私のイラストレーション史 南伸坊

2017.1.31

18美学校赤瀬川原平教場 毎日、おもしろかった!!

 

 赤瀬川さんの名講義を受けたのは、あれは何月のことだっただろう。よく覚えてないのだ。午前中の講義は毎日日替わりで、いろいろな先生方が来られる。そして土曜日は、午後から夜まで木村先生の実技授業だ。私は毎日「知恵熱」が出そうな刺激の中にいた。
 そういう日々の中で、私はなんとしても「赤瀬川さんの生徒になりたい」と思うようになっていた。そんなになりたいならなったらいいんだけど、とにかく赤瀬川さん自身が、先生になんかなりたくなかったんだから、そもそも「赤瀬川教場」というものはその時点では影も形もなかったのだ。
 後になって知ったんだけど、当時は学園紛争の嵐が吹き荒れてる頃。赤瀬川さんは、ヘタに先生なんかになったら、乱暴な学生達に吊るし上げられて、野次はとばされる、自己批判は迫られる、ケトバされるかもしれないと本気で考えていたらしい。
 晶文社から出た『全面自供!』っていう本は、赤瀬川さんの半生を、松田哲夫さんが取り調べる、というカタチをとったインタビューと自筆年譜で構成された本で、このあたりのことも書かれていて無類におもしろい。
 読んでいくと「これ、美学校の講義じゃん!」と思う。こんな感じだったのだ。赤瀬川さんの授業がどんなだったか、わかってもらおうとしたら「ハート」をスライドで映しただけの赤瀬川さん方式が正しい。
 おもしろさのディティールまで本人がちゃんとサービスしてくれてる。つまりいま紹介した『全面自供!』(晶文社)と、『学術小説・外骨という人がいた!』(白水社)『東京ミキサー計画』(PARCO出版)の3冊を読んでもらったら、ちゃんとあの授業の様子が伝わると思う。
 1970年になって、遂に説得されて赤瀬川さんはクラスを持つことになった。私の望みが叶えられたのだ。
 その頃には赤瀬川さんの外骨本コレクションもかなりすすんでいて、外骨の代表作といっていい「滑稽新聞」を続々、古本市で入手されていた。授業で先週入手したばかりのこういう資料が、即、生徒に提供されたのだ。

黒坊

 たとえば、このピカソのキュビスムみたいな美人像は、「滑稽新聞」173号の表紙の模写だ。墨池亭黒坊(ぼくちてい・くろぼう)っていう浮世絵師の描いたものだが、これが描かれたのは明治41年。
 実はピカソのあの「キュビスム顔」は、まだ発明されていない。前年の明治40年、つまり1907年に「アヴィニョンの娘たち」は描かれていて、アフリカの仮面を引用したらしい顔に、ややその徴候があらわれていた程度。
 「冗談は芸術の尖兵だ」と言ったのは私だ。いま言った。いや「芸術の最尖端は冗談で出来ている」といってもいい。実はこの信念は、高校時代から芽生えていたものだ。
 私は「美術手帖」の、ほんの小さなコラムで読んだ「ハプニング」の記事やジョン・ケージがピアノのフタを開けたり閉めたりして、なかなかピアノを弾かなかったコンサートの話を知って「前衛って、やるなぁ」と思っていた。前衛ってまるで、イタズラのアイデアみたいじゃないか!と思っていたのだ。
 黒坊の絵は端正でありながら、必ず洒落たアイデアとグラフィックイメージの驚きがあって、赤瀬川教室での一番人気だった。赤瀬川さんは、さっそく「赤坊」ってサインを自作に入れるようになった。我々もマネしてそれぞれ名前の下に坊の字をつけて名乗り出した。私のペンネームが「伸坊」になったのはこの時からだ(本名は伸宏)。
 黒坊の次、二番人気だったのが、ナスの絵の中に「なべ」とあるサインの「なべぞ」っていう絵師で、なべぞの絵のおかしさは、子供がチンコ、マンコ、ウンコと叫ぶ類のナンセンス。

なべぞ
 上図は、うんこで法律と書いてある。一応おとなだからもっともらしく「糞法律」と題して、「我が国の法律そのものは決して臭いものではない。だが、奴役人の運用そのよろしきを得ないから「糞」法律となるのだ」と注釈がつけられている。が、ようするに「糞法律」と口に出したところで、クソリアリズムにそれを図像化してみたくなっただけというのが絵描きの本音だろう。
 「なべぞ」のニックネームをつけられたのは、まだ漫画家にも、へたうまイラストレーターにもなっていない渡辺和博だった。
 授業では前衛芸術家だった頃の赤瀬川さんの仕事がさまざまな実物史料とともに、たのしく語られた(といっても当時33才だった赤瀬川さんにとっては、ほんの5~6年前の思い出話だ)。

ネオダダ
 写真やパンフレット、赤瀬川さんはそうした「史料」をキチンととっておいた人だった。そうしてそれをどんどん見せてくれたし、重複して持っている物は生徒に分けてもくれた。
 ハイレッドセンター時代の冗談で、私がもっとも好きなのは1964年、オリンピックの年にやった2つのイベント〈シェルタープラン〉と〈首都圏清掃整理促進運動〉だ。
  〈シェルタープラン〉というのは、帝国ホテルに一室を取って、招待客の身体測定を、むやみに厳密にするというものだ(シェルターは当時アメリカで流行った「原爆戦争のための防空壕」のこと)。
 その一人分ずつのシェルターを注文に応じて作るという設定だが、ありようは、その測定が常識はずれに、厳密、厳格、厳粛だというところだ。下にあるのはその測定カルテ、招待客・横尾忠則さんのデータだ。

シェルタープラン
 数字を見ると横尾さんの当時の身長は、167.5センチ、K・T(肩巾)が45.0センチ、A・Y・H(頭の横巾)が17.0センチ、K・N(顔の長さ)24.5センチ、A・T・H(頭のタテ巾)が19.5センチと記入されている。
 横尾さんにお会いしたとき、帝国ホテルのイベントのことをお聞きしたことがある。
「なんかすごくブキミで、怖かったよ、赤瀬川君とか、ぜんぜん笑わないんだもん、知り合いなのに」
 意外なことに、当時から横尾さんは、赤瀬川さんと知り合いだったのだ。ハイレッドのメンバーに誘われたこともあるという。
「断ったけどネ、ぼくが入ったらハイレッドセンターサイドになっちゃうじゃない」ということだった。
 ハイレッドセンターは、高松次郎の高(ハイ)、赤瀬川原平の赤(レッド)、中西夏之の中(センター)を並べて作った団体名。K・Tが肩巾ってDAI語みたいなコドモっぽさだが、なんだか妙にレッキとした組織名に聞こえる
 このイベントにはヨーコ・オノもナムジュン・パイクも、宇野亞喜良も参加している。このイベントのおもしろさは、徹頭徹尾ディティールにあるので、ぜひ『東京ミキサー計画』にあたってください。
 〈首都圏清掃整理促進運動〉は『東京ミキサー計画』の章立てでは「銀座のゾーキン」となっている。オリンピックを迎えて慌てて東京中をキレイにしていた世間の風潮に乗ったフリの掃除イベントだった。ただギンザの通りを清掃するのに、座敷箒やゾーキン、ハタキ、歯ブラシやサンドペーパーを使う。熱心に掃除してはいるんだけどなんだかヘン。
 全員、ブキミな白衣姿だし、マスクやサングラスをかけてるのまでいる。赤瀬川さんは敷石をゾーキンがけしたらしい。

清掃

 この年、私は工芸高校の一年生だった。私達が銀座にくり出していったのは、たしか、二年生になってからだったから、もちろん出会ってはいない。このイタズラをやっていた張本人から、その日の詳細を聞きながら、話だけでこんなにコーフンするのに、もし目の前で見ちゃってたら、どんなに高校生はウレシカッタろう?!  と私は想像していた。
 「やっぱり芸術は冗談だった。オレの信念は間違ってなかった!」
 それにしてもハイレッドセンターの冗談はものすごく手が込んでいて、浮ついていない。おどろくべき周到さと、幾重にもしかけのある冗談の細部が、尋常じゃないのだ。それはまるでたとえていうなら「芸術的」といっていいくらいだ。

 

 

 

(第18回・了)

この連載は月1更新でお届けします。
次回2017年2月28日(火)掲載