よみがえるヒロインたち 小川公代

2022.7.12

02ネオリベラリズムに抗う ケア・フェミニズム

 

1.みくりはフェミニストなのか?

 TBS系ドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』とジェイン・オースティンの『高慢と偏見』は、じつは時空を超えて繋がっている作品である。『逃げ恥』は、失業した主人公の森山みくりが家事代行をしながら生活費を節約するために、恋愛経験の無い独身サラリーマン津崎平匡と契約結婚する物語であり、西森路代によれば、『逃げ恥』の原作者である海野つなみは、この作品で「『高慢と偏見』のような面を描いてみたい」と語っていたという。[1] 言われてみれば、結婚しているにもかかわらず(もちろん契約結婚だが)、みくりと津崎のあいだには信じがたいほどの距離がある。それは、まるでオースティンの小説に描かれる「コートシップ」(婚前の男女交際)を想起させるほどだ。みくりと津崎が契約結婚をしていることを知らない伯母の「ゆりちゃん」がこのカップルについて「他人行儀」だと不思議がるほどだが、津崎の同僚である風見は「僕はあれくらいの距離感がいいと思いますね」と評価する絶妙な距離感である。
 オースティンの生きた十九世紀のイギリス社会といえば、次第に中産階級の間で「リスペクタビリティ」(respectability)という、社会的に“ちゃんとしている”と認められることに価値がおかれ、女性にとっては自己統制能力が試されるような時代であった。すなわち、オースティンの時代の女性たちも(そしてヒロインたちも)「コートシップ」にある程度の距離感が求められ、二人きりで至近距離で言葉をかわすことは許されていなかった。それゆえ、書簡をかわすことによって相手に心の裡をそっと伝え、それで関係性が進展する場合が多かったのだ。女性の意思を無視して大胆さでアピールする『高慢と偏見』のウィッカムのような放蕩者(リベルタン)もいるが、オースティンの小説の主人公たちはだいたいが奥手である。
 『逃げ恥』の第七話中盤でみくりと津崎が一つ屋根の下で壁を隔ててメールのやりとりをする場面は、まるでオースティンの小説を彷彿とさせる。共同生活が仕事の一部であるとはいえ、互いに好意を持ち始めた二人がメールで意思疎通を図る場面は現代的な文脈でいえば、焦ったさを禁じ得ないかもしれない。しかし、彼らの関係が深まるのは「手紙」(=メール)がきっかけであった。このドラマにおける主人公二人を形容するのに用いられるのは、「慎ましい」や「謙虚」、あるいは「かわいい」といった言葉なのかもしれない。第十話で両思いとなった後の浮かれ気味の津崎を見て、みくりは「かわいくてかわいくて……」と男性である彼を評し、一般的に「モテ」女性に用いられる形容詞「かわいい」の意味を拡張させている。「「かわいい」は最強なんです。「かっこいい」の場合かっこ悪いところを見ると幻滅するかもしれない。でも「かわいい」の場合は何をしても可愛い、「かわいい」の前では服従、全面降伏なんです!」と熱弁をふるう。ここで興味深いのは、第二波フェミニズム期にはおそらく女性に忌避されたであろうこの言葉が津崎の性質を表すためにも用いられている点である。二人ともウィッカムのような「男性性」や「大胆さ」を欠いており、恋愛に奥手でなかなか関係性が進展しないのだ。
 あまりに他人行儀な二人を見て気を利かせた伯母の百合ちゃんがペア旅行券を贈り、二人は「社員旅行」のつもりで温泉に出かける。帰りの電車でみくりは津崎から不意打ちのキスをされるが、何もなかったかのように振る舞う津崎に対してとうとうみくりは黙っていられなくなり、津崎に「どうして私にキスしたんですか?」とメールを送る。津崎は数時間後に、「すみませんでした。雇用主として不適切な行為でした」とメールで謝罪する。隣の部屋にいる津崎から送られてきたメールを読み、みくりは再びメールで返している。「形式上は恋人なのでスキンシップの延長でアリじゃないでしょうか?」ドアを開けて伝えればいいものを、あえてメールで意思疎通をはかることにオースティンらしい愛情の伝えかたが見え隠れする。『逃げ恥』は、オースティン的な関係性の距離感を現代におけるケアに基づく新しい関係性として表現したといえる。さらに、驚くべきは、このメール交換の場面が日本の視聴者の間で大きな反響を呼んだことだ。[2]『高慢と偏見』のエリザベスの意中の人、ダーシーは彼女の信頼を踏みにじるような言動をとってしまうが、その後、彼も書簡を送ることによって誤解を解き、関係を修復している。
 『逃げ恥』と『高慢と偏見』の共通点はこのような距離感だけではない。物語の冒頭で、みくりは派遣社員として会社に勤めているのだが、彼女は院卒であるにもかかわらず(あるいは女性で院卒だからなのかもしれないが)、コップ洗いなどの雑用を押しつけられている。派遣で残れるのは二人のうち一人だけという局面で、みくりは上司に見限られ、解雇されてしまうのだが、これはおそらくみくりが正社員から頼まれた雑用を喜んでするようなタイプではないからだ。みくりが正社員、あるいは男性社員であれば社内のケア労働を押しつけられることすらなかっただろう。周縁化される女性/非正規労働者のみくりだから「ノー」といえず渋々ながら引き受けていた。『高慢と偏見』のダーシーは、エリザベスに対して、あなたは僕よりも身分が低いのだから、ありがたくプロポーズを受け入れて結婚した方がいいですよというような高慢な態度をとっていた。今でいうところの「マンスプレイニング」(Man+explain)という男性が女性に説教をしてしまう態度である。また、エリザベスは姉のジェインとビングリーの恋仲を邪魔したダーシーの傲慢さも許すことができない。最終的に、ダーシーが自分の高慢さを恥じ、反省したその真摯な気持ちを書簡にしたためてエリザベスに送ったことで、彼の思いやりやケア精神が伝わり、彼女の愛情を取り戻すことができた。『逃げ恥』も、経済力のある男性(津崎)が心からの感謝をケア実践する女性(みくり)に伝えている。
 みくりはフェミニストなのか? そもそも「フェミニズム」は、一義的定義をすることができない、つねに変容をとげる歴史的諸潮流――第一波、第二波、第三波――の複合体を意味する。そして、フェミニズムは、女性という「性」の再構築と脱構築をめぐって揺れ動いてきた。第二波フェミニズムにおいて主流派を占めたリベラル・フェミニストたちは、「女性」というカテゴリーを解体し、法や文化における性的「平等」を訴え、「ケア」「かわいい」「女らしい」を手放しでは承認しない。つまり、そういう視点からは、会社時代の男性に尽くしたがらない、あるいはささくれ立ったみくりは「フェミニスト」で、津崎と契約結婚をした後のケア実践に積極的に取り込むかわいいみくりは「フェミニストではない」という判断がなされるかもしれない。また、第二波のラディカル・フェミニズムは性抑圧をあらゆる形態の抑圧の根源とする考え方を持ち、労働条件等の改善だけでは満足しない。たとえば、ミス・コンテストもその抑圧の一事象として反対した。たとえば、ニューヨーク・ラディカル・ウィメンという団体の会員のロビン・モーガンは、「ミス・アメリカコンテスト」を男性支配の象徴として批判した。[3] みくりの伯母の百合ちゃんは独身のキャリアウーマンで、アラフィフながら美人で仕事も部下の教育もしっかりこなす魅力的な女性である。石田ゆり演じる「百合ちゃん」はある意味でミス・コンテスト的な「美」を体現しているが、そうであるなら、彼女が「フェミニスト」というカテゴリーからは排除されるのか。
 田中東子は、「第二波フェミニズムから第三波フェミニズムを区別する最良のもの」として「キュートでフェミニンなアイテム」を再流用する「ガール」という概念があることを強調している。そして、その重要なアイコンとして「スパイス・ガール」や「ライオット・ガール」運動などがあった。[4] 英語圏ではようやく1990年代に台頭する「ガール・パワー」は、「じつは、日本のポピュラー文化や評論文化においては、すでに第二波フェミニズム隆盛の時代にもうっすらとではあるが浸透していた」という田中の指摘も重要であろう(同、60頁)。この研究に関しては、大串尚代が『立ちどまらない少女たち〈少女マンガ〉的想像力のゆくえ』(第5回西脇順三郎学術賞受賞)において充実した資料に基づき少女表象の分析を行っている。
 女性たちの「美」「モテ」「かわいい」をめぐっては様々な議論がある。もちろん第二波フェミニズムは、「家庭の天使」とも呼ばれるケアラーだけでなく、男性が客体化するようなセクシーな女性たちを「犠牲者」として捉える「フェミニズム」を掲げていた。「女らしさ」と結びつけられるケア実践や自他の関係性により価値を置こうとする【差異】のフェミニズムはナンシー・チョドロウやキャロル・ギリガンらによって押し進められたが、このような考え方が【平等】を掲げるリベラルフェミニストを含む多数派から敬遠されてきたのも理解できる。しかし、1990年代になると、第三波フェミニズムが台頭し、「犠牲者としての女性という位置づけに共感できないポストフェミニズム以降の若い女性たちが排除されてしまう」のではと違和感を感じるフェミニストたちが増え、新たに【差異】にも光が当てられるようになる。
 リベラル・フェミニストが望んだのは女性にとって市場における雇用労働に従事する機会が拡大されることであったが、大多数の女性は同時に母として妻としての仕事、ケアも行うため、板挟みにあってしまう。キャロル・ペイトマンは、これを18世紀の女性著述家メアリ・ウルストンクラフトのフェミニズムに因んで「ウルストンクラフトのジレンマ」と名づけた。[5] 上野千鶴子は、このジレンマを性的魅力「モテ」の問題に当てはめて説明する。「男に性的に欲望されても女は傷つく。欲望されなくても傷つく」し、[6] 「しごとができればできたで、「女にしては」と評価されるいっぽうで、「女だから」評価されたのだとおとしめられそねまれる」(『女ぎらい』、344頁)。上野が高く評価するAVライター雨宮まみ著『女子をこじらせて』には、雨宮がバニーガールになる経験を通して、男性が美人だけが好きじゃないとわかっても、それ「で、それがわかって救われるかと言ったら、救われない」ことを悟るなど、女性が男目線の欲望を内面化してしまう問題が数々の強烈な例とともに綴られている。[7] 男性の欲望の対象になる女性をめぐるローラ・マルヴィの論を持ち出すまでもないだろうが、今日に至っても女性は「見られるため」の存在という呪縛から解放されず、「性愛的見世物(エロティック・スペクタクル)のライトモチーフ的存在」であり続ける。「伝統的に顕示的な役割をもつ女性は見られると同時に呈示される。このためにその外観は、「見られるため」(To-be-looked-at-ness)ということを暗示するように、視覚的で性愛的な強度の衝撃をもつような形に規則化されている」。[8] 雨宮の「こじらせる」女性の語りは、男性目線の欲望の市場にみずから身を差し出すということの意味を考えさせる。
 このように第三波フェミニズムの文脈では、メディアと消費が「女らしさ」「ケア」「モテ」といった要素と複雑な関係性をむすび、新たな意味を持ち始めている。アニタ・ハリスも指摘している通り、第三波フェミニズムの担い手たちは、二一世紀の「メディア文化」を、ネオリベラリズムが支配する社会における「最大の消費的娯楽」と見ているが(『メディア文化とジェンダー政治学』、16頁)、そこには単なる受動的な、あるいは誘導されやすい「消費者」ではない女性の解釈による創造的な営為があるという視点もある。長田杏奈は『美容は自尊心の筋トレ』のなかで、「婚活メイク」なるものへの批判的視座を提供している。「うんとおしゃれな同業者」が婚活するに際して、「間口を広げるために、コンサバになると宣言」したという。長田によれば、「婚活メイクによってカバーされたアクやえぐみは、裏返せばその人の個性やキャラクターでもある」。[9] 就活や婚活のように、人に「選ばれるためには」、個性すら隠さなければならない抑圧的な日本社会を批判しているようにも思える。「価値観の合わない不特定多数の好みなんて忖度せず、顔面の自由を思いっきり満喫したかった」という長田の意気込みこそ、そのような社会の状況に反旗を翻すジェスチャーに他ならない。「リップは、唇だけじゃなく魂にも塗るものなのだ、きっと」(同、79頁)と吐露する彼女のフェミニズムは、権力が押しつける(アクやえぐみを排除した)規範的な「美」が支配的な日本の風潮に問いを突きつけながら、「リップ」を塗る(メイクをする)ことを魂に塗るような創造性を孕む行為として捉えている。
 今回は、ネオリベラリズム的なメディア文化、あるいは消費社会に迎合する個人という解釈から脱却する方法論として、ガール・パワーに満ちた小説やドラマの表現方法を見ていく。具体的には、『逃げ恥』やスーザン・コリンズの『ハンガー・ゲーム』(The Hunger Game, 2008)といったドラマや小説のなかに見出される批評的、創造的な営為である。とりわけ後者のディストピア小説がいかに第三波フェミニズムのケアする相互依存のユートピア的可能性を描いているかを示したい。

 


[1]  「 “恋愛”の今は 第四回 小川公代×西森路代 ドラマに息づくケアの遺伝子」『文學界』(2022年3月号)、192頁。

[2] 「「逃げ恥」みくり×平匡さんの“ドア越しのメール”にムズキュン最高潮」(モデルプレス、2016年11月23日)
https://mdpr.jp/news/detail/1638602

[3]  『性の政治学』(1970年)で知られるケイト・ミレットもこの団体に所属していた。栗原涼子「ニューヨークにおけるラディカルフェミニズムの運動と思想」『学苑』総合教育センター国際学科特集 No.835(2010)、78頁。


[4]  田中東子『メディア文化とジェンダー政治学』(世界思想社、2012年)、59頁。

[5]  Carole Pateman, The Disorder of Women (Cambridge: Polity Press,1989), p.197.

[6]  上野千鶴子『女ぎらい にっぽんのミソジニー 』(朝日文庫、2018年)、340頁。

[7]  雨宮まみ『女子をこじらせて』(ポット出版、2011年)、85頁。

[8] ローラ・マルヴィ「視覚的快楽と物語映画」斉藤綾子訳『イマーゴ imago マインド・サイエンスの総合誌』特集=映画の心理学、1992年Vol.3-12(青土社)、45頁。

[9] 長田杏奈『美容は自尊心の筋トレ』(Pヴァイン、2019年)、78頁。