私のイラストレーション史 南伸坊

2018.5.2

30最終回:私のイラストレーション史はこれで終わりです

 

「肩書きは何としますか?」
と質問されると、いまは「イラストレーター」と答えている。
 1972年から7年間、私は編集者だった。
 青林堂を退社してフリーになって、注文のあるまま、ある時は雑文を書き、ある時はカットや挿し絵を描いた。けれども、和田誠さんが『話の特集』で始められたイラストレーションとか、イラストレーターという呼称は私には憧れだったから、フリーになったからといって、自分から「イラストレーター」を名乗るのは、僭称であるような気がしていた。
 酒席で冗談に「イラストイターと名乗ったらどうだ」と言ってくれたのは、ゲージツ家のクマさんだったろうか、プロレスの味方のムラマツさんだったろうか、私はそれから「イラストイター」っていうインチキ臭い肩書きで仕事をするようになった。
 そうこうするうちに、世の中はイラストレーションを「イラスト」とつづめていうようになっていく。具体的に1980年代のいつごろからなのか、どのへんで言われるようになったのか、覚えていない。というか当時からなんとなく、そうなったっていう認識だった。
 挿し絵やカットに、描き手の名前が添えられるのが当たり前になって、始めのうちは、イラストレーション:何某、と表記されていたのがイラスト:何某と略記されるようになったのではないか?
 ともかく、イラストレーションがイラストになった頃、イラストレーションは既に日本語になっていたのだ。なったらすぐにイラストに切りつめられ、イラストに包摂される実体は、いわば、すべての「絵」と同義になっていた。
 画家が描こうが、漫画家が描こうが、素人が描こうが、その使われかたがイラストレーションであれば、それはイラストレーションなので、つまり一回りして英語のillustrationと、同じコトバになったわけだ。
 和田さんが『話の特集』で使いだされたイラストレーションというコトバは、旧来の挿し絵とは違う「新しい絵」を意味していたのだが、山口百恵が歌手をやめた頃には既に「特別な」コトバではなくなっていたということだ。
 イラストなら、私もバンバン描いていた。すべての注文をこなした。バイトさんが原稿をとりに来たのを待ってもらうために、長椅子を用意した。その椅子からあふれた人に、折りたたみ椅子を出したりしていた。まるで売れっ子じゃないか(笑)

1.ホームズと平次

PR誌のためのイラストレーション。東西の探偵を浮世絵風とワーグマン風で描いている。


 週刊誌やグラフ誌、PR誌から取材された。その時に冒頭のように質問されたのだ。前述したように当時は既にイラストレーションがイラストになっていたはずだが、私はイラストレーターと名乗りにくくて、インチキのほうのイラストイターを使っていた。
 仕事の内容は、たしかにイラストイターだったのだ。というより自分的には編集者だった。『モンガイカンの美術館』は、いわば編集者の眼で美術や美術業界に向けて書いた記事だった。

3,モンガイカンの美術館 ポップアートより

『モンガイカンの美術館』より。ウォーホルのパロディ


 『ウィークエンドスーパー』や『写真時代』でも、やってることは雑誌内雑誌の編集だった。『漫画アクション』のコラムにつけたイラストも、気分は編集者だったし『漫画サンデー』の「ハリガミ考現学」や「赤と黒」ビッグコミックの「図解趣味」も、すべて、自分で一から企画して、雑誌の何ページかを請け負うというカタチである。

『漫画アクション』のコラムイラスト。影武者の騒動のころ。

4ハリガミ考現学

『漫画サンデー』「ハリガミ考現学」より

『漫画サンデー』「路上観察ファイル」より『塗り込めドア』


 私は、自分のフリーになってからの仕事をたとえば『モンガイカンの美術館』は、高校時代に憧れた澁澤龍彦先生のマネ。『笑う写真』は木村恒久先生のマネと考えていて、『ガロ』編集者時代にやっていたデザインワークは中学生の時から憧れていた和田誠先生のマネだと思っているけれども、こう書いてきてはじめて、それらが『雑誌ジャック』だったのだと考えると、それはつまり丸ごと赤瀬川原平先生のマネだったではないか?! と気がついたのだ。
 赤瀬川さんは、いつも近くにいすぎて、私はそのことに気がつかなかった。「赤瀬川さんみたいなことをしたい」と具体的に考えたことはなかったのだが、やってることは、まさにそのままだった。
 赤瀬川さんは、60年代前衛芸術の世界最尖端に立ってしまった。これは、「前衛芸術は売れないもの」と赤瀬川さんが思っていたからに違いないと私は思う。
 キャンバスをハトロン紙で包んで麻紐でしばった「梱包作品」と、千円札を不必要に正確に拡大模写した過激な「作品」が、売れるとは毛すじほども思っていなかったはずだ。からこそ、その作品は60年代前衛芸術の最先端に立ってしまったのだ。
 赤瀬川さんは、前衛芸術家として一家をなしたかったのか? 否。
 そうではなかったからこそ「これでおしまい」にしようとして作ったのが梱包と千円札だった。
 「おもしろい」からやっていた。それが、犯罪や裁判へとつながってしまったあとは、前衛と平行してそれまで「生活のため」にやっていた週刊誌の見出しのレタリングや、カットや挿し絵を注文されるままイラストレーションを量産するようになる。そして「生活のため」だったはずのそれを、おもしろがって要求以上の作品にしてしまっていた。
 その作品は当時の日本のイラストレーションの名作になってしまったし、連載が単行本になった『櫻画報』は当時最尖端のイラストレーションの一方の雄だった。それでは、赤瀬川さんは「イラストレーター」になったのか? そうではなかった。
 イラストレーターであり、小説家であり、画家であり、と紹介されるけれども本人は何かになりたかったわけじゃない。ただ頼まれるままに自分のおもしろいと思うことをしていたのだった。
 私は知らないうちに赤瀬川さんのマネをしていたのだ。
 ちょっと前に、NHKの『ラジオ深夜便』という番組で、インタヴューされて、この50年間どんなふうに過ごしてきたか、話すことになった。
 そもそもは、この「私のイラストレーション史」を担当の方が読んでくださったのが企画のはじまりだったらしい。だから、コドモの頃からの話、極端に「小さいりんごとデカイみかん」のことも、美人の美大生の話も、高校で『みづゑ』と『ガロ』と『話の特集』に出会って、絶大な影響を受けたことも、すべて知った上でのインタヴューだった。
 澁澤さんと赤瀬川さんと木村さんの名前に憧れて「美学校」へ入学し、宮武外骨と山本作兵衛と今和次郎を知り、マクルーハンとレヴィ=ストロースと稲垣足穂を知ることになる。
 三味線の皮張りのバイトで、インチキ商売や会社社会の人間関係をのぞき見、本屋の立読みでつげ義春の『李さん一家』と出会い、さかのぼって『ガロ』連載のすべてのつげ作品を通読して、しばらくすると次のバイト先のベルトコンベアに乗って『つげ義春増刊号』が流れてきた。という具合に、話しているうち、奇妙なことに気がついた。
 芸大をめざして、都立高の入試を受けたが失敗、定時制にもぐり込んで夏休みに転入試験を受けたが失敗、やっとこ翌年に工芸高校にギリギリ入学したものの卒業時には赤点で追試、追々試でお情けの卒業はしたものの、芸大入試を失敗、失敗、失敗と、あらゆる試験に落ちまくり、結果、試験のない「美学校」へ入学することになったこと、その学校がめちゃくちゃおもしろかったこと、その時期があったからこそ、無試験で『ガロ』の編集者になれたこと。
 と、すべての一つ一つは、承知していたことだけど、そのすべてがそれぞれに有機的に関係していて、そのすべてがムダじゃなかったばかりか、少しのムダもなく、まるで予め決められていたかのように推移していったのだ。というのが明らかになったのだ。
 美人のおねえさんに憧れなかったら、私はこっちの方にいなかった。水木さんや羽仁さんに憧れなかったら私は自分がおもしろがったことで何かをしたいと思わなかった。そしてなんといっても和田さんである。和田さんに憧れたことが決定的にいまの場所に自分をひっぱってきてくれたのだ。
 試験に落ちつづけなかったら、木村さんにも赤瀬川さんにも出会わなかったのだし、長井さんにもつげさんにも出会わなかっただけでなく、水木さんにも、澁澤さんにも種村季弘先生にも松山俊太郎先生にも、巖谷國士先生にも会えなかったのだった。
 私は横道にそれてそれてそれて、結果、最短距離でいまの自分のところに来ていた。おもしろいとこ、おもしろいこと、たのしいこと、たのしいとこに流されて、出会った人々に流れの方へ方へと押し流していただいて、やってきたのだったと気がついた。
 私は、中2の私を魅きつけて下さった和田誠さんへの感謝を「私のイラストレーション史」として書きたい。と思ってこれを書き出した。「こんなおもしろいことをする人になりたい」と思って私は、グラフィックデザイナーをめざし、イラストレーターをめざした。
 いま私は、装丁デザインを仕事にし、エディトリアルのイラストレーターをしている。けれども、ほんとうに和田さんが考えたあの頃の「イラストレーター」に私はなれたのだろうか? なれているのだろうか? 
「一体どんな仕事をやったっていうんだろう?」
 と疑問を持ちだすとぜんぜん自信がない。
 何人のイラストレーターが、私の仕事を同業者として認めてくれてるだろう? 考えたら「やんなる」くらいだ。
 こんなヤツが書く「私のイラストレーション史」なんて、誰が読むんだろう? と思ってしまう。
 だから私は、考え方を変えることにした。私はおもしろいと思うことをやってきた、おもしろそうなとこで、おもしろいと思うことを、いろいろ工夫して楽しんでやってきた。
 そうできたことを和田誠先生に感謝しよう。
 和田さんが楽しそうに、おもしろいことをされていた。楽しませてくださった。そのことに感謝してるヤツがここにいる。というのが「私のイラストレーション史」なのだ。と考えることにしたのだ。

 

(最終回)

「私のイラストレーション史」は今回で最終回となります。長い間ご愛読ありがとうございました。 本連載は「イラストレーション」盛りだくさんの単行本として2018年秋に刊行される予定です。単行本をどうぞお楽しみに!