私のイラストレーション史 南伸坊

2015.12.16

05決定的だったマンガについて/私のオールタイムベスト『河童の三平』について語ろう

 

1. 決定的だったマンガについて

 

 が、生涯でもっとも熟読した本は、夜店で5円だか、10円だかで買った『若ノ花ものがたり』っていう、ふろくのマンガ本である。
 小学四年の時だった。そのおそろしく薄っぺらな(50pくらい)マンガ本を、ほんとうにすりきれるまで読んだ。
 とても不思議なことだと思う。私はそのマンガの絵柄をぜんぜん好きじゃなかったし、主人公の若ノ花のことも、特に好きじゃなかった。その人の伝記マンガをすりきれるほど読んだのに、好きなお相撲さんは、依然として若ノ花の好敵手・栃錦だったし、千代ノ山だった。そう、あのカセくんちの土佐犬の名前として覚えた二人だ。
 もっとも、千代ノ山への熱意はだいぶ薄れてはいた。しかし空前の相撲ブームと言われたこの当時、ブームを牽引していたのは「栃若時代」と称された二人の小兵力士、栃錦と若ノ花だったのだ。
 二人は、何度も名勝負を見せた。実力が伯仲していて、技がキビキビしていて、ほんとうに面白い相撲だったのだ。相撲好きで無口な今川焼屋のおじいさんと仲よしになって、もっぱらこちらで、一個5円だか10円だかの今川焼一個を購入して、放送開始から結びの一番まで、TVの前に陣どっていた。
 つまり、何を言わんとしてるのかというと、なんであれほど熟読していながら、若ノ花に1ミリも近づかず、マンガ家の名前も覚えず、(そのことで、いまだにその本と再会できていない)しかも、なんで? あれほど熱中できたのか? という疑問だ。
 私は、『まぼろし探偵』の桑田次郎も『矢車剣之助』の堀江卓も『赤胴鈴之助』の武内つなよしの名前も覚えている。『ロボット三等兵』の前谷惟光も『スポーツマン佐助』の寺田ヒロオも、ちゃんと覚えていた。

あきち5

 ところが、もっとも熟読して、コマ割りまで記憶した「若ノ花ものがたり」の作者名を覚えていず、今回のテーマである『河童の三平』の作者名も、高校生になって再会するまで知らなかったのだ。
 『河童の三平』に出会った時期を、私は長いこと、小学生だったとカン違いしていた。私は四年生か五年生に出会ったと思っていたのだ。それはいま思うと、主人公の三平が、お爺ちゃんと死別するシーンを、私が小3だった姉との死別、私が小5だった、父との死別の体験と重ねていたからかもしれない。
 ほぼ同世代のみなもと太郎さんと話していて指摘されて、ずいぶん驚いた。正しくは、私が『河童の三平』に出会ったのは、1961年、中2の時だった。
 私の水木しげる体験は、甚大な影響を私にもたらしたのだが、その時期が私の記憶の中でまるでデタラメになっていた。
 私が『若ノ花ものがたり』をスリきれるまで読んだのは、それを5円だか10円だか(それも覚えてない)ともかく自分のこづかいで、自分で選んで買ったからだろう。
 『河童の三平』は貸本だったので、私はその日のうちに、つづきを借りにいったのだったが、おばさんは「つづきはない!」と剣もほろろだった。「借りたものをちゃんと返さない者があるからだ!」と、おばさんはその返さない客への怒りを私にぶつけた。
 結局、私は五巻目か六巻目くらいのところでプツリと関係を切られてしまった。とにかく、私はこの『河童の三平』が、私が出会ったマンガのオールタイムベストだ。と思っているのだが、にもかかわらず、前谷惟光は覚えていながら、水木しげる先生の名前は覚えていなかったのだから、そのウカツさは不思議というしかない。(前谷惟光先生もけっこう好き)
 ほぼ同じころ、私は和田誠さんの作品に出会っていて、つまり中2で、私は生涯に甚大な影響を受けることになった二人に出会ってしまったことになる。
 そして、もう、おわかりかと思うけれどもその人が、和田誠という名だということは、やっぱり、私は知らないでいたのだ。
 私が出会ったのは、大人の週刊誌に載っていたピースの広告だった。だからこの時点で和田さんの名前がわからないのは、やむをえない。このページのバナーのタバコを吸う博士は、そのピースの広告のイラストレーションの模写なのだが、それはつまり私の原点をあらわしている。

あき地6イラスト3
 週刊誌のグラビアページに、その広告は毎週載っていたと思う。ザラ紙のページではなく、グラビアページだったから、ハイライト製版のイラストレーションは、中間のアミにトーンのある、つまりゼイタクな図版だった。
 私はどこか、歯医者さんの待合室だったか床屋さんのソファだったかで、この絵に出会ったハズだ。「いいなあ」と思った。「こういう絵を描く人になりたいなあ」と私は思った。
 和田さんがヘルベルト・ロイピンやドナルド・プルンの作品に出会って「ポスターを描く人になりたい」と思ったように、私はこのピースの広告みたいな絵を描く人になりたい。と思ったのだった。

あき地6 イラスト4



 私のイラストレーターとしての仕事に、甚大な影響を与えて下さった水木しげる先生が亡くなった。93才の大往生であると思うけれども、もう、あのたのしいお話が聞けないのだと思うととてつもなくさみしい。
 今回の原稿に関連する一文を、私は先生の「水木しげる漫画大全集・河童の三平(上)」の巻に「解説」として書いているのだが、本稿と重なる部分が多く、気持をうまくまとめられているので、加筆して再録させていただく。

 

2. 私のオールタイムベスト『河童の三平』について語ろう

 

 小学五、六年のころに、私が好きだったマンガは寺田ヒロオの「スポーツマン猿飛佐助」というのだった。寺田ヒロオはその後、私が中学生になったころには、『少年サンデー』だったか、『マガジン』だったかで「背番号0」とか、「スポーツマン金太郎」を描いたりしていて、私はそれを時々見たりもしたが、そのころは当時のナマイキな中学生のセリフ「マンガは卒業した」というのを、いいつもりで、自分の意見のように感じていたのである。
 それでも貸本屋には通っていたから、『街』『影』『摩天楼』といった劇画誌も借りて読んだりもしていた。しかしマンガも劇画も所詮、子供のものだと子供は思っていて、だから子供ながらにバカにしていたのだった。
 そんなころ子供は、水木しげるの『河童の三平』(兎月書房版)に出会って、びっくりしたのだ。いや、びっっっくりしてしまった。いやいや、びっっっっっっっっっくりした。つまりものすごく驚いた。
 いままでに見たことないマンガだ。と思った。「このマンガは子供向きに描かれていない」と子供は思って、だからうれしかったらしい。同じころ、子供は池袋にあった人生坐という、いわゆる名画座のハシリのような映画館で、黒澤明の三本立てに通ったりして黒澤映画のあらかたを観ていたから、バリバリ黒澤ファンだったのだが、同じ映画館で、当時まだ三十代の若手であった羽仁進の『不良少年』という映画を観ると、それからは黒澤明よりも羽仁進のほうがずっとスゴイ! と思っていた。
 私がびっくりしてものすごく気に入ってしまったのは、水木しげるも羽仁進も、いままでのマンガやいままでの映画の作法と、まるっきり違うものを発明したところだった。
 羽仁進の映画の主演は、ほんとうの不良少年で鑑別所に入っていた男の子に、いつものまんまのしゃべり方で、しゃべらせたのだった。それは、びっくりするほど、それまでの映画と違っていた。
 水木しげるのマンガも、登場人物が、マンガなのにまるでマンガの中の登場人物のようでなかった。つまりマンガ用のセリフを言わないし子供向けにわかりやすく説明したりしなかった。大人が出てくれば、その大人はゴロリとそのまま、ほんものの大人のようだった。
 いちばん何に似ていたかというと、いま思えばだが「落語」だと思う。当時ラジオで落語がよく放送されていて、そのころの落語家たちは、まじめな大人とはぜんぜん違う、玄人っぽい匂いのするおじいさんたちだった。
 酒や女やバクチの話をしちゃあ、大人を笑わしてるような人々だ。
 背のびをしている子供は、子供向きでないものが好きなのだ。その匂いは、ストーリイや登場人物の、ちょっとした言い回しだったり、ギャグだったりから匂ってきた。水木先生の大好きな、屁のようでもあり、しかしそれを「魂」のようにも感じさせるものである。
 読解力とかいうより、直接に描かれたものの背後を、子供はなんとなく感知していたのではないか。
 たとえば、水木しげるのへろへろな描線である。おじいさんが死神に連れてゆかれて「とうとう一人ぼっちになってしもうた」と言ってる三平の背後で、栗の実がひゅーっと落ちてきたりして、さみしい。
 お茶漬かなんかを、サラサラサラと食べたあと、三平がだだっぴろくなってしまった座敷で、コロンと横になってるところ、寝返りをうって横向きになったりしてるところの、絵の完成度はどうであろうか。
 すばらしい! こんな絵は、水木しげるでなくてはゼッタイ描けないし、何度見ても釘づけになってしまう。
 私は小学三年生で、すぐ上の仲の良かった姉を病気で亡くし、五年生になって父親を亡くしている。中学生になって『河童の三平』を見て、この何コマかを、まるで昔の自分を見るように見つめていたのだろう。このコマを見ると、デジャブが起きた時のような感覚になる。ものすごく力のある絵だ。

 

あき地6イラスト2

  絵柄はまったく「力のぬけきったような」絵なんですけどね。
 そうして、その後「友人」になる、たぬきの、いつのまにか横にねているところ。なんてかわいくて、グッとくるシーンだろう。たぬ吉くんは、キャラクターとしても、このあと、どんどんかわいくなるのだが、この時の、陰嚢(いんのう)も陰茎もバッチリのたぬ吉くんも、私は大好きである。
 私はその日のうちにいそいでつづきを借りに行ったと思う。後の巻は誰かが借りたまま返さなかったらしく「それで終わりだ」と言われたのだったが、とにかくブツッと私と『河童の三平』との関係は断たれてしまった。再会して、結末まで読んだのは、青林堂から復刻本の出た、1993年のことだった。なんとその間三十年という歳月が流れていたのである。

 

 

 

(第5回・了)

 

この連載は月1更新でお届けします。
 次回2016年1月20日(水)掲載