私のイラストレーション史 南伸坊

2017.5.30

21ヘタウマって、大昔からあったって思うんだけど……

 

長谷川w

「ヘタウマ」について、よく訊かれる。七十年代から八十年代のはじまり頃まで、月刊漫画誌『ガロ』で、渡辺和博、安西水丸、湯村輝彦、といった人々にマンガを描いてもらっていた編集者だったからだろう。
 ボクはでも、最近「ヘタウマ」ってことでいうと、ヘタウマとか命名される前から、もともと、こういう「絵の描き方」って、あったんじゃないか? と思っているのだ。たとえば下の模写は中川一政が新聞小説につけていた挿し絵だ(1959年)。

中川一政
 世間では中川一政の油絵をヘタウマとはいわないけど、中川一政の書を「あれはヘタうまだ」といえば、すんなり納得するだろう。
 ナイーブアート(素朴派)の評価は、ピカソなんかが、アンリ・ルソーに注目したあたりからはじまったんだろうけど、ピカソがルソーやピロスマニなんかの絵にまいったのは、自分が「いやに巧く絵が描けてしまう」ことにウンザリしてて、まるでコドモみたいに絵を描ける、いわゆる「テンネン」な画家の絵の魅力に憧れるようになっていたからじゃないか? とボクは思っている。

ルソーピロスマニ
 だから、意識的に「ヘタウマ」を技法にした元祖は、実はピカソだったといえるかもしれない。

ピカソ
 ピカソは努力して「こどもの絵のように」描く訓練をしたのだ。
 ていねいに描いてると、ついつい上手に描けてしまうから、猛スピードで描いてみたり、ふつうなら「こうなってしまう」ところを、わざとむりやり曲げてみたりしたかもしれない。ちょうど陶芸家ができたての器をちょっとひねってみたりする感じだ。
 ピカソが何度も描き直したり、いままで描いたところを消してしまったりする制作風景の映画を見たところがあるけれども、あれはつまり、つい上手に描けてしまいそうなところで、ガシガシガシと消して描き直していたのだろう。
「なんだ、折角よく描けてたのに……」
と、映画を見ながらボクが思ったのは、だから大まちがいだったわけだ。
 ピカソやシュルレアリスムが「ヘタの味」がわかるようになったのは、ヨーロッパの美術が、江戸のセンスに近づいたってことだったのだが、日本人は謙遜だから、自分たちの文化がキッカケでヨーロッパの美術が大化けしたあとに、あちらにでかけて行って、それに「影響された」つもりになって帰ってきていたのだった。
 冒頭のヘタ模写、長谷川潾二郎の「巴里にて」の裸婦は、あきらかにルソー経由の「味」だと思うけど、ピカソなんかにくらべると、もともと「うまい病」に罹っていないぶん、いい感じにヘタ味が出ている。
 一方、この萬鉄五郎は、折角身についたデッサン力を必死になって脱力するのに、強力な歪ませ方をしている。模写してみると画家の「絵にしよう」とする意図がわかっておもしろい。この「努力」をあの頃は、ヘタウマといわず「デフォルメ」と言っていた。

萬鉄治郎

 1950年代から60年代のデザイン界は、日本もアメリカも東欧移民のベン・シャーンの影響をうけまくりだったが、ベン・シャーンは「ヘタウマ」だったのか「ヘタ」だったのか。難しいところだ。ボクはどうも「テンネン」系だったのでは? と思っている。

ベン・シャーン国吉康雄

 上の図版は国吉康雄「カーテンを引く少年」(1922年)のヘタ模写だけれども、思いつきだがベン・シャーンの人物のデフォルメ「ヘタうま」ぶりとの共通性を感じる。二人は国吉が1889年生まれ、ベン・シャーンが1898年生まれと9歳違いだけれど、同時代にアメリカで活躍している。二人に影響関係があったのかどうか知らないけれども、絵の可愛らしさが同じ感性を思わせる。
 ベン・シャーンの描き文字のもつ愛嬌も中村不折の「龍眠帖」とひびきあう趣味を感じる。日本でベン・シャーンが人気だったのと、このセンスの共通するカンジというのはおもしろい。

 

(第21回・了)

この連載は月1更新でお届けします。
次回2017年6月30日(金)掲載