴウを守れなかったのだ」と、あの日のことを改めて思った。落語の素晴らしさや魅力を、先輩として彼に教えることはしてきたつもりだった。しかし彼を「守る」ことをしなかった。上に立つ者が下の者を守るからこそ、芸は次の世代に繋がっていく。芸は「教える、教えない」ではなく、「守るか、守らないか」なのだ。

 もしかしたら、それは直接口に出して言うようなことではないのかもしれない。しかし、僕もあの日、ゴウに「おれが守るから」と伝えていれば、何かが違っていたかもしれない。

 思えば、ゴウとのその別れの出来事があってから、「落語をやりたい気持ち」を強く持っていても、「落語家でありたい気持ち」がどんどん薄れていくのを、僕は感じていた。「be」と「do」は違う。どれほど落語をやりたくても、下の者を守れない人間は落語家である資格はない。

 だから、僕は「落語家」をやめた。

 「潔癖過ぎる」

 と、当時言ってくれたのは誰だっただろうか。それもイナベさんだったような気がする。

 自分でも、そう思った。

 去り際、イナベさんは「考えておくわ」と言って、僕に背を向けた。僕の落語を「守る」方法を、ということだろう。落語界にいた時には分からなかったことを、イナベさんが今、僕に教えてくれている気がした。僕がゴウやその他の後輩たちに対して、どう向き合うべきだったか。

 こちらをふり返らず、少ない街灯の光の下を進んで行くイナベさんの背に向かって、僕は深く頭を下げた。

 

 その後も、僕はクローズド落語会を続けた。落語家としてではなく落語をする方法は、これしか思いつかなかった。

 『明晰夢』はトラに託した。この落語には、落語が忘れてしまっている大切な要素がある。「落語の世界の中にも、落語という芸は存在する」ということ。

 自分ではない誰かが演じる形でも構わない、とにかくどこかに残したい。あの『桜の男の子』も大事にしてくれているトラにその気持ちを話すと、彼はそれを快く受け取ってくれた。

 落語には著作権という考えが薄い。古典落語には作者不明の噺がたくさんある。それは、受け継ぎ、受け継がれていくものであるという考えが根底にあるからだと思う。落語は共有財産であり、作者が誰ということより、噺そのものが生き残ることを落語自身が望んでいる。誰かが創り、誰かが語り、誰かが聴く。それがずっと続いていく。

 『明晰夢』もその中に加わって欲しい。トラに育ててもらい、またどこかで誰かに繋がっていったらいい。そう思い、僕は自分の作品を彼に託した。

 秘密の会を続けていく中で、創った噺を誰かに渡すということについて、その頃から考え始めた。僕はもう落語界にはいないが、先人たちから受け取った「技」というバトンはこの手に今もある。もしかしたら、噺を創るという形でそのバトンを渡していく方法もあるのではないか。

 それが「落語家」から「作家」になった僕の生きる道なのではないか。

 

 その連絡は唐突にやって来た。

 「新潟でも、秘密の落語会をやってもらえませんか?」

 東京でのクローズド落語会が、20回を数えた頃である。

 

 

(第9回・了)

 

本連載は隔週更新でお届けします。
次回:2020年7月3日(金)掲載予定