私のイラストレーション史 南伸坊

2017.6.30

22青林堂に入社した

 1「ガロ編集長」

 実は、長井勝一さんとの最初の出会いは、ボクが工芸高校の三年生の時だった。『ガロ』を読者として読んでいるだけでなく、描く側に回ってしまおうとしたのだ。
 『ガロ』は毎月、新人のためにページを開けていた。ほかの誰もやっていないような意欲作を待っている、というような、白土三平先生のよびかけの文章が載っていて、実際、毎号入選作が載っている。
 三平先生や水木先生のようには描けないにしても、この入選作ぐらいなものなら自分にもできると私は思ったらしい。
 その入選作は、いかにもプロ然としてはいないが「新しい」感じのある絵柄だった。カーレーサーが主人公っていうのも「若さがある」と思った。でも、このくらいならオレにも描ける。
 よし! いける! と思って私は当時話題になっていた、三島由紀夫・原作・制作・脚色・監督・主演の前衛映画「憂國」と、TVでさんざん宣伝していた「インド大魔術団」の電気のこぎり美女切断の演し物をドッキングさせた8Pのマンガを描いて、意気揚々と『ガロ』編集部にのりこんだのだった。

2 映画「憂国」
 私の記憶では「インド大魔術団」なのだがこの年1966年には、伝説の虚業家・康芳夫が、ドイツ人の顔にスミを塗ったくって、インチキの「アラビア大魔法団」というのをやっている。インチキ企画となってるだけでどんな演し物をやったのかは不明だ。 
 あるいは「電動ノコギリ美女切断」をやったのがこの「アラビア」の方だったりすると話がおもしろい。というのは、この公演を三島由紀夫が二回も見にきたので「バカじゃないのか?」と当の康さんが思ったというのだ。 
 私はバカじゃないと思う。三島由紀夫は「切腹好き」なのだ。 
 そして、このインチキの「アラビア大魔法団のポスター」を、横尾さんに頼んだと、暗黒プロデューサーがいっていることが本当ならこれも面白い。なんだかものすごく世間が狭いというか、この時代って一握りのおもしろい人々が世の中をものすごくおもしろくしてしまっている。 

3アラビア大魔法団
 青林堂は、神田古本屋街の裏の『航空ファン』っていう趣味雑誌の出版社の二階を間借りしていて、ずいぶん小規模の会社なのだった。しかも、会社なのにクツ脱いで、ご家庭っぽい階段を二階まで昇るのだった。返品の山の中に、編集部はあるらしい。が、編集者らしき人はいなかった。一人ステテコにランニングの小さいおじさんがいて、そのへんを箒で掃いていたので「あの、編集部の人はいないんですか?」と尋ねてみた。おじさんはしゃがれ声で、 「マンガ、持ってきたの?」
といって手を出す。こんなおじさんに見てもらってもなァと思うからむっつり立っていると、おじさんは、お茶を入れてくれて、イスに座らせてくれた。
 なんだかおかしいな、と思ってたら、その小使いさんみたいな小さいおじさんが、実は社長の長井さんなのだった。
 マンガはていねいに見てくれたけど、内容には全然触れない。寸法が違ってるとかまた描けたらもってきて、とかいうと、きちんと封筒に入れて返してくれる。
 「憂国」も「大魔術団」も、おなかを切るところが共通しているので、最後は三島由紀夫が臓物をおなかからひきだして、ニコニコ笑っている所で終るという朗らかなマンガだったが、とにかく長井さんは内容については一言もない。
 私は、このおっさん、三島の憂国のこととか、電動ノコ美女切断とか、なんにも知らねえんだろうなと、マンガの出来に対する自己評価はまるきり変えることなしにそう思った。
 二度目にあったのは、それから七年後のことなのだった。新聞の求人欄でみつけたデザイン会社に入ったが、その会社は潰れてしまった。しばらく失業保険もらってフラフラしようと思ってたら、赤瀬川教場の助教授だった松田哲夫さんが、筑摩書房で装丁デザイナーを募集してるからと誘って下さった。
 再三申し上げるように、私は試験には受からないのだ(筑摩書房は装丁デザイナーを採用する試験にも、英語とか数学とかちゃんと勉強のテストがあるのだ。当然私は一次で落ちた)。ところが、親切な松田さんは、当落が分けてある履歴書をチェックして、私が「落」だったのを「何かのマチガイであろう」って心入れで「当」の方へすべりこませてくれていたらしい。
 二次試験は面接だったが、この時も試験官は正しく「落」の方へ私の履歴書をほうり込んだというわけだ。この面接の時に、デザインの見本をつくって持っていくことになっていたので、私は筑摩書房の既刊リストから、何冊か選んでラフスケッチを、たくさん作ってパネルに貼って見せたのだと思う(あんまり覚えてないのだ。試験のことは即座に忘れる)。
 そのパネルを、美学校のクラスメイトで、青林堂の社員になっていた澤井くんに、預かってもらっていたのだった。
 長井さんは、それを見ていたらしい。パネルを取りにいくと、
「どうだったのその筑摩の試験は」と尋ねてくれた。
えへへと笑いながら私は、
「落ちました」といった。
「じゃあウチにくればいいや」
 長井さんがパネルを見ていたというのは、ずっと後に知ることになったので、私はそのあまりに唐突な合格発表にど肝を抜かれたのだったが、そうか、そんな道もあったのだ、と思ってこちらも即座に、はい、きます。と返事していたのだった。
 長井さんは、高校時代の私のマンガのことなど、もちろん完全に忘れていた。マンガは没にして、筑摩が没にしたデザインは採用してくれたということになる。
 ここが長井さんらしい判断だったんだなと今は思う。長井さんの採用・不採用の判断はイーカゲンのようで「好い加減」だし、テキトーなようで「適当」なのである。
 私が青林堂の社員になって長井さんに教わったこと。それは「すぐれた作品に対する感謝」の気持ちだ。「楽しませてくれた人を尊敬する」気持ちである。
 長井さんは、その気持ちがとってもピュアで、それがハッキリ顔にあらわれる人だったと思う。編集者として「目利き」だったということかもしれないし、実際そう言われてもいた。
 ご自身そう思っていたかもしれないけど、私は、長井さんの原点は、塩釜から夜逃げするようにして東京に出てきた実家が、今川焼き屋をはじめて、その今川焼きを入れる袋を、小説雑誌をバラして貼り合わせて作る。小学生の長井さんがそれを命じられたエピソードにあると思っている。
 長井少年は、その退屈な内職が大嫌いだったので、さぼって材料である小説雑誌を、「材料」としてではなく「作品」として熟読してしまったのだった。おそらく大衆小説誌だったろう、その活字を追いかけることが、とても、「楽しい」ことだと小学生は知ったのだ。
 勉強でなく、宿題でなく、親に言われてでなく、活字を追うことはものすごく「楽しい」体験だった。読めといわれたのじゃない、貼って袋にしろといわれた、その紙に「面白い」世界が広がっていた。
 人を楽しませてくれる人を「尊敬する」その少年時代に植えつけられた気性が、長井さんの一生を決定した「美点」だった。
 とってつけたものじゃない。その気持ちが通じるから、長井さんの周りには才能ある人々が集まってきた。
 満州の前線から、日本軍の終戦を素早く察知して軍用銃をちょろまかし、雲を霞と日本へ逃げ帰ると、「モーゼルの勝ちゃん」と二つ名前で呼ばれる、ヤクザの用心棒におさまっていた長井さんが、闇市で人々が驚くほど活字に飢えていることに気がついた。

4モーゼルのカッチャン
 これが出版業に手を染めることになったキッカケだと本人も思っているが、ほんとうのキッカケは「今川焼きの袋貼り」の方なのだと私は睨んでいるのである。それは「意識」されていなかったからこそ強い。
 「編集者になりたい」のでも「出版社に入りたい」のでも「文学の道に進みたい」のでもなく、「面白い物語を作ってくれた人を尊敬する」のが、長井さんの原点だったのだ。
 と、私が理解したのは実は青林堂にいた時ではない。青林堂で少しずつ、七年かけてしみこんだものを、一言に出来るようになったのは、もっとずっと後のことだった。

 

(第22回・了)

この連載は月1更新でお届けします。
次回2017年7月31日(月)掲載