猫と詩人 佐々木幹郎

2018.12.20

07そもそも猫とのつきあいは


 そもそも関西で生まれ育ったわたしが、東京に住むようになったきっかけは、猫だった。奈良で生まれ、大阪で育ち、大学時代以降、京都に住んでいたわたしは、社会人になってから、猫好きの先輩詩人の家の間借り人になっていた。大学時代から同棲していた女性と一緒だった。大家さんはニンゲンよりも猫を大事にしていた。それに影響を受けてしまったのか、わたしの同棲相手の女性が、加茂川の河原で生まれたばかりの子猫を拾ったのである。二人で子猫の世話をしながら過ごし始めてしばらくしてから、大家さんが、悪いけれどあと一カ月で出て行ってほしい、とわたしに告げたのだった。
 大家さんは離婚直後だった。一戸建ちの家の他の部屋が空いているから、間借り人にならないか、とわたしたち二人を誘ってくれたのだったが、どうやら新しい恋人が出来たらしい。そうなれば、しかたがない。わたしは子猫と一緒に住むための貸家を探し始めた。
 大阪はわたしの出身地だが、大阪に戻る気はなかった。それまで住んでいないところに移りたくて、京都や神戸の貸家を探した。関西を離れる気はまったくなかった。猫を飼うためには一戸建てがいい。長屋でもいいけれど、なるべく小さな庭があるほうがいい、などと、贅沢な条件で探し始めたのだった。
 しかし、関西の賃貸住宅の契約条件というのは、いまでもそうだが、敷金と礼金がべらぼうに高い。家賃の数倍から十倍もの値段を要求される。後で知ったのだが、これは関東と関西の文化の違いだろう。江戸時代からそうなのだが、東京の間借り人は、頻繁に引っ越しをした。しかし、関西の間借り人は、簡単に引っ越さない。そのことが敷金・礼金のシステムの差に残っているのである。もちろん、敷金は家を出るときに返却される。その間の金利は大家さんのものになる。
 いい条件の家が見つかっても、わたしには高額の敷金と礼金が払えなかった。困り果てていたとき、その頃、わたしと一緒に映画を作ろうとしていた東京在住の映画監督が、いっそのこと東京に来てはどうか、と言ってくれたのである。彼の親戚が東京の国分寺で不動産屋をやっていて、ちょうどいい物件がある、というのだ。2DKの一戸建てで、小さな庭があり、近くに武蔵野の林が残っている。家賃も手頃で 敷金と礼金も一カ月分だけ。
 家を出て行く期限が近づいたとき、この話を聞いて飛びついた。現地を見に行って、納得した。周囲に樹木が多く、ここが理想的だと思った。
 関西人はもともと、畿内以外の地に移ることを嫌うものだ。わたしもそうだった。一生、畿内に住むつもりだった。東京というのは、東夷(あづまえびす)が住む野蛮な土地である。江戸以降の成り上がり文化で、歴史が浅い、などと考える風習がしみ通っていた。すでにモノカキになっていたが、馴染みになった出版社の編集者は来てくれるし、京都にいて困ることはなかったのである。
 二十代はじめのそのとき、猫がいなかったら、わたしはいまも関西のどこかに住んでいたはずだ。しかし、人生というのは何が起こるかわからない。
 わたしは同棲相手の女性と二人で子猫を抱え、満員の新幹線の通路に座って上京した。難民のような気分になった。友人も少ない未知の土地に移り住む不安は、新幹線の揺れとともに、わたしにも彼女にもいや増すばかりだった。
 京都を離れるとき、送別会をしてくれた友人たちの誰もが、「何で、都落ちするの?」と、真顔で聞いてきた。京都人は、京都に来ることを「上洛」と言い、京都から離れることを「都落ち」と言う。そう、わたしは猫とともに「都落ち」して、東京に移ったのである。
 武蔵野の一軒家は、快適だった。わたしの猫は武蔵野の林を走り回り、何度もお産をした。あるときは七匹の猫とともに住んでいたこともある。母猫(ムッちゃんと名付けていた)が外から戻ってくると、わたしの書斎の窓から部屋に入る。そのたびに彼女の足を拭いてやった。ムッちゃんの後ろから、ゾロゾロと子猫たちが入ってくる。彼らの足も順に拭いてやった。七匹目を拭き終わると、最初に入ってきたムッちゃんが餌を食べ終わって外へ出て行く。すると子猫たちも後をついて、外に出る。考えてみれば、わたしは武蔵野の林の一軒家で、一日中、机の前に坐り、猫の足を拭く生活をしていたのだ。
 原稿料だけではもちろん食べていけず、お金がなくなるとボーリング地質調査という、肉体労働をしたりした。筑波連山の東電の送電鉄塔を建てるために、その基礎となる地層をボーリングすることが多かった。筑波の山の上でも、三百メートルほどパイプで掘り下げると、最初に富士山の火山灰の地層(関東ローム層)の黒土、そして最後に、太古の海岸の青い砂や貝が出てくる。遠くに富士山が美しく見えた。北斎の版画が富士山を題材にする理由がよくわかった。関西人のわたしは富士山を見ることがなかったのである。関西のどこの銭湯の壁絵にも富士山はなく、天の橋立が多かったのだ。筑波山の上で、関東平野の雄大さを初めて知って、東夷と軽蔑していたその土地に、わたしは素直に感動した。
 独立プロダクションで作った映画は「眠れ蜜」と題されて完成し、その後、全国各地を回って上映された。この映画は、中原中也の恋人だった元女優の長谷川泰子さんが出演したこともあって、いまも山口の中原中也記念館で上映される機会が多い。
 京都から連れて来た猫のムッちゃんは長寿を保ち、老衰して病気がちになり、あるとき、わたしの膝の上で死んだ。彼女が死んだとき、部屋の天井の隅にかかっていた蜘蛛の巣が、風もないのに、ふんわりと揺れるのが見えた。ああ、あそこを通って彼女は天国に行ったのだ、と思った。
 ムッちゃんが死んでから、わたしはその一軒家を離れることになった。猫というのは、一家の柱時計のような役割をしている。柱時計が毎日、一定の時間を刻むように、猫は毎日同じ日常が続くことを願っていて、その通りを生きる。しかし、そのように長年一緒に過ごした猫がいなくなると、その家の中心がなくなったような気分になる。何かがスッポリと抜け落ちるのだ。それと連動したように、それまでわたしと一緒に過ごしていた女性とも、別れることになった。わたしのまわりから、猫と女性が一斉に姿を消したのだ。何が起こったのか、間抜けなわたしは、しばらくはその意味がわからなかった。ともかく、わたしの二十代はこのようにして終わった。
 それから、練馬区の住宅街にあるアパートに移り住んだ。ここでは猫を飼うことができなかった。アメリカのミシガン州にある大学に赴任することになって、デトロイト郊外で半年間住んだこともあるが、そこでも猫とは無縁だった。
 アメリカから戻って来て、隅田川左岸の永代橋の近く、深川地区の倉庫街に移り住んだ。都内の狭苦しい住宅街がいやになって、東京の空がもっとも大きく見え、夕陽が水平線近くに落ちる隅田川の河口風景が気に入ったのだ。ミシガン州の広大な原野を見慣れた眼には、隅田川の水と東京湾から川の上流に向かって吹き抜ける風、その上の広大な空が、しっくりと馴染んだのだ。そしてその深川の地で、路地に住む野良猫たちと出会ったのだった。

 

(第7回・了)

 

この連載は月2回更新でお届けします。
次回は年明け2019年1月10日(木)掲載