しゃにむに写真家 吉田亮人

2019.9.6

02選択

 

「やっと寝たわ」
 ちょうど仕事から帰ってきたばかりの僕に向かって、母乳をたっぷり与え、子どもを寝かしつけた妻が寝室から出てきて呟いた。そして台所の方へと消えていったかと思うと、お茶を沸かし、湯呑みを2つ持ってきて、丸テーブルの上に置き、ウッドチェアに腰掛け、熱い茶を静かにすすり、一息つくと低い声で言った。
「で、昨日話したことやけど、決めた?」
 小声だけれど、ズシンとくる言葉が僕を突き刺す。昨日の今日で人生の大きな決断を迫るこの人は一体どういう神経しているんだと思いながら僕は意を決して妻の方を向き、言った。
「うん、辞めるわ」
「ほんまに?」
 嬉しそうに目を輝かせながら妻が弾む声で言った。
「うん、一晩寝て、仕事行って、今日一日いろいろ考えたんやけど、辞めよっか」
 昨晩妻が話したことは確かに納得できることが多かったし、それに対して反論する言葉が見当たらなかったのは事実だった。教員という仕事が嫌なわけではなかったし、僕は自分がこの仕事に向いているとさえ思っていた。しかし、妻が言ったことを反芻すればするほど、教員以外の道で自分の身を立て、親としての姿勢を指し示すことが僕らにとって正しい選択なのではないかと、漠然とした思いに捉われる自分を発見したのだった。
 さらに「今みたいな人生を送るために結婚したんちゃうし」という妻の言葉がずっと脳裏から離れずにいた。
 そもそも僕たちが結婚することを決めたきっかけは、この人となら人生面白くなりそうとお互い感じたからだった。そう思って一緒になったはずなのに、妻にとっては面白くなるどころか、どんどん想像の域を超えない、決められた枠にはまっていく面白味のなさを感じていたようで、その思いがあの言葉に凝縮されているような気がしたのだった。
 それは僕にとっても不本意だった。そうやっていろいろと総合的に考えて、結局最後は直感で教員を辞めようと決意した。
「絶対その方がいいわ」
 確信めいて言う妻を見ながら、夫が安定した職を捨てると言って喜ぶ妻って、はたしてこの世にどれくらいいるのだろうかと思った。何か壮大なドッキリを仕掛けているのではないだろうか。
「でもさ、辞めるって言ったって、何したらええんやろ。俺、特にやりたいこともないしさ」
 そうなのだ。辞めると言ったものの、何か他にやりたいことがあるわけでもないし、新しい展望だって何もなかった僕は全くもって安本丹なのであった。
 これでは辞めることが最大の目的になってしまうではないか。
 しかし、やりたいことなんてそう簡単に見つかるはずもない。妻にすがるような視線を送って、僕は彼女からの提案を待った。
「そうやなあ」
 じっと僕を見据えながら妻が言った。
「写真やったら?」
「え、写真?」
「うん、写真。やってたやん、亮人」
 確かに僕は写真をやっていた。大学時代、2年間ほど写真に興味を持って熱中していた時期があったのだ。しかし、それはもう何年も前のことで、今では家族の写真を撮る「我が家の写真係」くらいのものだ。強いて言えば、たまに『スタジオボイス』や『スイッチ』などの写真特集をしている雑誌を購入して読む程度だった。
「いや、やってたけどさ。でもそれはあくまで趣味というか……。写真って、写真家になるってこと?」
「そう。写真家? カメラマン? まあどっちでもいいけど」
「でも、なんで写真家?」
 妻の荒唐無稽な提案に、至極当然な質問をする僕。
「写真撮るの、亮人向いてると思うから」
 もう本当にこの人は昨日から何を言っているのだろう。そしてなんて漠然としたことを言っているのだろう。困惑しながら僕は言った。
「写真家ってそう簡単になれるもんちゃうで。俺、写真の学校も行ってないしさ、写真の撮り方だって、素人やしさ。技術だってないし。それにどうやって仕事にするんかも分からんし」
 すると妻が、分かりきった表情で言った。
「そんなん、どんな仕事でもそうやん。簡単にできたら苦労せえへんよ。最初からうまくいくとは思ってへんやん」
 うまくいかないと思っていることをどうして勧めるのだろう。
「でも、うまくいかへんかったらどうするんよ?」
 思ったままの不安を口にすると妻がしかめっ面になって言った。
「亮人、やってみたん? まだやってもないし、そんなのやってみなわからへんやん。やってみてうまくいかへんかったら、その時考えたらええやん」
「……」
 妻の言葉に完全に促される形で「……うん」と返事をした僕は、「写真家になるのか、俺……」と、まるで他人事のようにその姿を想像した。
 カメラ片手にいろんなところを飛び回って「何か自由そう」というイメージがぼんやりと浮かんだ。しかし同時にその自由さは浮雲のように儚くて、不安定で、とてつもなく頼りなかった。僕は恐くなった。荒れ狂う大海に出航するには、今の装備と心持ちでは出航できない、無謀すぎると思った。
「あのさ、写真はやる。先生も辞める。でも、今の状態で辞めたらさ、あっという間に無一文になって、写真どころじゃなくなると思うねん。だからさ、あと1年。あと1年間働かせて。その間に少しでも貯金してさ、写真のことも勉強したりするから。どうやろ?」
 僕の提案を聞いてから、少し冷めかけた茶を啜って妻が言った。
「分かった。じゃあ、あと1年な。でも次の1年が終わったら、きっぱり辞めて、動き出してな」
 固い決意が妻の表情から溢れていた。
 翻って僕はというと惚けた顔で本当に教員を辞めるのかと、まるで他人事のように思いながら「写真家になった自分」を頭の中で何度も浮かべた。浮かべるけれど何も想像できなかった。現実味なんて湧くはずもないまま、しかしこの瞬間に僕の教員人生は残すところ1年3ヶ月となった。

(第2回・了)

 

この連載は月2回更新でお届けします。
次回2019年9月23日(月)掲載