私のイラストレーション史 南伸坊

2016.4.20

09『話の特集』と『ガロ』

 

『話の特集』を買って、勇んで教室へ行った日のことは、今でもよく覚えている。遅刻ぎみに教室に入ると、人だかりがしている。
 のぞき込むと、人だかりの中心に、秋山道男(のち俳優・編集者・プロデューサー)がいて『話の特集』を机の上で開いていた。
 秋山は唐十郎のテント芝居も、VANジャケットのアイビーファッションも、フーテンバックも、当時の流行り物の全てをまっ先にクラスにもたらしていた早熟少年だった。
 もっとも1964年に創刊されていた『ガロ』を、教室に最初に持ってきたのはエルビン斉藤(エルビン・ジョーンズのファン)だったが、斉藤には大学生の兄貴がいて、その兄貴がつまり「近頃は大学生がマンガを読む」とマスコミに騒がれたその大学生だったのだ。
 『ガロ』はたいがい毎月、教室で回し読みされた。私はその『ガロ』で、なつかしい『河童の三平』のあのマンガ家・水木しげるに再会したのだ。
 当時、学生がマンガを読むのは、白土三平が唯物史観のマンガ家だとか、革命のマンガ家だとか言われていたからだった。クラスでも一番人気はその白土三平だったが、私はだんぜん水木しげる派だった。
 そのヒトを食ったようなへろへろの線で、大人な笑いをくりひろげていた。『五円玉』っていうパロディマンガを描いたのは、1966年だったと思う。
 パロディっていう冗談の形式に名称があったと知ったのは、『話の特集』でやった和田さんの名作パロディ「殺しの手帖」や「雪国」でだったと思う。「殺しの手帖」は「暮しの手帖」のレイアウトと編集センスのパロディだった。
 私は、中学生時代、『暮しの手帖』のレイアウトやデザインをけっこう好きだったのだが、その頃は例によって「もう、アレは古い」と思っていたから、和田さんのパロディも同じような気分から作られているものと思っていた。が、今考えてみると『話の特集』のあのスッキリした、エディトリアルデザインは『暮しの手帖』と無関係ではなかったのかもしれない。
 雑誌というのは、不思議な影響力を持っていると思う。私は自身の考え方が『話の特集』の圧倒的な影響を受けていると思っているし、『ガロ』がものすごく心にくいこんでいると思っている者だが、それは雑誌の主張、たとえば『話の特集』で言うなら「反権威、反権力」っていうようなスローガンとしてではなく、冗談の質とか、絵のセンス、レイアウトやデザインの身ぶり、みたいなものから感じとったなにかだった気がする。
 『ガロ』には、デザイン的な要素はまったくなかったが、その分水木しげるのへろへろの線があった。水木さんの絵は、実は当時の日本のマンガ文脈からけっこう離れているのだ。
 戦前、コドモの頃には、清水崑のような絵柄でマンガ風の絵も描いているけれども、水木さん自身は、もともと絵描きになろうとしていて、絵本作家・武井武雄や初山滋風の絵を描いていたし、マンガ家になってからも内外の画家の引用だったり、江戸時代の絵からアメリカンコミックス、日本画から西洋中世の版画まで、あらゆる方向への目くばりがされている。
 和田さんの「殺しの手帖」のパロディと同年に、ガロ作家をパロって描いたマンガ「五円玉」が描かれたのは、ひょっとすると水木さんのこの目くばりの結果であった可能性もありうる。
 実際、この和田さんの1966年の作品がパロディ元年といっていい。のちに赤塚マンガにも、ややくだってつげ義春の『ねじ式』の数え切れないパロディマンガにも、そして、『ビックリハウス』の創刊や読者参加のパロディ旋風の淵源にもなっている。
 もちろん、その間に赤瀬川原平による別口の「宮武外骨経由のパロディ」もあったけれども、それはまたの機会に。
 ともかく私は和田さんの画風模写パロディにものすごく刺激されたのだった。高校の2年生のときに、当時、憧れだった一コママンガの作家、久里洋二、長新太、井上洋介、和田誠、のそれぞれのタッチでマンガを描いて、友人たちに発表した。
 『話の特集』や『ガロ』を教室に持っていって披露したように、自作のマンガを持っていったわけだ。以下がそのときのマンガ。私にしてはよく今までとっておいた。

 

1井上洋介風

 

 

2久里洋二風

 

 

3長新太風

 

 

4和田誠風

 


 この自分の好きな絵柄をマネして、マンガを作るっていうのは、出来上がりがいきなり「プロ」っぽくなるのが、とても気持ちいい。ところが、自分の絵で同じアイデアのマンガを描いてみると、まるっきりダメなのをつくづくと思い知ることでもあるのだった。
 今思い出したが、この「線マネ」の最初は粟津潔のニセポスターだった。グループの物知り松ちゃん(松本くんは、私に東京オリンピックのポスターを描いたのがカメクラユーサクという人だ、と一年生の春に教えてくれた友人だ)が、熱烈な粟津潔ファンだったので、粟津潔風のニセポスターを描いて持っていくと、思いのほかにウケたのだ。
 ほとんど桜田淳子のモノマネをしてクラスでウケた清水ミチコみたいなものだ。友だちにウケるのがうれしくて、私は次々にモノマネをした。
 どんどん思い出してきた。和田さんの座頭市はペルソナ展のときの広告ページにあったキャノネットQLのイラストレーションが元だったかもしれない。
 フィルムのつめかえがカンタンだっていうアピールに、座頭市がカメラの裏ブタあけて「どどどめくらの私でもフィルムがつめられます」と言ってるっていう今ではとても考えられないアイデアなんだけど、この頃、和田さんは座頭市ファンだったらしくてマンガでも何度か座頭市を描いている。
 「だれかいるね」っていうのも、あるいはそのときのセリフだったかもしれない。横でギクッとしてるのは、当時CMのアニメで人気のあった水虫薬のバイキンキャラクターだ。
 ところで、この線マネだが、先日、和田さんとトークショウをしていたときに、私とは段違いのエピソードを聞かされてしまった。実は和田誠『時間旅行』にも、このエピソードはインタビューで語られていたのだが、高校一年生のとき、友人の藤田くんの家でソール・スタインバーグの「ALL IN LINE」っていう画集を見せてもらって、三日間それを借り受け「全ページ模写した」という話だった。
「えー?! まるで南方熊楠じゃないすか!」
と私は返したのだったが、この高校生のときの全ページ模写が、どれほど和田さんの実力を引き出したか計り知れないと思う。
 まず、スタインバーグの画集ってとこが、まるでステージが違う。まさに、その時点で世界最突端のスターイラストレーターでマンガ家でアーチストである。それを初見で、全ページ模写したい! そして実際にやってしまった! という高校1年の和田誠少年の眼力と意欲と集中力である。
 高校生時代、既に和田誠さんの天才はバッチバチに花開いていたということですね。

スタインバーグ下手模写

 

 

(第9回・了)

この連載は月1更新でお届けします。
次回2016年5月25日(水)掲載