私の墓場放浪記 仲村清司

2022.4.5

03「孤独禍」の中の私たち

 

 前回、親しい二人の友人の死をきっかけにして、翻って、ワタクシ自身の場合はどうなのか、という問いが生まれたと書いた。
 というと「終活」を始めるのかと勘違いされそうだが、僕が体験したことを前提にすれば、世の中には終活しようにもできない人がいることを忘れてはならない。
 終活とは財産の相続を円滑に進めるための計画、延命措置、介護、葬儀、墓の準備、ペットなどの身辺の希望や整理のことを指す。いわゆるエンディングノートの作成である。不慮の事故に遭ったときに家族や身辺の人が悩んだり困った事態に陥ったりしないための準備と言い換えてもいい。
 いまの時代、必須の措置と断言していいが、さて、ここらで話を振り出しに戻さなければならない。
 この連載のはじめに、なぜ太宰治の死についてくどくど書いたのかという点である。
 太宰が生きていた時代は終活という言葉もなかったが、もとより無頼派を気取る彼には終活などもっとも遠い概念だったはずだ。あるいは死後のための準備など唾棄すべき行為としか思えなかったかもしれない。
 それは1998年に一部公開された美智子夫人に宛てた遺書を読めば一目瞭然である。
「美知様 誰よりもお前を愛していました」
「長居するだけみんなを苦しめこちらも苦しい、堪忍して下されたく」
「皆、子供はあまり出来ないようですけど陽気に育てて下さい。あなたを嫌いになったから死ぬのでは無いのです。小説を書くのがいやになったからです。みんな、いやしい欲張りばかり。井伏さんは悪人です。」(『新潮』1998年7月号、新潮社)
 どう思われますか、読者の皆さん?
 夫人を愛しているといいながら、当時、彼には二人の愛人がいて、その一人と入水したのである。
 しかも相手の女性も「私ばかりしあわせな死に方をしてすみません」「骨は本当は太宰さんのお隣りにでも入れて頂ければ本望なのですけれど、それは余りにも虫のよい願いだと知っております」などという遺書を残しているのだ。
 たまたま遺書を公開した場に大阪のややこしいオッサンが居合わせていれば(そんなはずはないけれど)、即座に「どの口が言うてんねん!」とブチ切れていたに違いない。  とにもかくにも、夫人はこの言葉に救われたとは思えない。家族のことを慮っているように書いてもいるが、よく読むと自分の心情だけを言い訳がましく綴っているにすぎない。
 しかもである。太宰の師匠であり、彼を支えてきた親友の井伏鱒二に対する雑言めいた文言まで書き残しているのだ。いまもってその解釈はさまざまで、真意は不詳らしいが、遺書に名指しでそこまで書く必要があるのだろうか。これでは終活どころか、人間関係もぶちこわしてしまう遺書というほかない。
 前々回、僕は太宰に対して「生まれて、すみません」ではなく、「死んで、すみません」という一文こそ残すべきであったと書いた。それに付け足したい文言がある。
「あなたほど人に対して迷惑をかけっぱなしで死んだ人はいない。『死に逃げ』という言葉があればまさにそれだ。しかし……、それでもあなたは幸運な文士だった。誰よりも恵まれた死に方をした人だった」
 なぜなら、死の準備など無縁でダメダメ人間だった太宰でも、死後の処理から埋葬はもとより、彼の望みを叶えてくれた人たちがいたからだ。
 実のところ、太宰はこっそりと終活をしていた。といったら、驚かれるかもしれないが、1944年に発表された短編小説『花吹雪』に以下の一節がある。
「この寺の裏には、森鴎外の墓がある。どういうわけで、鴎外の墓が、こんな東京府下の三鷹町にあるのか、私にはわからない。けれども、ここの墓地は清潔で、鴎外の文章の片影がある。私の汚い骨も、こんな小綺麗な墓地の片隅に埋められたら、死後の救いがあるかも知れない〜」(『太宰治全集5』ちくま文庫、1989年)
 太宰の墓はその「小綺麗な墓地」がある三鷹市の禅林寺に建立されている。しかも太宰が尊敬してやまなかった森鴎外の墓は彼の墓石の向かいにあるのだ。
 彼の思いを汲んだ美智子夫人によって葬られたといわれるが、葬儀で弔辞を読んだのはほかでもない、遺書で「悪人」呼ばわりされた井伏鱒二その人であった。
「私の愚かであったために、君は手まといを感じていたかもしれません。どうしようもないことですが、その実は恥じ入ります。左様さようなら。」(『太宰よ! 45人の追悼文集』河出文庫、2018年)
 井伏鱒二は太宰に深く侘びて弔辞を締めくくっている。 もしあの世があるならば、さすがの太宰も「死んで、すみません」と涙を流しながら感謝したに違いない、と僕は信じたい。

 前述したように、世の中には終活しようにもできない人もいる。具体的な例を出せば僕自身である。もし、マンションで致命的な病気に襲われたら、あるいは、知人のように浴槽内で心不全で逝ってしまったらどうなるか。
 僕はおそらく腐乱した遺体から放たれる異臭によってしか発見されないに違いない。あるいは最近のマンションは密閉度が高いので、異臭が漏れないため、「遺体の一部はすでに白骨化しており〜」などと報道されるかもしれない。
 太宰のようにはいかないのは火を見るよりも明らかなのだ。ついでながら、売れっ子作家であっても、版元からどこかのホテルにカンヅメにされたら手遅れになる可能性もある。作家というのはまことにリスク多き職業なのである。
 それはさておき、賢明なる読者諸氏はもうピンときたことであろう。そうなのである。孤独死が社会問題化して久しいが、いくら終活をしても、死に立ち会う人がそばにいなければ終活は終わらないのだ。言葉を変えれば、終活はその人の死が第三者に伝わらないかぎり意味をなさないのである。
 孤独死といえば独居老人を思い浮かべがちだが、実態はそうではない。新型コロナウイルスの感染拡大によって、下宿先のアパートで誰にも看取られずに孤独死を遂げる若者もいるだろう。それに並行してコロナ禍で友人や学校、地域とのつながりを失った⼈が、孤独に苛まれて自殺するケースも発生しているという。
 疫病が猖獗(しょうけつ)を極め、医療崩壊が発生すると、自宅療養に名を借りた自宅放置=棄民政策がとられることをわれわれは身をもって知った。感染者はいまもその状態におかれたままなのだ。
 孤独死は世代を問わない。自宅やアパートでひっそりと「ひとり」で最期を迎える人が増えている。その死者数は実に年間約3万人。日本社会はいま「孤独禍」の最中にあるといっていい。
 同時に終活などまだまだ先のはずの若い世代も否応なく「孤独」や「死」と向き会う時代に入ったかと思える。
 一人暮らしはそれほどまでに危ういライフスタイルなのだ。
 年を食ったせいか死ぬこと自体は怖くない。むしろ寝たきりになって生きながらえることの方が嫌である。でもそれより嫌というか、絶対に拒否したいのが孤独死である。自分に置き換えて考えると、第三者に自分の死を伝えることは終活よりも難しくて深刻な問題になっている。
 以上の話は那覇で暮らした頃から京都で暮らしている現在まで、十数年間に起きた出来事や考えをまとめたものである。バカに付ける薬はないというが、そのバカは薬漬けとなりつつも、悶々と「孤独死」と向き会ってきたのであった。
 そんなバカに突如として、「これは使える!」と唯一無二の孤独死解決法が浮かびあがったのは忘れもしない2011年の6月のことであった。

(※文中の引用文は、旧字・旧仮名遣いを適宜改めた)

 

(第3回・了)

 

この連載は月1更新でお届けします。
次回2021年5月9日(月)掲載予定