猫と詩人 佐々木幹郎

2019.1.20

09ツイラク・ミーちゃんの災難


 十二月の土曜日の夜のことだった。いつものように外で遊んでいたミーちゃんが、少し開けておいた窓から部屋に入ってきた。トンとリビングの床に降り立つ足音が聞こえた。わたしは椅子に坐ったまま、しばらく本を読んでいたが、ふと、目を床にやると、鮮血が一カ所に固まって落ちている。どうしたんだ! そこから点々と真っ赤な血液が、隣の部屋まで続いている。
 驚いて隣の部屋に入ると、ミーちゃんがベッドの上で左後ろ足の指をしきりに舐めていた。よく見ると、左後ろ足の四本の指のうち、一番外側の指と外側から二番目の指の間が大きく裂けていて、細い足指の骨まで見えているのだ。まるで鶏の「手羽先」を齧って、骨が出ているみたいだった。ミーちゃんがいくら舐めても、傷口から鮮血は流れ出ている。
 わたしはパニックになった。何をした! 何を! 最近、隣家が取り壊されて空き地になった。そこに家を新築するための工事用の道具がいくつも転がっている。そのどれかに後ろ足を引っかけたのだろうか。それとも、野良猫の誰かに追いかけられて、高い所から飛び下りた拍子に、鋭い刃先を持つ金属製のものに指を裂かれた? そういえば、古いブリキの屋根材がむき出しのまま、転がっていたな、などなど、思いつくことは次々と浮かんだ。
 何よりも、こんな大怪我なら、病院に連れて行かねばならない。慌ててスマホで近くの動物病院を調べたが、どこも土曜、日曜は休診日だ。動物専門の緊急病院を調べると、車で一時間以上かかる遠くの町に一軒あって、二十四時間開いているが、初診料二十万円以上、とあった。なんという、値段の高さだろう。もう、それでもいいから、診てもらおうかと考えた。このへんが猫好きの人間の弱点である。平常心を失ってしまうのだ。
 しかし、と、困った。ミーちゃんはこれまで野良猫として生きてきたのである。彼女は独立独歩であり、わたしがどこかへ彼女を連れて行くこともなかった。だから、猫用キャリーバッグなど持っていない。どんなふうに、病院へ運んだらいい?
 わたしのアパートの上の階に、猫好きの一家が住んでいるが、そこの若い主人が難病にかかった彼の老猫をキャリーバッグに入れて、頻繁に病院に連れて行っていたのを思い出した。その老猫が、最近、ついに亡くなったのである。十年がかりの闘病生活だったと聞いた。彼にこんなとき、どこの病院に連れて行けばいいか、聞いてみよう。
 わたしは慌てて三階へ行き、ミーちゃんの大怪我を伝えた。彼はすぐにわたしの部屋まで来てくれた。ベッドの上にいるミーちゃんを見て、「この怪我なら、大丈夫ですよ。死にませんから」と言った。病気の猫と長年つきあってきた貫祿があった。「まず、消毒して、包帯をグルグル巻いて、止血です。病院へ連れて行くのはそれからにしましょう」
  的確な判断だった。「うちの亡くなった猫に使っていた包帯がありますから、それを使ってください」
 わたしは彼が見守るなかで、嫌がるミーちゃんを無理やり押さえつけて、ベットから引き下ろし、床に寝かせ、傷口にオキシドールを何度も注いだ。傷口にしみて痛がるかなと思ったが、ミーちゃんは目を細め、気持ち良さそうだった。そんなこともあるんだ。
 傷口はパックリと割れていて、骨の上の皮膚と肉がめくれ上がっている。ふむ、やはり、どう見ても手羽先状態ではないか。めくれあがった皮膚と肉を元に戻して、骨の上に皮膚の蓋をして、ガーゼをあて、包帯を巻いた。一人で彼女を押さえつけて巻くのはムツカシイ。足を捕まえながら、包帯を都合のよい長さにハサミで切るのがムツカシイ。包帯の上に巻くテープは裏側に薄く接着剤がついている。まだ巻き終わっていない包帯の先端が猫の毛にまとわりついて、左足の先端だけを筒状にくるんで巻きつけるのは、さらにムツカシイ。ミーちゃんは、わたしがモタモタしていると、嫌がって暴れた。包帯はすぐに外れてしまう。
 見守っている彼が、「怒ってはいけません。誉めてやってください」と言う。彼が見守るだけで手伝わないのは、いつも慣れている人間以外の他人に触られることを一番嫌う、野良猫の習性をよく知っているからだった。
 「エライ、エライ! ミーちゃん、大丈夫だよ」と誉めながら、わたしは腕力で押さえつける以外になかった。ここまでは、夢中だった。ともあれ、やっと左後ろ足の先端部分を、筒状に包帯とテープで縛りつけたのである。血は止まった。
 「ああ、なんだか懐かしいな、と思ってしまうんですよ」と、わたしがミーちゃんを押さえつけてバタバタと慌てている最中、彼はそんな感想を洩らしたりした。ずいぶん大物である。そういうヒトだったんだ、とこちらも改めて知ったのが、おかしかった。
 猫の怪我や病気に慣れていると言う。止血したなら、今晩、病院に連れて行かなくてもいい。日曜日にも診療している近くの動物病院がある、ということを彼が調べてくれた。すぐにスマホで予約した。高額の診察料をふんだくる動物病院がいかに多いか、彼は自分の長年の経験を教えてくれて、「もう使わないので、あげます」と言って、猫用のキャリーバッグを持ってきてくれた。
 「猫はもう飼わないの?」と聞くと、「飼いません。やれるだけのことをやったので、思い残すことはない」と言った。「これで親子三人で旅行もできます」とも。彼には奥さんと高校生の娘さんがいる。難病の老猫がいたため、家族で旅行に出るときも、誰か一人が看病のために家に残るという生活が、長年続いていたのだ。
 ミーちゃんは、猫鍋のなかに入って、しきりに包帯の端を齧り始めた。気持ちが悪いので、外そうとしている。ミーちゃんにとっても、わたしにとっても、疲れ果てる災難がしばらく続く、その序曲が、この夜始まったのだった。


(第9回・了)

 

この連載は月2回更新でお届けします。
次回2019年2月5日(火)掲載