僕たちはなぜ創るのか 岩井圭也

2024.4.30

01はじめに


突然のスランプ

 ある日、原稿が書けなくなった。二〇二二年の秋のことだった。
 僕はその年の八月から専業作家になっていた。それまでフルタイムの会社員として働きながら小説家として活動していたが、勤め先を退職し、(少なくとも当面は)筆一本で生きてみようと決めたのだった。
 専業作家になるにあたって、僕は「生産量を二倍にする」ことを目標とした。それまで原稿用紙換算で月に百二十枚くらい書いていたから、専業になってからは月二百五十枚、年間で三千枚を目標に定めた。
 目標をクリアするため、僕は八月からフルスピードで飛ばした。メモを見返してみたら、八月は三百八十枚、九月は四百六十枚も書いていた。仕事に費やしていた時間を小説にあてられるようになった僕は、執筆の虜になっていた。書けば書くほど収入は増えるのだから、書かない理由がない、と思っていた。今思えば、「専業作家」という肩書に酔っていたような気もする。
 ここまでで大方の人が察したと思うが、明らかに当時の僕は張り切り過ぎていた。いくら時間ができたからといって、いきなりそれまでの三倍以上に生産量を引き上げるのは無謀だった。それでも、ハイになっていた僕はスピードを出し過ぎていることに気付かない。「ランナーズハイ」ならぬ「ライターズハイ」だった。
 自覚症状が出てきたのは、十月に入ってからだった。なぜかいい文章が浮かばず、陳腐な展開しか思いつかない。それでも無理やり書いていると、一応形にはなるが、なんとなく気に入らない。また書き直すことになる。原稿の進みが悪くなり、イライラしてさらに無理やり進めようとする。さらに不本意な文章が増える。僕は悪循環から脱するため、もがき続けた。
 そして十一月に入り、取りかかっていた長めの作品を脱稿した直後、僕の筆はぴたりと止まった。
 愛用しているノートパソコンの前に座っても、文章が思いつかない。登場人物に入りこめない。無理やり書けば説明調になり、小説の文章にならない。ここに至って、僕はようやく自分が飛ばし過ぎたことに気付いた。
 しかし締め切りは待ってくれない。当時、僕は文芸誌での連載を三本抱えていて、年末には四本目も開始することになっていた。幸い原稿の蓄えは多少、ある。しかし何か月も休めるような状況ではない。
 ――ヤバい、ヤバい、ヤバい。
 書き過ぎていたことはわかる。少しの間、休むべきだということも。しかし、ただ休んでいるだけでいいのか? 数日ぼーっとしていれば、また書けるようになるのか? 焦りが募るなか、本を読んだり映画を観たりしてみた。本当にこれで書けるようになるのだろうか、と思いつつ。
 そんななか、ネットで調べものをしていると美術展の案内が視界に入ってきた。美術館や博物館に行くのは好きだが、もう何年も足を運んでいない。兼業作家だった頃は仕事と執筆と育児に手一杯で、とてもそんな余裕はなかった。
 ――せっかく専業作家になったのだから、会社員時代にできなかったことをやろう。
 そう決めて開催中の美術展を調べてみると、東京都のリリースした資料が目に留まった(1)

アール・ブリュット2022巡回展「かわるかたち」の開催について

 聞きなれない単語が含まれている。「アール・ブリュット」とは、なんだろう? 同資料にはその説明も付記されていた。

 アール・ブリュット(Art Brut)は、フランスの芸術家ジャン・デュビュッフェによって提唱されたことばです。今日では、広く、専門的な美術の教育を受けていない人などによる、独自の発想や表現方法が注目されるアートを表します。

 この記述のうち、とりわけ「専門的な美術の教育を受けていない人」という部分に惹かれた。小説家としての自分自身と重なったからだ。僕は小説教室の類に通ったことがないし、特定の作家に師事しているわけでもない。文学の専門教育を受けたこともない(ちなみに大学では、農学部で微生物の研究をしていた)。我流で小説を書き、その末に小説家になった人間である。
 後になって思い出したのだが、以前、NHKで放送されていた『人知れず表現し続ける者たち』という番組を見たことがあった。この番組はアール・ブリュットの作り手たちに迫るドキュメンタリーで、いつか作品をじかに鑑賞したいと思いつつ、一度も実現できていなかった。
 この巡回展は都内三か所で開かれ、さらに八丈島でイベントを開催するという。リリース資料を見た時は、ちょうど府中市美術館での会期中だった。僕はこの巡回展を訪れることに決め、翌日には足を運んでいた。
 その会場で僕は、衝撃を受けた。
 巡回展には十名の作家の作品が展示されていたが、どの作品にも既視感がなかったのである。
 既視感を覚えること自体は、別に悪いことではない。美術作品であれ小説であれ音楽であれ、先行する作品の影響を受けているのは当たり前だからだ。当然、僕の小説もふくめて。既視感から脱することは不可能で、そのなかでいかにオリジナリティを出すかが勝負だと思っていた。
 けれど、巡回展の作品にはそもそも既視感がなかった。最初から、唯一無二の存在としてそこに屹立していたのである。
 たとえば、吉川秀昭(よしかわひであき)さんが制作する陶芸や絵画は圧巻だ。そこには無数の「点々」が刻み込まれ、立ちすくむような迫力を生み出している。実はそれらの「点々」はすべて「目、目、鼻、口」、すなわち人の顔なのである。紙や粘土に刻まれた無数の群衆は、挑むように鑑賞者を見返している。
 萩尾俊雄(はぎおとしお)さんの立体造形物もユニークである。怪獣様の造形物は、チラシやセロハンテープで作られている。テープをねじったり、チラシを折り曲げることで角やたてがみ、尻尾や羽と思しき部位を精巧に作り上げているのだ。「チラシは、色や柄の現れ方を意識しながら選んで用いている」そうで、色使いや文様に注目するのも楽しい。
 いずれも他ではまずお目にかかれない作品である。鑑賞しながら、僕は呆然とした。
 ――こんな世界があるのか。
 アール・ブリュットの作者たちは知的障害や精神障害の当事者であることが多く、この巡回展も例外ではなかった。既視感がないのは、そのことと関係があるのだろうか。美術館の一角に設けられた展示コーナーで、みっちり一時間半を過ごした。
 帰宅した僕は、原稿を書くためノートパソコンに向かっていた。久しぶりにいいものが書けそうな予感があった。時おりスマートフォンで撮った作品(もちろん許可は得たうえで)を見返しながら、ぽちぽちとキーボードを叩き、新しい小説を紡いでいく。まるで、巡回展の作者たちが放つ創作への熱が乗り移ったようだった。
 こうして、小説家になって以来初めてのスランプを乗り越えることができた。人によっては、スランプと呼ぶほどでもない小さなつまずきかもしれない。それでも僕個人にとっては一大事だったのだ。
 その後、僕はアール・ブリュットに関する本を読むようになった。一般向けの書籍を買ったり、過去に開催された美術展の図録を取り寄せたりして、少しずつ接点を増やしていった。そのうち、ある欲求が心のなかにむくむくと湧き上がってきた。
 ――アール・ブリュットの作り手たちが、創作に向かう動機を知りたい。
 決して一概には言えないが、彼ら彼女らが他者に評価されることを目指して制作に取り組んでいるとは、ちょっと考えにくいからだ。どちらかと言えば、「つくりたかったからつくった」というのが正しいのではないか。
 念のためことわっておくと、僕はアール・ブリュットのすべての作品が「他者の視線を意識したものではない」と断言するつもりはない。たとえば、巡回展の会場では本田雅啓(ほんだまさはる)さんによるワークショップの模様が放映されていた。この場合は自らの制作風景が流されることや、何らかの形で作品が展示されることについて本田さん自身も理解していただろう。単純に「つくりたかったからつくった」という動機だけではなかったかもしれない。
 けれど、その奥には他者の視線や経済的な利益を度外視した動機があるのではないか。アール・ブリュットの作品には、原初的な衝動とでも呼ぶべきものが潜んでいるのではないか。そして僕自身、その根源に触れることで、創作活動とよりよい関係を築けるのではないか。
 そんな思いを募らせているさなか、亜紀書房の編集者と知り合う機会があり、いろいろと話しているうちこの連載に結実した。
 本企画の目的は次の通りだ。
 「アール・ブリュットと呼ばれる創作物や創作に携わる人たちを通じて、創るという営みの源泉に迫ること」
 結局は自分のためだろう、と言われれば返す言葉もない。ただ、小説を書いたり絵を描いたりするのだってそもそも自分のための行為だ。それを否定することは、あらゆる創作活動を否定することになる。
 僕は「自分のため」に、創作の源泉を辿る旅へ出ることにした。

自給自足からはじまった創作

 ここまでつらつらと語ってきたが、そもそも岩井圭也とは何者なのか、といぶかしんでいる人も多いだろう。また、岩井の小説を読んだことはあるけれど経歴については知らない、という人もいると思う。ここで改めて自己紹介させてほしい。
 僕は二〇一八年、『永遠についての証明』という小説で新人賞(野性時代フロンティア文学賞)を受賞し、デビューした小説家である。これを書いているのは二〇二三年の夏だが、これまでに単著を十数冊刊行してきた。それなりに売れた作品もあるし、あまり売れなかった作品もあるが、そんなこととは関係なくすべての小説が僕の大事な分身である。
 初対面の人に小説家だと名乗ると、必ずと言っていいほど訊かれるのが、こんな質問である。
「どんな小説を書いてるんですか?」
 この質問にはいつも苦労する。ミステリーとか、SFとか、ホラーとか、スパッと答えることができないからだ。青春小説と呼ばれるものもあるし、ミステリーに分類されるものもある。ヒューマンドラマも、サスペンスも、山岳小説も書いている。だからいつも即座に答えることができず、愛想笑いとともに、
「いろいろ書いてます」
 と答えることになる。ごまかしているのではなく、事実だから許してほしい。
 年数的に新人でもなければ、中堅と呼べるほど実績があるわけでもない、発展途上の小説家だと思ってもらえればそう遠くはないと思う(この文章を書きながら、これからさらに発展してくれることを僕自身心から祈っている)。

 先述したように、この連載では創作の源泉について探っていきたい。
ただその前に、岩井圭也という作家がなぜ創作活動をはじめるに至ったのか、その遍歴をもう少しだけ述べさせてほしい。他者の話を聞く前に、まずは自分のことを話すべきだと思うからだ。
 僕が最初に小説を書こうと思ったのは、小学三年生の終わりだった。
 当時僕は、小学館から出ていた『小学三年生』という月刊誌を読んでいた。誌面にはマンガや読み物が載っていたが、なかでも特に好きなのが「ちあき電脳探てい社」という推理読み物だった。作者は北森(きたもり)鴻(こう)先生。その時はまだ駆け出しだったが、後に日本推理作家協会賞を受賞される、ミステリー界の名手である。「ちあき電脳探てい社」は、一、二話完結のエピソードから構成される、チャーミングな推理小説である。今でもたまに読み返すが、やっぱり面白い(ちなみに本作は『ちあき電脳探偵社』としてPHP文芸文庫から刊行されている)。
 この小説が大好きだった僕は、毎月貪るように読んでいた。もともと本を読むのは好きな子どもだったが、こんなに夢中になったのは初めてだった。しかし連載は永遠には続かない。連載が終了した時はひどく落胆した。
 ――もう、「ちあき電脳探てい社」の続きは読めないのか……
 十歳の僕は肩を落としたが、すぐに画期的な解決策をひらめいた。
 ――自分で同じような話を書けばいいんだ!
 自分が読みたい小説は、自分で書けばいい。つまり、「自給自足」が僕の創作者としての原点である。
 思いついたら早かった。僕は自分が読みたいミステリー小説を書くため、さっそくノートに登場人物の一覧表を作りはじめた。ストーリーよりも先にキャラクター作りに着手したのである。しかもあろうことか、主人公だけでなくクラスメイト全員分のプロフィールを作りはじめたのだ。今ならわかるが、これはなかなかの悪手である。設定を凝ることに満足してなかなか執筆をはじめない、というのは創作の初心者あるあるなのだ。
 案の定、本編を書きはじめたところすぐに行き詰まった。ミステリーを書こうにもトリックなど思いつかない。こうして初めての小説執筆は、未完のまま挫折した。
 ただ、その小説もどきを読んだ母が面白そうにしてくれたのは覚えている。それだけでなく、手書きの原稿をわざわざパソコンの文章作成ソフトで清書してくれた。九〇年代後半を生きる素朴な小学生だった僕は、自分の書いた文章が活字としてディスプレイに表示されているだけで胸が躍った。
 ――小説を書くのは楽しいかもしれない。
 その時ぼんやりと、小説家になりたい、と思った。まだ一編も書ききっていないというのに。
 中学生や高校生になっても、設定だけは考えていた。なんとなく気になる題材があれば、主人公や登場人物のプロフィールを考え、なんとなく頭のなかで動かして悦に入っていた。たまにノートに本編を書いてみるが、最後まで書ききれたためしはなかった。いつも途中で飽きるか、展開が思いつかなくなってやめてしまう。
 そうこうしているうちに大学生になり、故郷の大阪を離れて北海道で一人暮らしをはじめた。体育会剣道部に入った僕は、稽古と遊びとバイトに明け暮れ、本を読むことすらなくなっていた。
 そんな大学二年の春休み、僕はたまたま部活の関東遠征で東京に来ていた。品川の宿舎を借りて、一週間ほど都内の大学と練習試合をさせてもらうのだ。剣道部では毎年恒例のイベントであった。
 関東遠征のさなか、僕は空き時間にふらっと品川駅の書店に立ち寄った。何か目的があったわけではない。本当に、ただなんとなく立ち寄っただけだ。だが書店で大量の本を眺めているうち、唐突に思った。
 ――そういえば、小説家になるんじゃなかったっけ?
 何がトリガーだったのかはわからないが、とにかく、僕は自分の使命を思い出した。小学生の頃から、小説家になりたいと思っていたのだった。それなのに大学に入ってからの二年、まったくと言っていいほど小説に触れていない。
 急に使命感に囚われた僕は、再び小説家を目指すことに決めた。ただ、いきなり書きはじめたところでどうせ最後まで書けないだろう。なぜ僕はいつも、小説を書ききることができないのか?
 考えた末、「読書量が足りない」という結論に達した。それから四年間は小説を読むことに注力した(と言っても、この業界には恐るべき量を読む人がゴロゴロいるので、自慢できるような程度ではない)。
 そして大学院を出て就職した二十五歳の春、ようやく僕は一編の短編小説を書き上げることができた。そこから足掛け六年の投稿生活を経て、二〇一八年、三十一歳で小説家デビューするに至った。
 長くなってしまったが、僕の創作履歴はこんな感じである。こうして振り返ってみると、大好きな連載が終わってしまったことによる「自給自足」が創作の発端だったのは間違いなさそうだ。
 僕は今でも、自分が読みたい小説を一番正確に書けるのは自分だと考えている。これは僕だけの話ではないし、他の領域でも当てはまることだと思う。自分が鑑賞したい美術を、自分が聞きたい音楽を、この世で最も的確につくることができるのはその人自身だ。それも一つの創作の源泉には違いない。
 けれどアール・ブリュットの世界は、どうもそれだけでは説明できそうにない。

「アール・ブリュット」という言葉の意味

 本題に入る前に、整理しておきたいことがある。「アール・ブリュット」という言葉についてだ。実は、この言葉を定義するのはとても難しい。
 前掲の巡回展リリース資料に付記された説明は、「アール・ブリュット」の説明としてよく見かける類のものだ。すなわち、「専門的な美術の教育を受けていない人」が作り手として想定されている。
 ただ、この言葉は実質的に「精神障害や知的障害をもつ人によるアート」という意味で使われている場合もある。僕自身は、この用法にはあまり納得していない。
 まず、この言葉を提唱したといわれるジャン・デュビュッフェの考えを確認しよう。小林瑞恵によれば、デュビュッフェが旅先の精神科病院や刑務所で未知の表現者による作品に出会ったことが、この言葉を生むきっかけだったという(2)

 デュビュッフェはアール・ブリュットという言葉をつくることで、既存の美術領域には属さない、独創的で創造性の高い制作を行う無名の表現者たちの存在を言語化しました。そして作品を人々に紹介することで、その存在を可視化しました。存在すらしないとされていたものを表出させるために、そして存在しているのに名前がないものを捉えるために生み出した言葉こそ「アール・ブリュット」だったのです。

 つまり、既存の評価体系では扱われない創作活動に光を当てるため、作り出された言葉であったということだ。
 そもそも、障害の有無は一義的には決められないことが多い。たとえば、発達障害に「グレーゾーン」という言葉があるように、障害の程度はグラデーションになっている。障害をもつか否かを基準にすること自体、不毛さをはらんでいる。
 象徴的なのは、日本人作家の山下清(やましたきよし)だ。
 山下は色紙をちぎって貼り付ける「貼絵(はりえ)」のほか、水彩画、油彩画など多岐にわたる作品を残している。千葉県の八幡(やわた)学園という施設に在籍していた時期に注目を浴び、テレビドラマ「裸の大将放浪記」などの影響もあって、日本では広く知られたアーティストである。「ぼ、ぼくは、お、おにぎりが好きなんだな」というセリフは、直接ドラマを見たことがない僕でも知っている。
 二〇二三年の六月から九月にかけて、SOMPO美術館で「生誕100年 山下清展——百年目の大回想」が開催された。同展の図録に寄せられた、服部正「100年目の山下清」によれば、文芸評論家の小林秀雄は1940年二月の『文藝春秋』に掲載された「清君の貼紙絵」で 〈清君の天賦の才能は疑ふ余地がないが、この才能には痴愚といふ痛ましい犠牲が払はれてゐるといふ事も亦疑へない処だ〉と述べている。(3)
 しかしそもそも、山下には知的な障害があったと言えるのだろうか。筆者の服部は次のように述べている。

 山下の「障害」とは何だったのだろうか。先に挙げた早稲田大学の最初の調査報告では、「談話は常人と異ならず。就学後成績甚だ不良。特に算術の力に乏しい。智能検査の結果は、智能指数七五内外(軽症痴愚)なりと云はれている」と書かれている。この知能指数75が事実であれば、それは現在の基準では知能障害とは認定されない。

 そのうえで、服部は〈しかしこのことは、山下清に障害があったということを完全に否定するものでもない〉とも書いている。

 すべてにおいて全く平均的という人は存在せず、人の発達や特質には必ずばらつきがある。その偏りが社会との軋轢を生み、本人が生活上の困難、生きづらさを感じることが「障害」となる。(中略)つまり、自らの資質によって何らかの生きづらさを抱えていたであろう山下には、何らかの「障害」があったとはいえる。

 また山下の甥である山下浩は、二〇一六年にこう語っている(4)

 まず、山下清は自分のことを障害者だとは思っていません。そして一緒に暮らしていた、私たち家族もそうは思っていません。生活に支障があることが障害ならば、おじは何年も放浪生活を続けられるぐらい生活力がありますし、有名になってからは絵画で生計を立てて自立もしていました。絵を描くことを仕事と認識していて、少しでもいい絵を描こうと努力もしていました。

 このように、障害のあるなしは判断する人間や着目する視点によって変わり得るのだ。以上のことからも、「アール・ブリュット」イコール「精神障害や知的障害をもつ人によるアート」という定義づけには無理があると言える。
 もしかすると、そういうくくり方によって伝わりやすくなるものがあるのかもしれない。だがそれと同時に、別のものがこぼれ落ちているのではないか。僕個人は、障害の有無を「アール・ブリュット」という語と直結させることは無意味だと思う。
 それでは、「アール・ブリュット」という語はどのように定義づけることが可能なのだろうか。
 保坂健二朗がディレクター(館長)を務める滋賀県立美術館は、アール・ブリュット作品の収集で知られている。「人間の才能 生みだすことと生きること」という展覧会の図録には、二〇一五年の保坂へのインタビューが再録されているのだが、ここで保坂は〈趣味判断は多様であるという前提を認められない限り、言葉の定義をしたところで意味がない〉としたうえで、次のように語っている(5)

 そういった前提を踏まえた上で答えることにしますが、僕が考えるアール・ブリュットの定義というのは非常に単純で、美術史の記述の体系の中には含まれない優れた作品である、というものです。(傍線は引用者)

 僕はこの連載で、保坂による定義を採りたい。この定義は、障害の有無とは関係がなく、かつデュビュッフェの意図をも汲んでいると思うからだ。
 現代の美術館では、多くの作品が白く滑らかな壁に展示されている。この時、展示スペースはまるで白い立方体の内側のようである。こうした近代的な展示様式を指して「ホワイト・キューブ」と言うことがあるが、そこに展示されるのは既存の美術史の言葉で語られてきた作品群である。この連載では、これまで語られ得なかった作品たち、いわば「ホワイト・キューブの外側」にあるものを新たに語り直すことで、創作の源泉に迫っていきたい。
 できれば、文学や音楽など美術以外の領域も取り上げたい。その場合も定義は同様で、既存の評価体系に含まれない優れた作品であれば、対象として扱うこととする。根本的に、美術も文学も音楽もアートの一分野である。手法の違いこそあれ、クリエイティブな精神に区別はないはずだ。
 旅に出る前の前置きは以上である。次回からいよいよ、「僕たちはなぜ創るのか」についての旅に出るとしよう。
 正直に言って、この旅の最終地点がどこにあるのか、現時点では僕にもまったくわからない。わからないまま終わるかもしれない。でも、それでもいいと思う。すぐにわかるようなことは探究しがいがない。
 この連載を読む皆さんも、どうか目的地の見えないミステリーツアーを楽しんでいただければと思う。

 

(1) https://www.metro.tokyo.lg.jp/tosei/hodohappyo/press/2022/06/10/07.html アール・ブリュット2022巡回展「かわるかたち」の開催について 二〇二三年八月十七日閲覧

(2) 小林瑞恵『アール・ブリュット 湧き上がる衝動の芸術』大和書房、二〇二〇年

(3) SOMPO美術館「生誕100年 山下清展——百年目の大回想」図録、二〇二三年

(4) https://www.nhk.or.jp/hearttv-blog/3400/239192.html NHK福祉情報サイトハートネット 二〇二三年八月十七日閲覧

(5) 滋賀県立美術館「人間の才能 生みだすことと生きること」図録、二〇二二年