いささか唐突に申し上げてしまうのだが、太宰治の「生まれて、すみません」がどうにもひっかかるのである。
彼の場合、「死んで、すみません」という一文こそ残すべきで、もっといえば、「ご迷惑をおかけすることお詫びいたします」くらいの謝罪文は書き添えるべきだったと思うのだ。
その理由を述べる前にちょいと能書きをたれたい。
「生まれて、すみません」は太宰が二十八歳のときに上梓した『二十世紀騎手』の副題として付けられたものである(一九三七年に出版された当時の表記は「生れて、すみません。」)。
彼が自殺したのはその十一年後の一九四八年。したがって「生まれて、すみません」という言葉自体は遺書ではないが、晩年の作品、『人間失格』と並んで、彼の自死を予見させる遺書的な位置づけをされた言葉として広く知られている。
自虐の極みというほかない表現で、太宰文学を象徴するフレーズといっても過言ではない。が、しかし元来は詩人の寺内寿太郎が創作した一行詩で、知人を介してこの言葉を耳にした太宰が勝手に使用したとされる。
したがって、「生まれて、すみません」は実のところ剽窃(ひょうせつ)、すなわちパクリだったというわけだ。とはいえ、太宰はこの一語に集約されたような生き様を貫き通したし、彼を語るにおいてこれほど的確で絶妙すぎる表現は他にない。
それ以上に重要なことは、彼がその生涯において四度(五度という説も)も自殺未遂をしていることである。まさに周章狼狽阿鼻叫喚空前絶後の自殺未遂魔といっていいが、そのうち二度が心中で、いずれも愛人が濃密にからんでいる。
しかも、その後も酒乱、借金、薬物依存、不倫、さらには文壇での卑屈ないさかいなどを繰り返し、最期は心中して果てた。
もはや「偉業」というほかないが、彼は彫りの深い稀代のイケメンで、文学的才能にあふれた流行作家であった。むろん女にモテたし、本人もそのことを十分に自覚していた。にもかかわらず自分がダメダメであることを自演し、暗い空気を纏うことに自己陶酔した人間でもあった。
現代であればどう考えてもモテるタイプではないが、彼がもてはやされた敗戦直後は虚脱と混迷が錯綜し、世情は荒れに荒れていた。
荒廃した時代には倫理的で人道的な御説は流行らない。むしろ反道徳的で退廃的な言説がトレンドになり、その頃の文壇も織田作之助、坂口安吾、檀一雄といった無頼派と呼ばれる作家が一世を風靡した。つまりは反俗的で破滅型の文人ほど映えたのである。
太宰は自他ともに認める無頼派の旗手であった。それゆえ彼を慕う女性たちは欣喜雀躍(きんきじゃくやく)として彼に尽くした。だが、彼はそういう女を冷淡に観察し、そんな女の愛情に応えることができない自分を責めるのである。ただしこれもきわめて演出的で、彼なりの計算が働いているのではあるが……。
それはともかく、「生まれて、すみません」とはよくいったもので、まさに太宰のためにあるような言葉であった。なにしろその頃ハヤル物といえばデカダンス。彼は時代をシンボライズする男として黄金期を迎える。
私事ながら、僕はといえば掘っ立て小屋が倒壊したような顔をしている。しかも容貌いたるところ月面アバタヅラゆえ、修復も不可能である。むろん女性には縁がない。
加えて、才能も皆無である。ものは試しで書いてみろと勧められ、もののはずみで物書き稼業で渡世を送り、いまだものにならずにこうして駄文を綴っている。
そんな男が、このツラさげて、
「生まれて、すみません」
と女の耳元でささやいたところでどうなるか。
「心中、お察しいたします」
と答えてくれればよいほうで、
「うざい! きしょい! きもい!」
と痛罵されるのがオチだろう。
話が蛇行してしまったが、要するに太宰の生きた時代は「情死」という行為が憧憬に値する行為で、心中こそ男女が交わす愛の極致を具現化したものと考える向きがあった。
繰り返すが、太宰は二度も愛人と自殺を試みている。
二度あれば三度目もある──。太宰と情死できるなら本望とばかりに、彼をガチで狙う女がいても当然だった。三度目が愛人の山崎富栄とともに入水した「玉川上水心中」である。
こうして、希死念慮に取り憑かれた文人の面目躍如といっていいのかどうか、太宰はついに入水自殺を遂げたのであった。
現在の玉川上水はわずかな水量しかないが、太宰が入水した頃の玉川上水は水深二メートル以上にもなる水路だった。その危険さから人喰い川と称され、自殺の名所だったという。ついでながら、太宰が飛び込んだ年は彼が十六人目の自殺者であった。
一般に水死体は正視できないほど身体を損傷する。腐敗した体内にガスが発生し、遺体がパンパンに膨れ上がるからだ。加えて、皮膚もふやけて表皮が剥奪し、頭髪も抜け落ちているケースが多い。
記録によれば、太宰の遺体が発見されたのは一九四八年六月十九日、午前六時五〇分。入水六日後であった。後年、彼を偲ぶ人たちによって桜桃忌と名付けられたこの日は、折しも梅雨のさなかだった。
玉川上水は数日前からいちだんと水流を増している。捜査は難航し、たびたび中断されている。太宰はそんな激流に一週間近く揉まれていたことになる。
増水に加えて豪雨になった現場での遺体の引き上げ作業は困難をきわめたにちがいない。眉目秀麗の誉れ高い彼の容貌もかなり損傷していたかもしれない。というのも、遺体はその日のうちに荼毘に付され、夕刻には骨上げされているからである。
奇しくも命日になったその日は彼の誕生日でもあった。
さて、冒頭で述べたことを思い出してほしい。
降りしぶく雨のなかの捜索から遺体の始末、そして納骨まで、太宰の面倒を見た人は相当数にのぼる。まかりまちがえば二次遭難のおそれもあったはずだ。
太宰は自分の死後、どれほど多くの人の手を煩わせることになるか、考えたことがあったろうか。
もし死んで我に返ることがあったとしたら、あるいは天上界からこの事態を見たとしたら、彼はこう申し述べたかったのではあるまいか。
「死んで、すみません。死んだあとまでご迷惑をかけることになり、ほんとうにすみません」と──。
さて、以上述べたことはいわば口上である。実はここからが本題なのである。
(第1回・了)
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次回2021年3月4日(金)掲載予定