よみがえるヒロインたち 小川公代

2022.3.31

01オースティンと『イカゲーム』のヒロインたち

1.『イカゲーム』のセビョク
先月、Netflixオリジナルドラマ『イカゲーム』の主演イ・ジョンジェとチョン・ホヨンが、第28回SAG(全米映画俳優組合)賞のドラマ部門でそれぞれ主演男優賞と主演女優賞を受賞し、大きな話題となった。非英語作品からドラマ部門の主演男優賞と主演女優賞が受賞するのは初めてということを踏まえても、この韓国ドラマへの注目度の高さがうかがえる。i チョン・ホヨンの受賞は、その演技力だけでなく、彼女が演じたセビョクという女性が体現するヒロイン像の新しさにも関係しているのかもしれない。そして、その新しさはイ・ユミ演じるジヨンと共演した第六話に象徴されている。
『イカゲーム』は、命を賭けたデスゲームに参加する人々の人間模様を描いている。チョン・ホヨン演じるセビョクは、失業して家族にも見放されてしまった主人公のギフン(イ・ジョンジェ)のように、命を賭けて大金を手に入れるため、デスゲームにエントリーする。最初のゲームは「だるまさんがころんだ」で、脱落者たちが目の前で射殺されていく。これほどの残酷なゲームに参加する必要がセビョクにあるのだろうか。彼女は、北朝鮮から弟と二人で逃れてきた脱北者で、両親が亡命の際に捕まってしまったため、再度両親を亡命させ、養護施設にいる弟を引き取って家族全員で暮らしたいと願っている。女性であるセビョクは、他人の世話をするしか取り柄のないギフンと同じで、見るからに腕っぷしも役立ちそうな技術も何も持っていない。ただ、このデスゲームにおいては、女性や高齢者といった弱者が必ずしも不利にならないよう設計されているため、最年長の参加者オ・イルナムも女性のセビョクも、命を落としていく他の参加者を横目に、運、工夫、そして連帯の力でなんとかゲームをクリアしていく。
セビョクが現代のヒロインとして注目されうる要素が象徴的に描かれているエピソードを見てみよう。綱引きゲームなど、それまではプレイヤーたちがそれぞれの知恵や技術を発揮しつつ、仲間と助け合い勝利を手に入れることができた。ところが、第六話のビー玉遊びのゲームでは、ペアを組んだ相手を負かさなければならない。事前にそのことを知らなかったセビョクは気が合いそうな女性ジヨンとペアを組んでしまった。他のペアはお互いを力や技術で負かそうとしたり、中には相手を騙して生き残ろうとしたりする狡猾なプレイヤーもいる。そうしなければ、自分が生き残れないからだ。ところが、ジヨンは、「力」で相手から勝利を奪うような方法は回避している。彼女は、セビョクと互いの過去や将来の計画について語り合うことで、どちらが生き残るに値するかを見極めようとする。予想をはるかに超えてくる展開に、筆者は半ば呆然とし、どんな命も尊いのだからみんなが助かる道はないのかと気を打ってしまった。最終的には、ジヨンはセビョクに自分の未来と幸せを託し、わざと彼女に勝たせる決断をする。だからこそ、セビョクが終盤で生き残ろうとするのは、必ずしも利己心や自己防衛ではなく、ジヨンに託された命を守ろうとするからであり、この二人のヒロインを演じたチョン・ホヨンとイ・ユミがこの場面を読んで泣いてしまったことは、ヒロイン像に変化が生じてきていることの証左なのかもしれない。8話で、セビョクがギフンに自分の夢を託すのも、せめて生き残った弱者だけでも、夢を見てほしいというジヨンの思いを継承していると言えないだろうか。『イカゲーム』では、屹立した自己が互いに威嚇し合い、知力と体力を限界まで活用して生き残ろうとする様がこれでもかというほど描かれる。他方で、そんな環境のなかでいかに互いに思いやる心を失わないかという物語でもある。ファン・ドンヒョク監督は、インタビューで次のように話している。「(セビョクとジヨンは)ある意味、最も純粋な人たちです。生死の境目で、勝ち上がるためにお互いを殺し合う人たちの中で、そうでない人たちがいるとしたら、この2人にそうであって欲しかった」。ii
確かに、ギフンとこの二人の女性以外のほとんどのプレイヤー――たとえば、ギフンの幼なじみで、勤めていた証券会社の金を横領して警察に追われていたチョ・サンウや、生き残るために性を売り物にするミニョという女性――は利己的で、ガツガツしている。ミニョは、デスゲームの中で生き残るためにギャングのリーダー的存在であるドクスと性的関係を持つのだが、彼に裏切られたとわかった後、ガラスの上を一つ一つ跳んで渡るゲームのなかで、彼をガッチリ抱き込んで「離さない」と言って、一緒に身を投げる。西森路代とハン・トンヒョンによるミニョについての考察はここで言及するに値するだろう。ハンは「ミニョをしたたかでたくましい女性として『主体的』に描きたいのだろう」と留保しつつも、「二〇二一年に女性の共感を得るにはむしろちょっと古い造形」と語っており、西森も、「そこまでして取り入ったって、だいたい裏切られるのはわかっているのに」と答えている。iii たしかに、性的対象として女性をまなざすような家父長的な価値観を内面化した、ミニョのような女性登場人物は「古い」。それでは、私たちにミニョは「古い」と感じさせる、より新しいヒロイン像とはどのようなものだろうか。最新のケアフェミニズムを体現するセビョクと最古の家父長的な価値を内面化するミニョの間にある、フェミニズムの変遷を少し振り返ってみよう。

2.『高慢と偏見』のエリザベス――ポストフェミニズムへ
まず、『戦う姫、働く少女』の冒頭で河野真太郎が展開する議論を参照したい。『スター・ウォーズ エピソード6/ジェダイの帰還』(1983年)では、レイア姫がヒロインである。犯罪王ジャバ・ザ・ハットに囚われの身になってしまった彼女は、「露出度の高い」衣装を身につけて、鎖に繋がれた「奴隷」として救い出されることを待っている(ただし、レイア姫の強気な性質も同時に強調されている)。レイア姫役を演じたキャリー・フィッシャーは、インタビューで「わたしはセックス・シンボルなんかじゃない」とその不満を顕わにしている。iv この「奴隷の衣装」とともに、「みずからを女性として物象化しようとする力とつねに闘」うレイア姫/フィッシャーの苦闘は、一九六○年代以降の第二波フェミニズムを象徴しているという河野の指摘は重要であろう(同、10頁)。
それでは、ミニョのような女性像はどれほど「古い」のだろうか。十九世紀初頭のイギリス人作家ジェイン・オースティン(Jane Austen, 1775-1817)にさえ「古い」と感じられるような女性像だといえるだろう。家父長的な価値を内面化してしまっている女性は『高慢と偏見』(Pride and Prejudice, 1813)にも登場する。ミニョの位置を占めるのは、ダーシーの友人のビングリーの妹キャロライン・ビングリーであるといっていいだろう。キャロラインが夢中なのは年収が一万ポンドの大富豪ダーシーであるが、彼が魅了され始めている主人公エリザベス・ベネットに激しいライバル心を燃やしている。語り手のキャロラインに対する評価は低く、「彼の方ではいくらほめられてもてんで相手にしないのだから、これはなんとも奇妙な対話であ」ると述べ、特に手紙を書くダーシーの隣でしきりに彼をほめそやす彼女の態度を嘲笑している。v このような語り口調からも、オースティンがいかに現代的であるかがわかる。また、ヒロインであるエリザベスが最初は第二波フェミニズムを予兆するかのような強い態度をとっているが、次第にその頑なな態度を緩和していく点で、じつに現代的なヒロインといえる。
『バックラッシュ』(Backlash: The Undeclared War Against Women, 1993)の作者スーザン・ファルーディによれば、歴史を遡ってみると、女性が男性と対等の地位を獲得しそうになると、彼女らに対する「バックラッシュ」が必ず起きている。その現象に付随する言説がポストフェミニズムと呼ばれている。女性が権利を主張すれば、保守派がその言説を弱めようとし、これが歴史で何度も繰り返されてきたというのだ。vi ファルーディのこの考え方を踏まえ、ヴィヴィアン・ジョーンズは、十八世紀のブルーストッキング(bluestocking)や先駆的フェミニストであるメアリ・ウルストンクラフトの女性運動直後に激しいバックラッシュが起きていることに注目している。十九世紀のウィリアム・ピットの保守政権やエドマンド・バークの保守思想である。すなわち、オースティンは、保守的な反動主義が拡がる社会情勢の中で小説を書いていたことになる。ジョーンズは、このような男性知識人による強烈な「バックラッシュ」に対するオースティンの対応策、すなわち柔軟な姿勢が彼女のヒロイン表象に表れており、それこそがポストフェミニズム的なありようとして捉えられるのではないかと論じている。このような側面を持ち合わせたオースティンのヒロイン像はかなり先駆的な存在だといえる。今に至ってもオースティンの作品の映画版が数多く制作され続けているのも、そのような背景があるからなのかもしれない。
エリザベスの描かれ方を見れば、オースティン自身に家父長的なものへの抵抗があったことがうかがえる。たとえば、エリザベスは、ダービシャーに広大な領地を持つ大金持ちの独身男性というだけで周囲の目を惹きつけるダーシーを警戒する慎重さがある。そして、富や権力を保持する彼に対して努めて冷淡で無関心であろうとする。初対面の彼女をそれほど美人ではないと酷評したり、周りの人を見下すような彼の態度から垣間見えるその高慢さから、その家父長的な性質を感じ取っている。また、エリザベスはキャロラインのように、女らしさや従順さを示して相手に屈服するようなことはしない。レイア姫/フィッシャーばりの抵抗力がある。そうはいっても、ベネット家には跡継ぎの息子がいない。エリザベスの父、ベネット氏が亡き後全ての財産は限嗣相続により遠縁のコリンズ牧師に相続されることが決まっている。ベネット夫人の持参金の四千ポンドが残されたとしても、五人も娘がいるため、その利子からの年収は娘たちが生活をしていくのに十分とは言えない。ベネット夫人が躍起になって娘たちの結婚相手を探すのも、このような事情があるからだ。しかし、コリンズ牧師がベネット家にやってきて、傲慢にも、娘のひとりを嫁がせてほしいと申し出る。長女のジェインが大金持ちのビングリー氏に好意を寄せられていることを知ると、即座にエリザベスに乗り換える点では、コリンズ牧師がいかに女性を物象化しているかがうかがえる。このような傲慢で、女性を蔑視するような男性と結婚しても幸せになれないと、エリザベスは彼の求婚を退けるのだ。
生活のためにコリンズと結婚したのが、エリザベスの親友シャーロット・ルーカスである。シャーロットは、自分の年齢や家庭の経済状況を考慮して、コリンズ牧師との結婚に踏み切っている。「高い教育をうけた財産のない若い婦人にとっては、結婚が唯一の恥ずかしくない食べていく道であった。幸福を与えてくれるかどうかはいかに不確かでも、欠乏からいちばん愉快にまもってくれるものは結婚であった」(『高慢と偏見』(上)、198頁)。コリンズ夫人となったシャーロットを訪ねてハンスフォードの牧師館を訪れたエリザベスは、そこで頻繁にダーシーと顔を合わせることになる。彼は次第に彼女の知性や自由闊達な挙動に魅了されていく。ダーシーがとうとうプロポーズするのだが、自分より低い身分のエリザベスと結婚することになれば自分も身を落とすことになるとわざわざ彼女の癪に障るような前置きをした上で、こう伝えている。「もうだめです。わたしの気持はおさえられません。どうか言わせてください。わたしはどんなに熱烈にあなたを崇拝し、あなたを愛しているかしれないのです」(『高慢と偏見』上、298頁)。ダーシーが彼女に深い愛情を抱きながらも高慢さを捨て切れずにいることに加えて、彼が姉のジェインの恋愛にまで横槍を入れていることを知り、エリザベスは怒りを爆発させる。将来自分が生活できなくなるかもしれない不安を抱えながら、彼女は世間の基準からすれば大本命である男性のプロポーズを断ってしまうのだ。
エリザベスが第二波フェミニズム的な自己とは距離をおいているのは、己の過ちに気づき、その償いを行動で示そうとするダーシーを受け入れているからである。彼女は、どうすれば家父長的な価値に抗いながらも、相手の愛情を受け止められるのかを考えながら、彼に歩み寄っている。ヴィヴィアン・ジョーンズが指摘するように、このようなヒロイン像を通して、オースティンはすでにポストフェミニズム的な主体を射程に入れていたといえるだろう。vii
第二波フェミニズム的なヒロイン、レイア姫と対置させるのが、中性的に描かれるレイであるという河野の着眼は鋭い。レイは、「母の世代のフェミニストたちの苦闘などどこ吹く風という風情」のキャラクターだ。ジェダイになって活躍できなかったレイア姫とは違い、戦う女性としてわりとすんなり周りに受け入れられている。そして、そもそも彼女は、「女性として対象化/物象化する力からは自由であるように見える」(『戦う姫、働く少女』、10頁)。政治目標から、女性の「集合体」としての連帯を取り去り、「個人」が立ち現れてくるのが今の新自由主義的なポストフェミニズムの状況である。「個人としての女性たちがメリトクラティックな競争をするための所与の「環境」と化した状況が、ポストフェミニズム」であると考えた上で、これらの間に連続性が認められると河野は論じている(『戦う姫、働く少女』、26頁)。エリザベスをはじめとするオースティンのヒロインたちは、家父長的な社会の要求に対して「個人」の倫理をフル稼働させ、選択可能なものの中から生きる道を選んでいく。そして、それはまるでクエストもののゲームの世界を彷彿とさせる。

3.『ちびまる子ちゃん』――中性的なヒロイン像
河野が取り上げるもう一人の重要なヒロインは『アナと雪の女王』のエルサである。「魔法の力というスキルをもって、女性同士の連帯も拒否して自分だけの王国を築こうとする」孤高のヒロインである(同、29頁)。この点から、河野はエルサが第二波フェミニストから、現実の「勝ち組」を代表するシェリル・サンドバーグ(フェイスブック社の最高責任者)的な「ポストフェミニストへと変遷する女性像」がないまぜになっていると指摘する。新自由主義的な競争社会におけるヒロイン像を模索せざるをえない現代において、女性の前に立ちはだかる資本主義の問題を考慮した優れた論点である。この議論を踏まえた上で、エルサのヒロイン像の先に、新しいヒロイン像を想定してみたい。たとえば、さくらももこによる漫画・アニメ『ちびまる子ちゃん』は、戦う姫のオルターナティヴ、すなわち“ポスト”フェミニズムの一つのモデルとして考えられないだろうか。
ここで、あえて“ポスト”フェミニストと引用符を入れたのには理由がある。竹村和子は、「ポスト」という語には、単に「その後」だけでなく、「自己参照的に過去とつながる」という意味があると言う。viii つまり、一連のフェミニズム運動やフェミニズム理論が終焉を迎えたのではなく、“ポスト”フェミニストたちの間で女性に関する「対話」は継続しているのだ。文学理論としての“ポスト”フェミニズムが本当の意味で有益であるのは、文学が理念を裏書きする思考や視野を、行為実践を通じて現実化していくプロセスを示しているからにほかならない。歴史の中の文脈に生きる人間は、全く中立的な個人であることはない。その際、竹村が述べているようになんらかの「フィクション」、あるいは「男」や「女」、あるいは男女の性別に当てはまらない人々の物語が必要となる。ix フィクションの世界では、当事者が具体的な状況においてどのような選択を迫られ、どう生きようとするのかが示される。
「クエスト」(quest)とは、特定の使命や目的のために旅や探検をすることを指すが、伝統的には男性の英雄的キャラクターに限られた物語であった。『ちびまる子ちゃん』の「宝さがしゲームの巻」(1997年8月17日放送)では、まる子がいかに地域環境のなかで、家族や近隣住民、商店街の人々、多数の友達と遊び、様々な発見をするかが描かれている。より先鋭化された形でヒロインが他者と繋がりながら、人生を探検することの寓意が描かれるのが、もうひとつの「宝さがし」のエピソード「まる子、宝の地図をもらう」の巻(2009年8月30日放送)である。夏休みの日記に書く題材がなくて困っているまる子を見て、野口さんが宝さがしのゲームをまる子や男子のクラスメートに仕掛けるのだ。ちょうどニュースでは小判が発見されたと報道されている。まる子のもとに匿名で届いた「宝物」のありかを示す地図を見て、彼女はその探検に乗り出す。最初は祖父の友蔵も加わり、地図が示すその場所(公園)に行ってみる。シーソーの裏にまた別の封筒が貼られているのを発見し、移動中、フェンスを抜けられない友蔵は離脱し、ヒロインのまる子一人になる。それでも、彼女は宝さがしを諦めない。途中、みまつやという雑貨屋から電話をかけてヒントをもらう場面などもあり、夕方までかかってようやく最終地点である丘の上の木の上までたどり着く。そこでまる子がクラスメートの男子たちと見つけた宝物は小判などではなく、燦然と輝く夕陽だった。
「まる子、宝の地図をもらう」の最後では、ゲームのクエストもの――たとえば、『ドラゴンクエスト』や『ファイナルファンタジー』――を彷彿とさせる音楽が効果を発揮し、まる子による「クエスト」の達成を視聴者も実感する。ただ、伝統的な性規範には嵌められていず、男子に期待される探検家の夢から切り離して、女の子の夢にもなりうる中性的なものとして描いている。またこのクエストのプロセスの描かれ方も重要であろう。まる子はクラスの男子たちを競合相手としてはみなさず、同胞的な関係性を保持しながら宝さがしを遂行する。すなわち、レイア姫のように怪物に捕らえられるヒロイン像からも、男性的な強さを誇示するエルサのような孤高なヒロイン像からも遠く離れている。カッコよさでは劣るのかもしれないが、もしかすると『スター・ウォーズ』の中性的なレイを彷彿とさせるようなヒロイン像でもあるだろう。クエストに成功し、最後に手に入れるものが、新自由主義的なもの(財宝、金銭、商品、土地など)ではなく、夕日の美しさという自然の恩寵であるのが、また新しい。
『スター・ウォーズ』に表象される中性的なレイのようなヒロインたちの登場は、河野も指摘しているとおり、じつは目新しくない。腐海という巨大な菌糸類の森を探検する『風の谷のナウシカ』のナウシカに「戦う女性」が見出されているではないか(『戦う姫、働く少女』、5頁)。さらに付け加えると、ナウシカもレイも、「個人」として行動はするが、必ずしも自分の立身出世のために戦う利己的なヒロインではない。チョン・ホヨン演じるセビョクのような利他的な女性像が求められるようになった、あるいは共感の対象となってきていることと、レイやナウシカのような利他的な戦士がすでに存在してきたことは地続きであろう。とはいえ、第二波フェミニズム以降、あからさまに利他的なヒロインが注目を集めることはそれほどなかったのではないだろうか。なぜなら、自分の運命をある程度自分で選び取れる、自己主張ができるエリザベス・ベネットのような比較的強い自己をもつヒロインこそが、もう長いこと「フェミニズム」の代名詞であったからだ。

4.『説得』のアン――他者の声に耳を傾けるヒロイン
補足しておくが、オースティン作品に描かれるヒロイン像にもグラデーションはある。晩年に書かれた『説得』(Persuasion, 1818)のアン・エリオットは、エリザベスほど自分の意思を貫く強さをもたないヒロインである。悪く言えば、優柔不断、よく言えば、他者の声に耳を傾けるアンのようなヒロインは、より“ポスト”フェミニスト的であるといえる。つまり、サンドバーグ型ではなく、ちびまる子ちゃん型の利他的な自己を体現している。現代におけるオースティン作品の受容を見てみよう。ポップ・カルチャーに表象される「エリザベス」の存在はやはり大きい。映像化されたオースティン作品のランキングでも堂々の第一位である(『高慢と偏見』(サイモン・ラングトン監督、ジェニファー・イーリー主演、1995年)。こうしてエリザベスは“ヒロイン”として不動の地位を築いているが、他の上位の四人(組)のヒロインたちもまた自立心を持っているという点において共通している。エリノア、マリアンヌ・ダッシュウッド(1995年)の第二位に続いて、第三位のエマ・ウッドハウス(2020年)、第四位も同じく別の映画のエマ・ウッドハウス(1996年)、そして第五位はキャサリン・モーランド(2007年)x である。予想していたことだが、『説得』のアン・エリオットは、10位の最下位であった。アンはエリザベスやエマたちとは異なり、他者の意見に耳を傾けすぎるヒロインなのだ。
アン・エリオットは、サマセットシャーのケリンチの館の当主、サー・ウォルター・エリオットの二女として生まれるが、父親が贅沢な生活からどうしても抜け出せず、とうとう自分の屋敷を人に貸して、バースで仮住まいをしなければならなくなる。アンは、すでにマスグローヴ家に嫁いでいた病弱な三女のメアリーに請われて、彼女の住まいに留まることになるが、これもアンの意思というわけではない。興味深いのは、自分の欲望に忠実なサー・ウォルターや三女のメアリーたちが必ずしも肯定的に描かれていないことだ。メアリーは常に体調不良を訴え、わがままでひがみっぽく、アンの大人しい性格につけ込んで、頼りっきりである。他者に振り回されるケアラーとしてのアンが一般的に不人気であるのは、強い自己を誇示しないヒロインが長いこと忘却されてきたこととも関係あるだろう。xi
アンの気配りや他者への配慮がもっとも象徴的に表れる出来事は、海軍士官のフレデリック・ウェントワースとの婚約解消であろう。彼女が十九歳のとき、互いに心を通わせていたウェントワースと婚約していたのだが、彼には財産も、アンを養えるだけの安定した経済力もなかった。亡き母の友人レディ・ラッセルに説得され、アンは彼との結婚を諦めている。ケアや他者への配慮をどのように価値づけるかによって、アンの評価は変わるだろう。オースティン研究においてもそうだ。たとえば、門田守によるアンの評価は両義的で、彼女の決断力のなさを弱さとして批判している。彼によれば、十九歳のアンは「心理的に独立していない女性」である。のちに、より成熟してウィリアム・エリオットという新しい男性が現れたときにも「自分で判断するより」レディ・ラッセルの意見を求めるアンについて、「心理的弱さとも呼ぶべき、指導者への依存性こそが、アンが克服すべき問題である」と彼女の依存性を欠点として貶めている。門田はアンを「エリオット家において唯一の倫理的な女性」と評価しながらも、心理的には脆弱であると結論づけているのだ。xii 他者の意見に耳を傾けないことが「心理的な強さ」を意味する心理学は、おそらくは第二波フェミニズムと基盤を同じくするローレンス・コールバーグが唱える心理学理論であり、多くの研究者が共有してきた前提であろう。
発達心理学者のローレンス・コールバーグは、他者との「結びつき」よりも「分離」を強調し、「個人を第一義的なものとみな」した。xiii そして、キャロル・ギリガンが提唱する「ケアの倫理」が重要視する人間同士の関係性を軽視している。彼の「ものさしによって測る」と、発達心理学的に欠陥があるようにみえる者のなかでとくに目立つのが女性と結論づけられる、とギリガンは批判している(同、24頁)。その上で彼女は、女性たちはアイデンティティを人間関係のなかで定義し、責任と心配りを基準にして評価し、道徳性に関しても、まじわりを経験することから生じると考える傾向があったと報告している(同、282頁)。すなわち、アン・エリオットのこれまでの不人気は、コールバーグ的な基準で彼女の強さ/弱さが捉えられてしまっていたことに依るだろう。レディ・ラッセルによる説得に「依存」してしまうヒロインの判断は果たして「欠陥」だったのだろうか。他者の声、他者の助言に耳を塞ぐことが倫理的であると言えるのだろうか。
二十七歳になったアンがウェントワースと再会するのは、妹のメアリー、義理の姉妹ルイーザとヘンリエッタらが住むアッパークロスに滞在中であった。レディ・ラッセルの意見に耳を傾け、自分との婚約を破棄してしまったアンと再会したウェントワースも、コールバーグ的な分離した自己を過度に理想化している。彼はアンとはまるで正反対のルイーザに好意を寄せ始める。第十章でアンがウェントワースとルイーザの会話を漏れ聞く場面が描かれるのだが、彼はある印象深い比喩を用いている。それは固い殻を持つ「胡桃」(nut)である。拙著の『ケアの倫理とエンパワメント』では、カナダの政治哲学者チャールズ・テイラーの「緩衝材に覆われた自己」(buffered self)を取り上げた。対照的な自己像を彼は「多孔的な自己」(porous self)と呼んでいる。近代社会におけるリベラルな思想のもとで長いこと評価されてきたのは、前者の他者と切り離された自立した自己、他者に左右されない強い自己である。xiv
ウェントワースも近代社会のリベラルな思想の持ち主である。それはそうだろう。家柄、地位、財産にしがみついて生きてきたサー・ウォルターとは違い、そのようなものを一切持たず、身一つで軍人のキャリアによってのみ財産を築いた成功者であるからだ。彼は「胡桃」を「小さな斑点ひとつないし、どこにも弱点がない」固い殻に覆われたものの象徴とみなすのだ。そして、その胡桃をおそらく自分の生き方にも重ね合わせながら、「このつやつやした美しい木の実は、木の実本来の強い力に恵まれて、秋の嵐にも負けずに生き残ったのです」(blessed with original strength, has outlived all the storms of autumn)と形容している。xvまた、ルイーザを相手にこの言葉を発していることを考えると――少なくともこの時点では――彼女のような「強い自己」を称賛していることにもなる。皮肉なことに、ルイーザの自己顕示欲の強い、誤った「強さ」はのちに自滅するのだが。
それはメアリー、ルイーザ、ウェントワース、アンを含めたアッパークロス・コテージの一行が海辺のリゾート地ライム・リージスへ小旅行に出かけた日のことだ。そこで思わぬ事故が起きる。彼らは、ライム海岸での散策を楽しんでいたのだが、ルイーザが石垣の上から突如としてウェントワースの腕の中目指して飛び降りてしまう。そして悲劇的にも彼女は舗道に落ちてしまう。気持ちが動転して、あたふたする一同と対照をなすのが、アンである。彼女だけが、冷静に的確な判断をくだし、その状況に対応することができた。そして、その後も(恋敵であるはずの)ルイーザを親身になってケアするのだ。八年前にアンを弱い臆病な人間だと思い込んでいたウェントワースも、この出来事をきっかけに、彼女の真価に気づきはじめる。
つまり、皮肉にもウェントワースは、ルイーザに面と向かって称え、そして奇しくもアンが漏れ聞いていた固い殻で覆われた自己がルイーザに傷を負わせ、自分の愚かさをも気づかせることになった。さらには、ルイーザの快活さや明るさで見えなくなっていた彼女の無謀さや潜在的な暴力性にまで気づかされる。ウェントワースは、事故の少し前に「胡桃」の比喩を用いて何を伝えようとしていたのだろうか。胡桃の固い殻は、人の決意の固さを表していた。かつて恋仲だったアンがレディ・ラッセルの助言によって自分との結婚をあっさり諦めてしまったことを思い出しながら、彼女が「強さ」(あるいは強情さ、決意の固さ)に欠けていると批判したかったのだろう。他者の声に耳を傾けないことを奨励していたウェントワースだったが、ルイーザが事故にあったことで、軽薄で自分よがりの行動をとる女性を求めてしまった愚かさを知り、他者との意思疎通の大切さを第一に考えてきたアンの価値が理解できるようになったとも言える。

オースティンを高く評価した人物の一人に、二○世紀初頭のモダニズム作家ヴァージニア・ウルフ(1882-1941)がいる。ウルフの『自分ひとりの部屋』の語り手は、自立した個人の代名詞ともなっているシャーロット・ブロンテの『ジェイン・エア』の「個」の「怒り」に対して批判を加える一方で、オースティンの小説は手放しに称賛している。「本棚から『高慢と偏見』を取りながら」、語り手はこう言う。「身びいきするでも男性に苦痛を与えるでもなく、『高慢と偏見』は良い本です、と言えます」。たびたび来客があるたびに、オースティンは小説の原稿を隠していたが、そんなことを「恥じる必要はない」ほどであるという。xvi
ウルフ自身が創造したお気に入りのヒロインは、ミセス・ダロウェイ、ミセス・ラムジー、オーランドーなど、たくさんいるだろう。そのなかでも特別な位置を占めるのがシェイクスピアの架空の妹ジュディスではないだろうか。『自分ひとりの部屋』に登場する、悲運のヒロインである。

彼女〔シェイクスピアの妹〕は、技術を磨こうにも、その訓練が受けられませんでした。(中略)彼女はまだうら若く、シェイクスピアそのひとと不思議なくらいそっくりで、同じように瞳は灰色で、同じように秀でた額をしていました――役者兼経営者のニック・グリーン〔架空の人物〕が彼女に情をかけました。気がつくと、彼女はこの男性の子を身ごもっていました。(同、85~6頁)xvii

ウルフは、ジュディスの物語をハッピーエンドでは終わらせない。彼女は若くして死ぬ。「そう、一語たりと書くこともなく、彼女はエレファント・アンド・キャッスルの向かい側、現在バス停のあるあたりに埋葬されました」(同、195~6頁)。だからといってウルフは、希望がないと言っているわけではない。何百年もの新たなヒロインたちの物語の蓄積によって、また現実の女性たちの政治的、経済的な苦闘によって少しずつ希望がもたらされるようになった。もし「各々が年収五百ポンドと自分ひとりの部屋を持ったなら」、チャンスは到来し、「知られざる先輩たちの生から自分の生を引き出して、蘇るでしょう」(同、197頁)、彼女はそう言っている。
ウルフの創造したヒロインのなかでS F作家アーシュラ・K・ル=グィンが特別に愛した女性登場人物がいる。それはミセス・ブラウンである。ミセス・ブラウンの特徴は、どこにでもいそうな女性だが、心労に満ち、苦悩を抱え込んでいて、男女の性規範に当てはまらない人物である点である。ウルフが『ベネット氏とブラウン夫人』に登場させるこのミセス・ブラウンは、「よく見かけるあの身ぎれいな、着古した服をきた老婦人のひとりだった」。とりわけ男性的でもなく、伝統的な女性というわけでもない。「彼女はひどく小さく、ひどく辛抱づよく見えたが、同時に、ひどくかよわく、ひどく雄々しくも見えた」とウルフは書いている。xviii
二十一世紀に、私たちが過去のヒロインたちに思いを馳せることにどのような意味があるだろうか。『イカゲーム』のセビョクや『ちびまる子ちゃん』のまる子らの新しいヒロイン像を通して、オースティンやウルフのヒロイン像に思いを馳せてみる。そうすると、かつて生きた女性たちが持てなかった参政権や高等教育、自由に選べる職業など、今私たちが「あたりまえ」として享受しているもののかけがえのなさを思う。かつての女性が手に入れられなかった権利について考えることは、今は忘却されてしまったヒロインたちの闘志や無念といった感情を私たちの中に新たに芽生えさせることにもなる。オースティンの『高慢と偏見』のエリザベス・ベネットは“ポスト”フェミニズム的な要素を孕みながらも、第二波フェミニズム的な女性像に近いことで、盤石の人気を獲得してきた。これからはセビョクやちびまる子ちゃんのような“ポスト”フェミニズムをより意識させるようなヒロイン像が求められるのではないだろうか。その中心には『説得』のアン・エリオットやウルフのミセス・ブラウンがいる。彼女らには、華やかさや発言力はない。当時の社会が求めた不可能な要求に対し、戦うことを回避し、なんとか耐え忍び、生き延びようとした声なき声の持ち主の姿を映し出している。もし現代に生きてツイッターをしていたとすれば、人を傷つけることを恐れて、あまり発信できないのではと想像する。極力人を傷つけずに戦うフェミニズムがあってもいいと教えてくれるヒロインたちではないだろうか。

 

    1. 同作はスタント・アンサンブル賞(コメディ&ドラマシリーズ)も受賞している。
    2. ジェス・リー「ネタバレ注意! 『イカゲーム』のセビョク役、チョン・ホヨンが号泣したシーンを明かす」Harper's BAZAAR日本版(2021年10月11日)
      https://www.harpersbazaar.com/jp/lifestyle/movie-tv/a37921936/squid-game-jung-ho-yeon-sae-byeok-ji-yeong-211011-lift1/
    3. 「世界的なヒットをした『イカゲーム』の新しさと古さ 西森路代×ハン・トンヒョン」(文:カネコアキラ、2021年11月20日)
      https://wezz-y.com/archives/93893
    4. 河野真太郎『戦う姫、働く少女』(堀之内出版、2017年)、8頁。
    5. ジェーン・オースティン『高慢と偏見』(上)富田彬訳(岩波文庫、1994年)、77頁。
    6. Faludi, Susan. Backlash: The Undeclared War Against Women. (London: Vintage, 1993), p.68.
    7. Jones, Vivien. “Post-feminist Austen” in Critical Quarterly, vol. 52, no.4. (2010), p.66. McRobbie, Angela. “Post-feminism and Popular Culture” in Interrogating Postfeminism: Gender and the Politics of Popular Culture, eds. Yvonne Tasker and Diane Negra. Durham and London: Duke University Press, 2007.
    8. ここで、「”ポスト”フェミニズム」と表記しているのは、フェミニズムの終焉と誤読されがちな「ポストフェミニズム」と区別するためである。
    9. 竹村和子「「いまを生きる」“ポスト”フェミニズム理論」『“ポスト”フェミニズム』、竹村和子編(東京、作品社、2003年)、106、 163-64頁。
    10. アメリカ合衆国の映画評論サイト「Rotten Tomatoes」が発表しているランキング。Surangama Guha,“Jane Austen's Best Heroines In Movies & TV, Ranked,” Screen Rant (September 14, 2020)
      https://screenrant.com/jane-austen-best-heroines-movies-tv-ranked/
      映画の情報としては以下を参照のこと。『いつか晴れた日に』(アン・リー監督、エマ・トンプソン、ケイト・ウィンスレット主演)、『EMMA エマ』(オータム・デ・ワイルド監督、アニャ・テイラー=ジョイ主演)、『Emma エマ』(ダグラス・マクグラス監督、グイネス・パルトロー主演)、『ノーサンガー・アベイ』(ジョン・ジョーンズ監督、フェリシティ・ジョーンズ主演)。
    11. 文学研究者の間では『説得』の評判はいい方だが、大衆受けするかしないかという基準で翻案映画が人気投票の対象になるときはどうしてもランキングでは低い結果となっている。
    12. 門田守「アン・エリオットは本当に説得されたのか? ─ジェイン・オースティンの『説得』におけるヒロインの心理的自立の獲得について─」『奈良教育大学紀要(人文・社会科学)』第64巻 第1号(2015年)、163頁。
    13. キャロル・ギリガン『もうひとつの声 男女の道徳観のちがいと女性のアイデンティティ』岩男寿美子監訳、(川島書店、1986年)、26頁。
    14. 小川公代『ケアの倫理とエンパワメント』(講談社、2021年)、21頁
    15. ジェイン・オースティン『説得』中野康司訳(ちくま文庫、2008年)、148頁。
    16. ヴァージニア・ウルフ『自分ひとりの部屋』片山亜紀訳(平凡社、2015年)、118-9頁。
    17. 『自分ひとりの部屋』は、ケンブリッジ大学の女学生を対象に行われた講演をもとに書かれている、いわば講演録であって、小説ではない。
    18. アーシュラ・K・ル=グィン「SFとミセス・ブラウン」『夜の言葉 ファンタジー・S F論』山田和子他訳(岩波書店、2006年)、238頁。