私の墓場放浪記 仲村清司

2022.3.4

02野垂れ死にできない社会?

 

 どうやら前回は太宰治の心中事件について、ちょいと深入りしすぎたらしい。何人かの読者から、「作家の墓場を訪ねる紀行文を書くのですか?」
とのご質問をいただいた。
 もっともな話である。
 タイトルからして『墓場放浪記』なので、たしかにそう思われても仕方ない。しかし、そのたぐいの本はすでにわんさと出版されている。
 話は前後するが、現在、僕は京都に移り住んでいて、沖縄に行き来する生活を続けている。
 京都は文豪の墓が多い。なにしろ千年の都だから文化度が高く、古来、文人墨客の憧れの地であった。ために、死に場所も京都に設けることが多かった。
 京都市左京区の法然院には谷崎潤一郎や思想家の河上肇、同じく東山の大谷本廟には司馬遼太郎、泉涌寺には山村美紗、ぐっと遡れば左京区南禅寺草川町に上田秋成、北区蓮台野に歌人の紫式部と小野篁の墓所もある。
 歴史上の人物の墓となるときりがない。戦国時代や幕末戦乱の舞台も朝廷がおかれた「京」だったからだ。武人は「京に上る」を合言葉にこの地を目指した。誰もが知っている人物を思いつくままあげると、足利尊氏、織田信長、豊臣秀吉、石田三成、坂本龍馬、中岡慎太郎、高杉晋作、木戸孝允などの墓地の他、法然、親鸞、道元、一休、千利休といった人物も京の地に眠っている。
 まあ、歴史好きにはこたえられない「聖地」といっていい。何を隠そう、僕自身もこれらの人物の墓を訪ね歩いては、あごをさすりながらアレコレ思いを馳せる人になっている。
 その手の情報は本だけでなく、ネットで探せばごろごろと出てくる。なので、いまさらそんなネタをテーマにしても二番煎じどころか、煎じ詰めても何の香りもしない白湯みたいな内容になってしまうのがオチだ。
 話がそれてしまったが、この連載のタイトルはあくまで『私の墓場放浪記』で、このワタクシが自分自身の墓場を求めて放浪する物語なのだ。
と書くと、「「顔色がどす黒いし、もしかしてあれは死相?」「余命は?」「手遅れなのか?」などと疑問を持たれる方もいるかもしれない。
 しかし、そうではないのである。いたって健康とまではいえないが、いくら憎まれようが世にはばかる生命力はまだ残っている。
 ここで、連載の意図を明確にしておこう。
 話は十数年前ほど前まで遡る。当時は那覇市の泊地区にあるマンションで暮らしていた。
 その頃、僕はバツイチなったばかりで一人暮らしであった。思い起こせば、社会に出るなり同棲生活を始めていたので、人生初の独身生活を味わったことになる。
 そのせいか、しばしば独り寝の寂しさが募ることもあったが、連載や単行本の締め切りに追われる毎日がその寂寞とした感情を埋めてくれていた。
 もとより、モノカキは孤独な稼業である。取材や打ち合わせ以外は人に会うこともなく、本格的に執筆作業に入ると何日も引きこもる生活が続く。
 事務的な連絡もメールで済ませる時代である。なので、
(はて、そういえばワタクシは一週間以上も誰とも会話していなかったのでは?)
などと気づいてしまう西日がやけに眩しい黄昏時ということがよくあったのだ。
 まさにそういうときですな。茜色に染まる西の空を眺めているうちに、ふいに、
(もし、このまま心筋梗塞や脳卒中で倒れてしまったら……)
などと、忌まわしい了見にとらわれるのは。
 この場合、間違っても
(もし、イボ痔が痛みだしたらどうしよう)
という人はいないはずだ。もしいたとすれば、よほど問題ある人生を送ってきた人に違いない。
「逢魔が時」とはよくいったもので、夕闇が迫る時分は不吉なことを考えるもので、僕の場合、西の空=西方浄土のイメージがこびりついているのかもしれない。
 しかし、そんなことを考えるようになった最大の原因はやはり一人暮らしにある。食事は自炊続きで誰にも接触しない時間が多いし、締め切りが近づくと夜と昼が逆転して曜日もわからなくなる。ついには時間の感覚が狂って持病の不眠症が再発した。
 たとえ眠れてもひどい寝汗をかいては中途覚醒を繰り返し、その反動で日中は過眠状態が頻発し、不眠と過眠を交互に繰り返す事態になった。
 さらにはややこしい人間関係に巻き込まれて、ひどい鬱病に陥ってしまった。僕の鬱病については自著でもカミングアウトしてきたが、かれこれ十年越しの持病で、再発、再再発を繰り返し、入院治療も一度や二度ではなくなった。
 しかも、薬漬けのうえに、これといった運動もしない。なので、職業病ともいえる腰痛も激化して心身ともにズタボロになってしまった。
 僕の仕事はいまでいうリモートワークとほぼ同じで、パソコンとデスク、ベッドさえあればすべて事足りる。テレビも見ないし、音楽も聞かない。まことに殺風景な男なのだ。なので、ビジネスホテルのシングルルーム程度のスペースがあれば十分暮らせるのである。
 ところが、離婚によって突如、72㎡もある3LDKに一人で暮らすという不自然な環境になり、しだいに居住空間をもてあます生活になった。
 使うことも入ることもない部屋が並んでいるというのは実に殺伐とした風景で、心の中まで寒々しくなる。そうなると本来空っぽの頭の中にすきま風が忍び込み、刹那的な考えが頭の中を支配する。
 やがて僕は部屋に壁に映った自分の孤影に行き場のない孤独感を抱くようになった。しかし、それでもモノカキ(僕のことです)は原稿書き以外にやることがなく、「ふぅ」などと意味不明のため息をつき、また一人パソコンと向き会うのだ。
 そう、そんなときなのである。ふと何か思いついたように、スリッパを出してベランダから外の風景でも眺めてみようかと思うのは……。
 朱色に染まった那覇の西の空は雲間から筋状の太陽光が放射状に伸び、吹き上げるような濃い緑の首里の丘から東シナ海に向かって、沖縄独特のコンクリートの真っ白な町並みが渺々(びょうびょう)と広がっている。
 しかしながらモノカキはそんな景色に見とれているわけではないのである。
(もし、このまま心筋梗塞や脳卒中で倒れてしまったらどうなるのだろう……)
 僕の腑抜け頭には風景とはまったく脈絡もないネガティブな思考が渦巻いていたのである。これも原稿のマス目を埋めること以外にやることがないから、同じ思考にとらわられるのだろう。
 怖いことに僕の部屋は9階建ての9階にあった。
 ──いっそ海風にのってベランダから飛び出してみようか。
 ときにそんな気分になることもあった。心理的にヒジョーにアブナイ状態といっていい。
 そんなときはきまって脇から汗が滴り落ちていた。けっして本気ではない。うまく説明できないが、漠とした気分でそう思っているのに、精神の深いところではヤバいことを思い詰める状態に陥っていたのだ。鬱病の怖さである。
 繰り返すようだが、経験したことのない一人暮らしが鬱で弱りきった心に追い打ちをかけたのは明白だった。まあそうはいっても、なんとか自分をなだめながら日常生活をこなしてきたのだが、あるとき僕の折れた心をグッと引き締める事件が起こった。
 大阪在住の知人が浴槽のなかで亡くなったのである。原因は急性心不全。年齢は僕より2歳上で、50代半ばの早すぎる死だった。
 苦しむ時間があったのかどうか、発見されたときは浴槽から左手をだらりと垂らし、口元まで風呂のお湯につかっていたという。
 死後、何日か経っていたので、検視に回された。事件性はなかったので、司法解剖は免れたが、死体検案書が出るまでは葬儀の手配はできない。
 それよりなにより、まさかの事態だったので親類縁者は大騒ぎになった。
 先祖代々の墓は沖縄にある。しかし本人は生前、もしものことがあったときは、沖縄ではなく生まれ育った大阪の地に葬ってほしいと懇願していた。
 知人は僕と同じ大阪生まれの沖縄人二世である。自分のアイデンティティにかなり揺らぎがあり、沖縄に対する屈折した感情も持ち合わせていた。その複雑な思いが自分の最期に行く場所までこだわらせたようだ。
 その点の心理や事情は僕もくどいほど書いてきたので、ここでは省略させていただく。ともかくも知人は未来永劫、親兄弟と離れたまま「ひとり」で大阪の地下に眠ることになったのだ。
 その後、今度は沖縄の友人が大腸ガンで亡くなった。享年68。広島出身で僕と同じく那覇移住者である。文壇酒場のような隠れ家的なバーを経営し、陶芸、書、詩、演劇、料理等々、なにをさせてもプロ級の腕前を持つ人だった。
 僕も兄貴のように慕ってきた人物だった。いや、もっといえば彼の存在があったからこそ、僕も沖縄で生活できるのだと思い込んでいた。それほど信頼していた人だった。なので、彼から余命3か月と打ち明けられたときは、自分を見失うほど動転した。
 一連の出来事については『消えゆく沖縄』(光文社新書)に詳述しているので参考にされたい。
 彼は亡くなる数か月前に京都に転居し、医師に宣告された通り、三か月目に逝ってしまった。
「もし死んでも葬式はしないこと。集まってくれるのならオレを囲んで飲むこと。骨になったら散骨すること」
 それが彼の残した遺言だった。簡単なようで、実現させるには困難な壁が立ちはだかっていた。
 彼は一人暮らしで、実家とはすでに縁が切れていた。ために、遺族と連絡できない。結局は知人や友人総出で手続きを進めていくことになったのだが、死亡診断書、遺体の引き取り、火葬許可申請、住民票の抹消などは遺族でないと発行できないケースもあるのだ。
 彼の場合、土壇場で奇跡的に遺族を知っている人が見つかったので事なきを得たが、そのとき、人間は一人では死ねないことをつくづく痛感させられた。
 そう、亡くなってから埋葬されるまでは、いやでも残された人たちの手を借りなければならない。生まれたときも出生届が必要になるように、死んでも様々な書類が必要になる。死を証明してくれるのは遺体ではなく、あくまで書類が唯一の手段なのだ。
 あるいはもっとはっきりいえば西行や一休、山頭火のように、俗界と縁を切った世捨て人は、現代では他人に多大な迷惑をかけてしまう。現代は野垂れ死にが許されない社会なのだ。
 彼の場合は遺言通り、遺骨の一部が彼の愛した沖縄の海に散骨されている。まことに幸運だったというほかない。
 翻って、ワタクシはどうなのか。
 二人の死によって、自分も人ごとではないことを実感するに至った。いわゆる生活習慣病は僕にも忍び寄っているかもしれず、あるいはもしかするとすでに罹患している可能性もあるのだ。
 なにしろ、病気のデパートさながらの虚弱な肉体と極細タイプのポッキーのようにすぐに折れてしまうストレス満載の精神疾患の持ち主だからだ。
 もし、虚血性心疾系や脳血管障害系の病気に見舞われたとしたら……。あるいは取り返しのつかないことを自ら企てたとしたら……。
 大腸ガンで亡くなったバーの主人のように、多くの友人に慕われる人柄であれば、たとえ命が潰えたとしても死後の面倒をみてくれるに違いない。
 もう一度、同じ言葉を使わせてもらうが、翻って、ワタクシはどういう経緯を経るのか。これが問題というか喫緊の課題として浮上したのであった。

 

(第2回・了)

 

この連載は月1更新でお届けします。
次回2021年4月5日(火)掲載予定