私のイラストレーション史 南伸坊

2016.6.29

11つげ義春事件

 

 芸大の試験に通るには、石膏デッサンを習っておかないと……っていう「常識」を知ったのは、一回失敗した後だった。御茶の水美術学院の先生は、芸大出身で芸大の助教授だったりする人が多いから、そこに通うのがよかろう、ということだったから、バイトをしながら、そこへ通うことにした。
 御茶の水の駅前に、東販っていう取次店の配送センターがあったので、そこで梱包のバイトをすることにしたのだ。キャラメル包み、といって、キャラメルを包むのと同じやりかたで、大きなハトロン紙に折り目を入れながら、雑誌の束を包むバイトだ。私は今でも、このバイトのおかげで、すばらしくキレイに物を包むことができる。私がハッキリ自慢できる技術で、だから必ず自慢する。自慢する度に笑われるけど。
 荷物の山から、包装紙の上に、雑誌の束が置かれると、瞬時にキャラメル包みでくるまれる。と同時に脇から送り先のラベルが貼られ、間髪をおかずにそれを引きとって結束機でグルングルンガチャン、グルングルンガチャンと紐をかけ、投げるように高速のベルトコンベアにのせられるという寸法だ。
 まァ、今ならきっとロボットがしている作業だろうが、みんなマジメに優雅に迅速に作業をこなして、あたかも踊りの一団のように滑らかに動いていた。
 休み時間に話していたら、とても不愛想に見えた学生さんが、実は私と同じカツーン好きだったりして、二人で海外のマンガ家やマンガの絵やアイデアの話をするのが、とても楽しかった。
 芸大受験のための予備校みたいな、この、御茶美での2年間も、あんがい楽しかった。芸大の受験は、都合三回受けたが、ことごとくかすりもせずに落ちた。
 結局、芸大はあきらめて、無試験の「美学校」に入ることにしたのだったが、ふりかえって考えてみると、なるようになったのだし、この時期の2年間も、なくてはならない時間だったのが今ではわかる。
 高校の時の友人とは、そのままのつきあいが続いていた。「最近、また『ガロ』読んだら面白いんだ、つげ義春っていう人のマンガがとってもいい」と教えてくれたのは、またもや松ちゃんだった。
 すぐ書店に行って立読みをしたのが1967年の5月。『ガロ』の6月号にはつげさんの「李さん一家」が載っていた。

李さん一家模写

『李さん一家』よりヘタ模写


 読み終わってポカンとしてしまった。こんな面白さって、初めてだな、と思った。あの頃はほんとに貧乏だったんだな、と今思う。あれほど感激したってのに、その『ガロ』を私は買っていない。買わずにものすごい勢いで、その頃住んでいた亀戸に帰った。
 近所にあずま図書館っていう区立の図書館があって、そこに『ガロ』のバックナンバーが揃って本棚にささっているのを覚えていたからだ。高校時代あんなにみんなでうばい合うようにして読んでいたのに、しばらく『ガロ』から遠ざかっていて、知っていながら読んでなかったのだ。
 私は家にも寄らず、図書館に直行して『ガロ』のささった棚の前に、べたりと座ると、すべてのバックナンバーの目次から、つげ義春の名前のあるものを見つけてぬきとって、その場に積み上げ、次々に読んでいった。
 びっくりした。びっっっっっっくりした。ものすごく面白い。全部が全部面白い。こんなことがあるんだな。この出会いは中2のあの『河童の三平』をさらに上回るかもしれない。と床にべったりしゃがんだまま私は思った。
 今思うと、はじめての出会いが『李さん一家』だったことは、私にはとても幸いしたと思う。『李さん一家』にポカンとさせられたすぐ後だったから難解な『沼』も『山椒魚』も、『紅い花』もすんなり入ってきた。

『紅い花』よりヘタ模写

『紅い花』よりヘタ模写


 この「事件」のちょうど一年後、バイト先のベルトコンベアで、私は『ガロ臨時増刊号 つげ義春特集』と運命的な出会いをする。一も二もなく、その日の昼休みに、私はそれを購入した。まだ全国の書店に出回る前だ。しかもバイトだから2割引き。
 むさぼるように帰りの電車でこれを読んだのだが、既に知っている名作群と違って巻頭の2色描き下ろし『ねじ式』に、ものすごく違和感があった。
 まず主人公の顔が“へん”だ。悪相である。あれだけ安定した画力をもっていた、つげ義春の絵が、なんだか妙にヘタなのだ。しかたなく、私は『ねじ式』を何度も何度も読み返した。読み返すうち、この違和感は、少しずつうすらいで、その奇妙さ面白さをどんどん積極的に味わえるようになっていった。何度も読んでいくうちに、つげ義春の画力が、普通のうまい漫画家の絵と大いに違うことに気づいたのだ。

『ねじ式』よりヘタ模写

『ねじ式』よりヘタ模写


 実はこの時点で、つげ義春は当時のイラストレーションの最先端に立ってしまっていたと私は思う。しかし、1968年の6月といえば、横尾忠則がブッチギリだった頃のはずだ。
 つげ義春の決断は『ねじ式』の絵を『ねじ式』にしなければならないと思ったことだ。『李さん一家』の絵のままでは『ねじ式』は『ねじ式』じゃない。
 つげ義春はマンガにマンガらしくない、作劇術や、ストーリーを持ち込んだだけでなく、新しい絵を、イラストレーションを現代美術までを持ち込んでしまった。
 というより、知らぬ間にジャンルの垣根をのりこえていたのだった。
 これは、『デザイン批評』(1966年)の創刊号に掲載された伝説的な作家論、和田誠さんによる「横尾忠則論」(正確には「あるイラストレーターの伝記・または横尾忠則讃歌」)の中で、和田さんが横尾さんを評したコトバそのままである。
 和田さんは横尾さんを以下のように評している。
「前衛でもなければ保守派でもない。アマチュアではもちろんないが、プロでもないと見うけられるふしもある。かようにして横尾忠則はあらゆる境界線をすたすたまたぎ越してしまい、それ故、常に孤立している」
 このイラストレーター論ほどに、面白くてエキサイティングな文章に、私はその後出会っていない。すばらしい横尾論であるだけでなく、すばらしいイラストレーション論だった。この文章が載っていたという一事をもって、『デザイン批評』は記憶されるべきだと思う。
 つまり、1960年代後半は、グラフィックデザインにとっても、イラストレーションにとっても、マンガにとっても、激動の年だったといえる。
 ボクはバイト先で見つけた「つげ特集」の『ガロ』をいち早く手に入れたことで鼻高々だった。そうしてさらに季刊誌『デザイン批評』をみんなより先に買っていたのも自慢だった。
 みんなっていっても、つまり高校の時の同級生、松ちゃん(松本隆)とヒトシ(渡辺仁志)の二人だけだけど。
 松本隆は、のちに作詞家になった松本隆とは別人。顔も全然似ていない。むしろ片岡愛之助にそっくりだ。渡辺仁志は、ビザンチン美術のモザイク画に出てくる聖人のような顔をしていて、今は、ビルの管理人をしている。ヒトシのことは、いずれ書くことになるはずだ。私は今でもヒトシを天才イラストレーターだと思っているから。

 

 

(第11回・了)

この連載は月1更新でお届けします。
次回2016年7月27日(水)掲載