私のイラストレーション史 南伸坊

2016.8.24

13美学校2 木村先生の授業

 

 あるいは、これから引き写す文章を、スラスラ理解する人もいるかもしれません。が、ボクはいまでも「ムリ!」と思ってます。だから、読んで解かってほしいと思っているわけじゃない、とりあえず、ざっと目を通してくださいということです。 『美学校 技能課程生徒募集要綱‘69』と題されたリーフレットの木村恒久・図案クラスのページにある文章全文です。木村さんがすべて書いたのか、木村さんの話を川仁さんがまとめられたのかは不明。木村さんの文章も川仁さんの文章も競り合う晦渋さなので、区別つきません。

目的・概要

☆トータル・イメージとしてのデザインとは、幻視の合成作業から生まれ、視覚の根拠を探る「図案」にほかならない。
☆それは、ひとつには印刷の始源へのフィード・バックを通じて展開される図案という原形質の蘇生を意味している。
☆ここでは、いわゆるカリキュラムといった事前に見積書を提出する既成の計画法は否定され、教える側と教えられる側とは、試行錯誤の交通の裡に、教場へのぞむこととなる。
☆したがって、先生と生徒はいきなり未知なるイメージの部屋へ投げ込まれ、不可知なデザインという理念、ビジュアル・コミュニケーションと意識構造の不条理な関係の中に入りこむことになる。
☆現状認識から発し、管理システムの状況と、自己管理のうちに心理的・懐疑的要素を追求せんとする、別の感覚比率によるデザイン概念の創造がめざされる。
☆イメージと視覚の関係を、あくまで探求する前デザイン的思考の領域への下向と、経済効率の中に動く現代デザインの止場を目的とするのが本教程である。

 っていうんですけどネ。さすがにツルツルっと目読するのと違って、一字一字引き写していくとなんとなく言わんとすることの、おぼろげな気分は伝わってきます。
 今、こんな文章を書いたとしたら、それは「わざと」でしょうけど、書かれたのは1968年時点、人類はまだ月面に着陸してないし、東大の〈安田砦〉は陥落してない。ウッドストックで40万人若者が集まってないし、三島由紀夫が割腹自殺してないし、「an an」が発刊されていない時点です。

アンアン  1968年は年表なんかでは「反体制運動が世界各地でピークに達した」年だったとまとめられている年です。藤田嗣治とガガーリンとヘレン・ケラーとマルセル・デュシャンが死んで、野茂英雄と桑田真澄と佐々木主浩が生まれた年です。荻野目洋子と菊池桃子と大塚寧々が生まれた年でもありますけど。
 つまり、この年にデザインと言わずに、わざわざ教場名を「図案」としたセンスがつまり木村さんなんです。「デザインを前デザイン的思考の領域へ下向した視点から考える」ということですね。
 木村さんは、いわば当時のデザイン界にあって過激派だった。1969年には、武蔵美の過激派だった戸井十月をリーダーにした「美共斗」が日宣美を解体してしまうわけですが、その以前、1966年には横尾さんが、缶詰のラベルみたいなデザインで、日宣美展のポスターを作っていたし、その翌年1967年には木村さんが「まるで火の用心みたいな」と、あの亀倉雄策さんに悪口されたポスターをつくります。
 この年、ボクは高校を卒業して一浪でしたが例の三人組で「キムラさん、さすがだよね」と絶賛しあってました。亀倉さんは「我々はグラフィックデザインをこういう火の用心みたいな図案から、脱却させようとしてさんざん苦労してきたんじゃないか」みたいな発言をしていて、それはそれで正直な感想として笑いました。
 亀倉さんという人は、実作者であることに最後までこだわった人らしく、自信も持っていたし、批評がややこしくない。たしかにポスターは火の用心みたいな泥くさい色合いなんでした(もっとも、木村さんがデザインした段階では3色とも蛍光カラーだったらしいんですけどネ)。
 蛍光カラーっていえば、前回紹介した峠三吉の詩集をポスターにした『人間を返せ』も蛍光インクのシルクスクリーン印刷だった。あるいは同年の日宣美展出品作だったかもしれません。
 この時期の作品の制作年とかの記録が、けっこうイイカゲンで、たとえば横尾さんの日宣美展のポスター図Aは、『横尾忠則大全』では1968年のページにおさまっているけれども、1966年の作品だし、木村さんの1967年17回日宣美展のポスターの図版はついに見つからず、同年のカタログの図版が、古書店のサイトにあったものを模写したのが図のBです。

いわしの缶詰火の用心 つまり、話が横道にだいぶそれたけれども木村さんは当時のデザイン界にあって過激派であり反逆児なんでした。反逆といえば、そもそもは横尾さんのデザインが真ッ先に「モダンデザインを日本に根づかせようと必死にやっていた」亀倉さん世代に、真ッ正面から反逆しちゃってたんですが、そうなったのは、「結果として」だったんじゃないか? とボクは思っています。
 戦略的に、わざと泥臭い昔のデザインを取り入れたというよりも、感覚がああいうデザインを新鮮に受けとるようになっていた。アメリカのPOPアーティストが、抽象絵画に飽きたらず、マンガや広告の図像を、モチーフとして「新鮮」に受けとるようになっていたような同時代感覚が横尾さんにもあったんじゃないか?
 一方木村さんの事情は、横尾さんとは少し違うかもしれない。木村さんはデザインについて理論的に考えてしまっていた。その過程で横尾さんの仕事も評価していたと思うし、あるいは、そこから考え始めたっていう可能性もあるかもしれない。
 当時のデザイナーの中で、最も深いところまでデザインについて理詰めに考えていたのは木村さんだろう。実作者でないデザイン評論家や批評家とは違う筋道で、いったん考え出してしまったんだから、もう考えないわけにいかなくなっていたと思う。
 木村さんの授業は、そういう木村さんの日々考える中での一人言のようだった。愚痴を言うわけじゃない。言い訳をするのでもない。日々考えていることが口から洩れる。生徒のレベルとか理解力とかには、あんまり関心無い。
 そのかわり、生来のサービス精神と大阪人のお笑い好きは、決して生徒を飽きさせない。自分が見聞きしたオモシロイ話、めずらしいニュース、人の噂、それは一つ一つ木村さん自身が、何かを考えるヒントになった話なのだった。
 それを、おそろしい早口で、しゃべりたおす。一段落するとニッコリ笑って「ちょっと休憩しましょう」とおっしゃる。
 三々五々、立ち上って、風にあたりにいくもの、トイレに立つもの、タバコを吸うもので教室内はガヤガヤする。
 ところが、いくらもしないうちに、木村さんはまた何かを思いついてしまって勝手にまた話し始めちゃうのだ。話がおもしろいから、みんな、しんとする。トイレから出てきたやつも、すぐ様子を察して、静かに着席する。
「アフリカの土人にね、白人が衛生思想を植えつけようって、教育映画を作るんです。食事の前にいちいち手を洗っといたら、赤痢に罹らない。手洗い、白人がしてるとこ見せても興味持たないだろうから現地人に演技させる。現地で現地の土人に、手を洗わせて、噛んで含める、もう、ドロドロになっちゃったような映像です」
「映画出来て、映して見せて、どこまで理解したのか、見終わった感想聞いてみた。何て言ったと思いますか? 井戸掘った、ポンプついた。バケツ持ってって水溜めた手洗った。ネ、その映像見て、ナニおぼえてるか? 言ったら、ニワトリが後ろを走ってったって。そうだそうだオレも見たぞって、全員うなずいてる」
「映画でなにか教えたかったら、まず、映画の見方を教えなきゃってことです。映画に映画の文法がある。コドモの頃からしゃべってる日本語、文法習わなくてもわかりますね。習わなかったんじゃない、少しずつ習ってたんです。映画の見方、一々教わらなかった。映画見て少しずつ習ってたわけですよ。
 映画がはじめて出来た時、向こうから走ってくる蒸気機関車見て、みんな逃げまどった。わーッ言って逃げた。
 初めて見たらそうなります。戦争敗けて、進駐軍やってきた。MPが交差点の真ン中で、交通整理はじめたんだけど、ワケわからんでしょう。ホイッスル、ピーッ鳴らして、両手挙げて、横に広げる。肘曲げる肘伸ばす。
 ヤジ馬で黒山の人だかりですよ。何しとんやー? あの兵隊踊り踊っとんのかあ。頭おかしいんちゃうかあ。いうことですよ。
 あんなもん、初めて見たらびっっっくりしますよ」
 「アハハハ」
 と笑ってます。

メンコ

 

 

(第13回・了)

この連載は月1更新でお届けします。
次回2016年9月28日(水)掲載