猫と詩人 佐々木幹郎

2019.2.20

11僧侶となったミーちゃん


 動物病院に、手術を終えたミーちゃんを引き取りに行った。怪我をした左後ろ足の指先を見せてもらうと、黒い糸で五針、縫われていた。
 「想像していたより、昨夜は暴れませんでしたね」と医師は言った。ということは、ある程度、暴れたのだろう。「ええ、ちょっと。一晩中、鳴き声がうるさかったです」と言いながら、彼は笑った。いい先生である。
 血液検査をして、抗生物質の注射を打ったが、抗生物質がどこまで効くか、他の猫より免疫機能が弱いですから、と言われた。血液検査の結果、ミーちゃんは「猫エイズ(猫免疫不全ウイルス感染症(FIV))」のキャリアであることがわかったらしい。
 「エイズ?」
 わたしは驚いて、声をあげた。
 「発症しているわけではありません。猫エイズは人間には感染しません。キャリアであるということは、いつか発症するかもしれないということで、猫が死ぬまで発症しないこともあります。これは猫によってさまざまで、わからないのです。ただ、免疫機能が弱いので、感染症には今後とも要注意です」
 あまり知られていないことだが、猫の八〇%は「猫エイズ」のキャリアである、ということなのだ。猫同士の喧嘩で感染する場合もあるし、親からの遺伝の場合もある。ミーちゃんがそのどちらであるかはわからない。
 なんと! ミーちゃんが猫エイズのキャリアであるとは。
 対症療法はないという。なるだけ猫にストレスを与えず、リラックスさせる生活環境が一番だという。ウイルス対策の混合ワクチンを一年に一度くらい打って、免疫機能を維持、あるいは少しでも高める以外にないらしい。
 「わかりました」とわたしは答えた。ミーちゃんがいつかエイズを発症しても、最後までつきあうことに決めた。
 車で帰宅する途中、キャリーバッグのなかのミーちゃんは、エリザベスカラーをしたままだと、狭苦しいのだろう、あいかわらず暴れて鳴き続けた。これもストレスに違いない。申し訳ないが、しばらく我慢しておくれ。エイズでも、ミーちゃん! 長生きしようね。
 その日から二週間ほど、抜糸するまで、二日に一度、左後ろ足の傷口を消毒し、包帯を巻きなおすための病院通いが始まった。
 ミーちゃんの外出禁止令が病院から出ているので、家では普段、猫の出入り口用に開けていた窓を締め切った。一日に一度、抗生物質の内服液を餌に混ぜ、消炎鎮痛の錠剤を一粒、こまかく砕いて、これも餌に混ぜて食べさせた。
 エリザベスカラーをしたミーちゃんは、左右の感覚がうまくとれないので、あちこちにぶつかりながら、よろよろと部屋のなかを歩く。かわいそうでもあり、おかしくもあった。


 当然、外出したがった。いつも出入り口にしている窓辺に坐り、わたしに向って「外に出してよ!」と鳴き続ける。わたしが無視していると、諦めたように、ガラス越しに外の景色を見たりした。窓の外には、彼女がよく登る中庭の紅葉の木があった。その木の枝の先を見上げている。カラーをしたままのその姿がなんとも、いじらしい。
 夜、彼女がカラーを巻きつけて猫鍋に入って寝ている姿は、悟りきったヨーロッパの僧侶のような雰囲気を漂わせていた。そしてどこか、エロチシズムの香りさえあった。抑圧されている猫のその装束が、そんな不思議な感覚をニンゲンに呼び起こすのだろうか。


 食事のときや水を飲むときだけ、かわいそうなのでカラーを外してやった。しかし、ちょっと目を離すと、グルーミングをしているふりをして、また左後ろ足を舐めて包帯を外そうとしている。油断もすきもない。もはや、彼女の左足の太ももは、包帯の周囲の毛が抜け、皮膚も赤くなっている。「あっ!」とわたしが声をあげて、カラーを持って近づくと、逃げ出すようになった。
 そんな追いかけっこなら、まだよかった。一番、大変だったのは、オシッコとウンチの問題である。猫用のトイレを三つ用意して、部屋のさまざまな場所に置いたのだが、なんと、ミーちゃんが一番好んだトイレは、ベッドの布団の上であった。
 朝、ミー、ミーという小さな鳴き声がベッドの下からするので起きると、布団の一部が濡れている。彼女がさきほどまで寝ていた場所だ。申し訳ないと思っているのか、ミーちゃんの鳴き声は極端に小さい。とりあえず、オシッコをしてしまったことをわたしに知らせたのである。
 すぐに布団のカバーを外し、布団とその下にあった毛布を洗濯した。しかし、まずい習慣がついたものだ。今後のオシッコ対策のために、布団のカバーだけ二枚重ねにし、その下に毛布。毛布の上に何枚もペットシートを敷いた。布団は毛布の下にした。やるのなら、しかたがない、という心境だった。それ以降、彼女は一日に二回、あるときは三回、布団カバーの上にオシッコをした日もあった。そのたびにコインランドリーに出かけた。
 なかなか、ウンチをしないので、どうしたものかと思っていたら、ある朝、やはり布団カバーの上に、コロンと転がっていた。このときは、「ああ、出た! 出た!」と喜んだ。怒る気はまったくなかった。ただ、いい加減、疲れる。いつになったら、猫用トイレを使ってくれるのだろう。猫用トイレの位置をいろいろ変えて試してみたが、彼女が布団の上にする習慣は、いつまでも治らない。
 しかし、あるとき、わたしがトイレの便器に坐っていると、ミーちゃんがわたしの足元にやってきて、うずくまったことがあった。それまでも彼女はわたしがトイレ室に入ると、足元にやってきていた。ドアを閉めておくと外から泣き続けたので、ドアを開けたのがきっかけだった。ニンゲンはここで何をしているのか、気になるらしい。彼女がわたしの後について入ってくるたびに背中を撫ぜてやっていたのだが、今回は、うずくまったのである。ミーちゃんのオシッコのタイミングとわたしのトイレタイムが、うまく重なったようだ。あ、やるな、と思った瞬間、彼女は足元のマットの上に、そっとオシッコをした。上出来である。オシッコの後、前足でマットをクルクルと巻いて濡れた部分を隠した。砂でもかけているつもりだったのだろう。わたしはミーちゃんを褒めちぎって、全身を撫ぜてやった。
 しめた。この習慣がつけば、トイレ用マットの上にペットシートを敷けばいい。濡れるのはシートだけだ。トイレ室のドアを開けたままにしておくと、やがて、そこにウンチもしてくれるようになった。ニンゲン用トイレ室が猫用トイレ室になったのだ。
 というふうにして、僧院に閉じ込められたような、「僧侶」ミーちゃんのトイレ対策がやっと完了するまで、一カ月近くかかったのだった。


(第11回・了)

 

この連載は月2回更新でお届けします。
次回2019年3月5日(火)掲載