私のイラストレーション史 南伸坊

2016.2.17

07ニシムラくんのレコード盤

 

  ニシムラくんは、今思えばけっこうエルビスに似ていたのである。ただその時点で私はエルビス・プレスリーの顔を知らなかったし、歌も聴いたことがなかった。

あきち07-1  何かしてるなと思ったら、ニシムラくんは、ノートにエンピツで、レコードの絵を描いていた。それをていねいに丸く爪でちぎると、
「ちょっとココ持ってて」と私に命令した。
「指で」と言いながら人差し指を立てて、その紙のレコードの中心に立ててみせている。
 私は完全にニシムラくんのペースに巻き込まれていて言うとおりにするしかなかった。私の指が中心に立てられると、ニシムラくんは、レコードの端を指でつまんで回転させはじめた。
 そうして、もう一方の指をカギ型の「レコードの針」にして、そっとレコードにふれると、前奏とともに突然歌いだした。中学生ばなれした太い声、曲にあわせて腰をくねくね振っている。不気味だ。
 中学一年の新学期のはじまったばかりの頃だ。ニシムラくんとは、はじめての会話である。自分よりずっと大人だと思った。髪の毛はリーゼントでもみあげを伸ばしており、学生服のホックと第一ボタンがはずしてある。
 ニキビを潰した、夏みかんのような肌をしていて、唇が分厚かった。「不良だな」と私は思っていて、その大人びた太い声と、腰をくねらす動きと、はじめて聴く、まだ習ってもいない英語と、そのすべてに呆気にとられているのである。
 その時のことを何度か思い出すごとに、ニシムラくんは『GIブルース』を歌っているんだけど、『監獄ロック』だったかもしれないし『冷たくしないで』だったかもしれない。なにしろ私はその時点では、エルビスのエの字もプの字も知らなかったのだ。
 ニシムラくんの作った、ノートの切れ端のレコードは、まるでミンガリング・マイクのボール紙レコードみたいだ。あの時、親しくなっていたら、私のイラストレーション史にもちょっと違う展開があったかもしれないのに、私は呆気にとられたままで、深くつきあうこともなかった。

あき地07-2  二年になって、クラスが変わってしまったし、それきり進展はなかったのだったが、それでも二年生になる頃には私は西部劇とアメリカのポピュラーソングにそこそこ親しむようになっていた。
 エルビスは『燃える平原児』っていう西部劇に出たし、リッキー・ネルソンは『リオブラボー』に出た。デル・シャノンの『悲しき街角』とかニール・セダカの『恋の片道切符』とかが何かの拍子に耳に入ると、いまでもいきなり中学時代に激しくタイムスリップするような気分になる。
 不思議なことに、音楽がタイムスリップさせるのは、私の場合、この中学時代の’60sのアメリカン・ポップスに限られている。
 フランク永井の『有楽町で逢いましょう』も、水原弘の『黒い花びら』も植木等の『スーダラ節』も大好きで懐かしい曲けど、それを聴いてもタイムスリップするような感覚はおこらないのだ。
 植木等といえば、全然別の話、私は、人格のかなり根深い部分で甚大な影響を受けていると思っている。以前、一度だけTV局で植木等さんと会話する機会があった。
「同年代で気の合う奴は例外なく植木さんに思想的に影響を受けてます」
と、私は固まりながらそう言った。植木さんは、
「責任を感じます」
と、まじめな顔で返答された。そばにいた桂文珍さんが大笑いされていた。文珍さんも私と同じくらいの年齢のはずだ。植木さんは、「無責任男」を演じていたから、そのことをジョークにしたのだろう、でも私はうまく自分が感謝してる本当の気持ちを伝えられなかったのが、とても残念な気分だった。
 植木さんが作ったキャラクター全体が持っていた思想は、「無責任」というようなコトバだけではとらえきれないものだ。
 ニシムラくんのことを書いてるうちに、すっかりイラストレーション史のワキ道へ入ってしまった。
 何でニシムラくんを思い出したのかというと、私が高校入試に失敗し、補欠募集の入試にも失敗して、こうなったら都立文京高校の「定時制に行くしかないな」ってことになった雪の日に、ニシムラくんが、ひょっこりうちをたずねてきたからだ。
「あれはどうしてだったろう?」
と思って考えてるうちに、こうなってしまった。
 中学三年生の頃まで住んでいた、北池袋の家には、ちょうど相撲がとれるくらいの庭があった。土俵くらいの広さ。
 そこにその日、春の雪がキレイに積もっていて、私はぼんやりそれを見ていたのだ。すると、ゴム長をはいたエルビスがやってきて、その雪を妙にていねいに、まんべんなく踏み荒らしながら、しばらく世間話をしていった。
「高校入試はどうだった?」
みたいな話だったろうか? それは覚えていないのだ。庭の雪は、オレがあとで足跡つけようと思ってたのにな、と思ってたような気もする。でも、ニシムラくんの、その奇妙にリチギな足跡のつけ方を見ているうちに「それはまあいいか」という気分になっていたのも覚えている。
 私は文京高校の定時制に通って、夏休みにあった全日制への転入試験を受けたが、これもダメだった。ようするに、私の進学の計画は、小学生時代に、なんとなく決めていた、「都立の一流高校へ入学して卒業して芸大に入学する」っていうバクゼンとしたものだったのだが、中二の二学期くらいで周囲が受験にそなえて勉強しだすと、どんどん成績は下がっていって、先生からは志望校を変更するようていねいな指導があったが、全然聞き入れなかったのだ。
 なぜかというとこの志望校というのが、またしても美人の上級生のシズエさんが通っているというのが理由で、だから、なんとしても「そこにいきたい」と思い込んでいたのであって、まるで計画性というものはないのだった。
 いずれは芸大に進学するので、そのためには、そのくらいの高校に行っとかないとな、とは思っていたらしい。
 二年目はさすがに少し考えた。そして、ここなら、なんとか入れそうだ。と思って受験したのが「都立工芸高校」だったのだが、結果、なんとかここにもぐりこむことはできたものの、おそらく、ギリギリでひっかかったに違いない。
 なにしろ、工芸高校の卒業式に、私は出ていないのだ。卒業式の日、数学の単位がとれないまま、追試、追々試を受けさせてもらっていた。
 しかも、そんなテイタラクなのに、東京芸大の入学試験はちゃっかり受けているのだ。当然、堂々と失敗。その後、三回さらに失敗を繰り返すことになる。
 私は、デザイナーになる(イラストレーターになる)と決めたのは、早々と小学六年生にだったが、以後一度も将来に対して、具体的に計画を練るということをしていなかった。
 試験は受ける度、ことごとく失敗した。合格する学力がなかったからなのだが、自分ではなんとかなるような気がしていたのだ。

 

あき地07-3

 

 

(第7回・了)

この連載は月1更新でお届けします。
次回2016年3月16日(水)掲載