猫と詩人 佐々木幹郎

2019.7.20

18駄猫ミーちゃんの幸福


 駄猫である。ツイラク・ミーちゃんがわたしのベッドに寝ている。その寝顔を見ながら、ノドを撫ぜ、オナカを撫ぜ、首筋から尾っぽまでの背中を何度もさする。そのたびに彼女は寝返りを打って、だんだんわたしに近づいてくる。やがて小さな舌でわたしの手を舐め始める。それが彼女のお礼のシルシである。撫ぜるのはもういい、眠たいから、と彼女が思ったときは、両足でわたしの手を押しのけて遠ざける。そのとき、片目だけをあけて、わたしの様子を見ている。
 ミーちゃんはいつもわたしの足元に寝ている。わたしのアタマのほうには寄ってこない。これまで飼った猫のなかには、平気で布団のなかに入ってきたり、わたしと枕を並べて寝るヤツもいた。しかし、ミーちゃんは絶対にそうしない。足元が好きなのだ。
 眠るとき、あるいは目覚めたとき、この猫がいなかったら、わたしは寂しい。たんなる駄猫なのにこの世界でもっとも可愛らしい。気品がある。スレンダーな身体つきで、着ている毛皮がファッショナブル。などと考えながら、ミーちゃんを見ている時間が好きだ。
 彼女がいなかったら、寂しいと言ったが、ほんとうにそうだろうか。ミーちゃんは野良猫出身だから、いつかいなくなるときがあるかもしれない。外出先で死んでしまうかもしれない。そのとき、わたしは歎くだろうが、すぐに別の子猫を手に入れてしまう可能性がある。ミーちゃんは思い出だけになる。では、わたしの寂しいという感情は何なのだろう?
 ミーちゃんの側から考えてみる(そんなことは出来ないのだが!)。彼女はわたしと一緒にいるとき、空気のようにわたしが彼女の横にいるのがあたりまえ、という顔をしている。しかし、わたしがいなくなったとき、彼女はヒトリで生きていく方法をすぐに編み出すに違いない。これは確実だ。それが猫だ。寂しいと思うかどうか、あやしい。そのお互いがヒトリヒトリ、という関係を見せつける猫という存在が、わたしはどうやら、たまらなく好きらしい。ただ、いま生きているだけで充分、という猫の世界の幸福。

 四日間ほど、家を留守にして浅間山麓の山小屋にいた。山でも東京でも、大雨が降り続いた。大雨の東京に残してきたミーちゃんはどうしているだろう、と山小屋の窓から外を見ながら、一瞬、不安がかすめることはあったが、野良猫はニンゲンよりも強いのだ、とすぐに打ち消した。そして忘れた。
 雨がまだ降り続くなか、夕方、東京に戻った。当然、ミーちゃんはどこにもいない。呼んでも戻ってこない。アパートの三階に住む猫好きの夫婦に、ミーちゃんの餌を託しておいたのだが、二階のベランダに置いた餌箱には、少量の餌が残っているだけだ。
 しばらくして三階に住む奥さんが、わたしが託した餌袋を持ってやってきた。「あんまり三階まで上がって来なかったのですよ」とおっしゃった。餌袋を見ると、ほとんど減っていない。では、彼女はどこで何を食べていたのだろう。
 いつもはわたしの部屋に電燈がつき、足音や物音が聞こえ、中庭に向って彼女を呼ぶ声が聞こえると、二時間以内にミーちゃんは帰ってくるのだが、この日はいつまで経っても戻ってこなかった。雨は降り続いている。雨の間は、猫は外出を嫌がるので、たぶんどこかで寝ているのだろう。
 六時間経っても、ミーちゃんは戻ってこなかった。このあたりで少々、不安になってきた。あらゆる悪い想像がアタマを駆けめぐる。車に轢かれてしまったか。怪我をしたのか。死んでしまったか。しかし、かつてわたしが武蔵野の林のなかで七匹の猫とともに住んでいたとき、外出した一匹が戻ってこないまま一カ月経って、当たり前のように戻ってきたこともあった。四日間くらい、猫はご飯を食べなくても平気なはずだ、などと、自分の心を落ち着かせた。
 七時間経った。ふいに雨の止んだ中庭のほうから、ミー、ミーとかすかな声がした。二階のわたしの部屋に向って呼びかける声だ。慌ててドアを開け、彼女の名を呼ぶと、ミーちゃんはゆっくりとベランダに上がってきた。
 わたしの顔を見ないで、ドアの外から部屋のなかをうかがっている。背中がちょっと濡れているだけで、やはりどこかで雨宿りをしていたらしい。それから餌も食べないで、部屋の隅々の匂いを嗅いで、そのたびにミー、ミーと小さく鳴き続けた。安心したとき、甘えるときの声だ。やはりわたしの顔など、見向きもしない。背中を布で拭いて撫ぜてやる。よく帰って来たね、どこで何をしていたの?
 それを言うなら、アンタこそ、どこで何をしていたのよ! とニンゲンなら反論するだろうが、ミーちゃんはそんなことしない。撫ぜられて、ノドをグルグル鳴らしているだけだ。部屋の隅の餌箱に首を突っ込んでカリカリと餌を食べだしたが、少し食べただけで、いつもの猫鍋に入って眠りだした。空腹ではない。どこで何を食べていたのか謎である。
 明け方、野良の雄猫クロが窓から入ってきた。ミーちゃん用の餌を食べ、どうしたことか、わたしのベッドの近くまで歩いて来た。そして、ミー、ミーと可愛らしく鳴いて、窓から外へ出て行った。いつものクロはギャオー、ギャオーと鳴くのに。ミーちゃんはベッドの上で黙って見送っている。
 なるほど、この四日間、ミーちゃんは恋人クロと一緒にいたのかもしれない。心配するんじゃなかった。




(第18回・了)

 

この連載は月2回更新でお届けします。
次回2019年8月5日(月)掲載