私のイラストレーション史 南伸坊

2017.2.28

19赤瀬川さんは気の合うお兄さんみたいだった

 

1陰毛

 冒頭のカットは、荒木経惟さんの「Love by leica」と題された「ヘア・ヌード」写真の模写です。
 陰毛が出てます。陰毛が出てる写真のことを「ヘア・ヌード」と言った時期があったんですが今の人は知ってますかね。
 最近、日本でも陰毛が写っててもよしってことになったらしいですけど、いつからよくなったのかはウヤムヤですね。
 私が美学校の生徒だった1969~70年は、日本で陰毛は「絶対禁止」でした。陰毛を出したまま街の中を散歩したりするのはもちろん、陰毛が出ている状態を写真に撮って発表することも禁止だったのです。
 しかし、アメリカではその頃そういう「PLAYBOY」とかの雑誌に平気で陰毛を出した写真が載っていました。それでそれを「アメリカみやげ」に買って帰る人もいたわけです。
 日本に輸入されたそういう雑誌は、ちょうど終戦直後に進駐軍の命令でスミを塗らせて読めないようにした「スミ塗り教科書」のように、せっかくの陰毛部分は黒のマジックで目かくしをする、ということが一々、一冊一冊にされていたのです。
 若者雑誌には、そのマジックを取り去ってちゃんと見えるようにする秘術が特集されていたりしました。シンナーなどの溶剤で性急にインキをふき取ろうとすると「肝心の」印刷された陰毛もろとも、拭き取ってしまうことになるので、同じ油性のものであっても不要部分だけを取るためには、バターを使うのがベストだ(マーガリンでもよかったのか、天ぷら油でも可だったのかそれはわからない)。
 なんでこんな話からはじめたのかというと、ちょうどそんな「騒ぎ」の頃に、赤瀬川さん宛に送られてきた、メールアートというか、荒木経惟(字が読めないので当時はアラキキョウカタビラと呼ばれていた)名儀の和綴じの写真集(ゼロックス写真帖)と、おまけに送られてきたヌード写真が教材として、テーブルに出されていたんです。そのヌード写真はつまり、荒木さんが自分で撮った生写真ですから、そのまま全裸状態が撮られている。
 しかし、全裸状態の最終局面のところには、シールが貼ってあって、そこに「御自由におはがし下さい」のような文句が書いてありました。
 「みんなにも見てもらおうと思って、まだはがしてない」と先生は言って、「だれかはがしたい人」って聞いたかどうか、だれかがそれをはがしました。
 そこには、シンナーを使って失敗しちゃった時みたいな状態に、丸く真っ白になっちゃってる写真が出てきたんでした。
 私は、いっぺんに荒木さんの名前を覚えました。宮武外骨と同じ匂いがした。しかし、これ「授業中」ですよ、こういうことをしてくれる先生を、私はますます好きになっちゃったわけです。
 赤瀬川さんは「先生徒」っていう立場を、自分の立場として表明していました。先生をさせられてるけど自分は生徒でもあるんだ、とそういうことです。私はそれこそ本当の先生じゃないか、と当時も今も思っています。

2モデルノロヂオ

 

 上掲の本は、今和次郎、吉田謙吉による『モデルノロヂオ(考現学)』という本で宮武外骨本を渉漁する過程で赤瀬川さんが見つけてきた珍本でした。今和次郎の名前も、当時は忘れられていたんです。この本は新しい学問を思いついた発明のよろこびに満ちた本です。この古本を買って、面白がって読んでいく先に、後の「路上観察学会」や「トマソン観測センター」があったわけです。
 私が大好きだったのは、吉田謙吉さんの拾ってきたネコが、暴れて障子をやぶってしまった有り様を、ていねいにデッサンした報告書のところでした。「こんな風に」という図の障子は、たしかに人間が意図的にやぶったり、想像して絵に描いたのとは違う正確なニュアンスの絵だったからです。

3 

 上の模写はいわずと知れた、つげ義春さんの「李さん一家」の最終コマ(部分)です。赤瀬川さんが、私の「李さん一家」体験と同じような感動を味わっていたんだ! という事実を知ったのは、雑誌に載った赤瀬川さんのインタビュー記事の写真でした。赤瀬川さんは当時阿佐ヶ谷の一軒家を借りていたんですが、その木造二階建ての物件が、モロにつげさんのマンガに出てきた建物そのものだったんです。そして、その二階にはガラス窓を一方によせたスペースいっぱいに、イラストに示したような、つげさんの模写のパネルがはめこまれていた。
 いいなァ、楽しんでるなあ、と私は思って、さらに赤瀬川さんを身近に感じました。
 もうちょっと後、お宅へ出入りするようになって、その時はもうマンガのパネルははめられてなかったんですが、壁に一枚のポスターが貼ってありました。当時、小金を持った人がピアノを買って据えつけたり、百科事典をドーンと揃えて飾るのが流行ってたんですが、その状態を原寸大でポスターにしたものがあったんです。それを手に入れてきて、壁にそれを貼りつけてニヤニヤしている。赤瀬川さんは仕事でもないのにそういう冗談をやっていた人でした。
 教室では、自分が体験した面白かった話、面白かった本やモノ、を惜しみなく生徒に分けてくれるという授業です。古本探しの中で見つけてきた警視庁関係者向けにくばられたらしき、「犯罪研究書」なんてのもあった。
 事件現場の血痕が、壁や床にとび散った図があって、その飛沫がどんなスピードでどっちの方向からきたものかを形で判断できる研究だったり、事件現場の死体写真なんかが、入っている。
「うわあ、コワイコワイ」
とかいいながら、みんなでページをめくったりした。これも私の視覚体験の一部として、確実に身になっているなと思っています。

 

4作兵衛さん 

 実は、赤瀬川さんの70年度のクラスに入ると、自動的にあと二人の先生のクラスをめぐってくるシステムになっていました。つまり三人の先生が順繰りに三クラスの生徒の先生となるという教場なんです。
 最初に習ったのは、前衛芸術(九州派)の菊畑茂久馬先生で、この先生は映画俳優みたいな二枚目の、いかにも九州男児という明朗で豪快な人でした。
 先生になってくれるよう依頼された時、山本作兵衛さんの絵画表現、つまりまったくの素人のお爺さんが、自分の体験した炭鉱の仕事を克明に記録する、というその表現行為に、深く興味を持たれていた先生が、作兵衛さんの絵を、生徒に有無をいわせず模写させる、っていうカリキュラムを思いつき、それをやらせるなら受ける、ということだったらしい。
 初めて見る絵だったし、初めて聞く名前で、好きも嫌いもなく初日から、いきなり使ったこともない油絵具での模写でしたが、この時に手で考えたこと、目が覚えたことも確実に私の身になっています。
 二学期の先生は、松沢宥先生でした。先生が「最終美術思考」と呼ぶ、不思議な超現代美術を作っていた方ですが、生徒にあらゆる好奇心の羽を伸ばさせるような授業でした。
 仏教、超常現象、エコロジーそれぞれのテーマを生徒が選んで、レポートを作り発表する。先生はそれをずっと静かに聞いている。宴会になると、お酒をどんどん注ぐ。無理強いしてるわけじゃないのに、とにかく、どんどん注がれて、私ははじめてお酒を呑んで意識が飛びました。不思議な先生でした。

 

 

 

(第19回・了)

この連載は月1更新でお届けします。
次回2017年3月28日(火)掲載