猫と詩人 佐々木幹郎

2019.8.5

19夏の猫

 

 ツイラク・ミーちゃんは夏になると、一日中、外にいる。風が吹く二階のベランダや、中庭の見える屋根の上で、優雅に昼寝をする。朝顔の花が風に逆らいながら咲いている。
 花と緑の葉に囲まれて、三毛猫ミーちゃんが寝ている姿は、ただそこに、三色の雑巾が落ちているみたいだ。だが、よく見るとそれがゆっくり息をしている。眺めていると、生き物って、いいなあ、とわたしはただ単純に感動してしまう。
 思わず微笑んでいるわたしがいる。あっ、わたしはいま、笑っているのだ、と気づくときがある。猫という小さな生きものがそうさせるのだ。このやわらかな固まり。

 リラックスしている猫を見て、わたしがなぜ微笑むのかはよくわからない。ニンゲンは自分に似た表情やパフォーマンスをする動物を見ると、本能的に笑う生きものだ。猫がいなかったら、わたしは一日中、笑顔を見せることがほとんどないに違いない。
 ミーちゃんが一番リラックスする場所は、二階のベランダに出した寝椅子の上にわたしがいて、そのまわりに彼女がいるときである。広いベランダの周囲には網状のフェンスがある。そのフェンスに朝顔の蔓が巻きついている。フェンスの向こう側に、一階の屋根が少し出ていて、彼女はその上にいることが多い。そこからなら、いつもわたしの顔が見えるし、フェンス越しなので、適当な距離をとることができる。ニンゲンの近くにいたいが、ベッタリするのは嫌だ、とミーちゃんは考える。
 彼女のいる空の上には、中庭の大きな枝垂れ紅葉の葉が繁っているから、夏の炎天下でも大きな陰を作ってくれる。
 中庭の樹木は、巨大なケヤキの樹を中心に、これも巨大な枝垂れ紅葉、そして年々大きくなるザクロ、梅の木などがある。ザクロはもう実をつけ始めている。ケヤキの樹の幹には、緑のツタが生い茂っていて、一面の色とりどりの緑の葉が、風に揺れる。その葉の一枚一枚が、夏になると肉感的になる。
 都会の真ん中なのに、この空間に包まれていると、世の中からすべて絶たれているような心持ちになる。それでよいのだ、都会にいても、森の中にいるように生きる。そうすべきだ、と夏の植物たちは教えてくれる。

 夜じゅうかれの家の窓に
 明かりが灯っている。
 山かげの森のなかだ。
 灰色のフクロウが

 狩りをする。ヤマネズミの
 悲鳴が聞こえる――
 大きな暗闇のなかの
 そんな小さな声でも

 かれには苦痛となる。
 かれには一切が苦痛、
 苦痛。新しい危害を
 みんな引き寄せて

 そうしなければ
 ならないように
 しょいこんで耐える。
 彼は無だ。見張る

 目そのものとなる。
 かれらはそれを
 知っているらしい――
 ヤマネズミも、飛ぶ

 フクロウも、森も、山も、
 夜じゅう詩人の明かりの
 静寂のまわりで
 活動している。

 アメリカの詩人、ヘイデン・カルースの「詩人」という作品(沢崎順之助、D・W・ライト訳)である。世界中の悲劇をしょいこんだようにして生きる、というのが詩人の仕事なら、フクロウもヤマネズミも、森も山も、詩人のフィクションのなかで、妖怪のように動きまわる。そして詩人なる者は、「無」そのものとして、「目」となって、その活動を見張る。耳をそばだてる。少々、詩人なる者をからかっている気味もあるのだが、わたしの好きな作品だ。
 実際、わたしが浅間山麓の山小屋にいるときは、これとよく似た生活をしている。フクロウがヤマネズミを狙うだけではなしに、タカがウサギを狙い、クマやイノシシ、シカやキツネはしょっちゅう現れるから、わたしはいつしか森の中で、「目」となって見張っている。
 そのとき、わたしには笑顔がないのである。ヘイデン・カルースのように「苦痛」とまでは言わない。ただ、驚き、だけがある。自然に対する驚きと、生命に対する畏敬だ。畏敬があって初めて、他者の痛みがわかる。
 都会の真ん中で、アパートの中庭の樹木から森を想像しているとき、わたしは詩人なのか? 猫を見て微笑んでいるわたしは誰なのか? 
 山小屋で、霧のなかから突然現れたキツネと目が合ったとき、驚いたキツネは一瞬立ち止まり、わたしをふいに無視した。ふふふ。詩人なる者は、キツネや猫に比べれば「無」であることは確か。
 都会においても、夏の夜じゅう、わたしの書斎の静寂のまわりで飛び回り、活動しているモノたちのなかに、やはり、ツイラク・ミーちゃんもいるのである。


(第19回・了)

 

この連載は月2回更新でお届けします。
次回2019年8月20日(火)掲載