しゃにむに写真家 吉田亮人

2021.2.12

32「選択」

 


 2019年8月から2020年7月まで「あき地」で連載をしていた、写真家の吉田亮人さんの「しゃにむに写真家」がこのたび書籍になりました!

本体価格 1,600円、2月17日(水)全国発売!
〈いしいしんじ さん、推薦!!〉


 タイトルは『しゃにむに写真家』

 妻の一言から教員という仕事を捨て、無謀にも写真家の道を選んだ。専門的に学んだことのない男が、右も左もわかないまま踏み出し、挫折し、傷つき、そして国際的に評価を受けるようになるまでの10年を振り返る。
——「働くとは何か」「生きるとは何か」について考えた渾身の一冊にできあがりました。

 そこで、2月17日(水)の発売に先駆け、収録原稿の試し読みを4回に渡って公開します。

「この家に公務員は二人要らん。一人でいいと思うねん。だから亮人、先生やめて」——妻の衝撃的な提案から一夜が明けた。一日考えて出した「僕」の答えは……。 



「選択」

「やっと寝たわ」
 仕事から帰ると、子どもを寝かしつけた妻が寝室から出てきた。そして台所の方へと消えたかと思うと、お茶を沸かし、湯呑みを二つ持ってきて、丸テーブルの上に置き、ウッドチェアに腰掛け、熱い茶を静かにすすり、一息つくと低い声で言った。
「で、昨日話したことやけど、決めた?」
 小声だがズシンとくる言葉が僕を突き刺す。昨日の今日で人生の大きな決断を迫るこの人はいったいどういう神経をしているんだと思いながら意を決して妻の方を向き、言った。
「うん、やめるわ」
「ほんまに?」
 嬉しそうに目を輝かせながら妻が弾む声で言った。
「うん、一晩寝て、仕事行って、今日一日いろいろ考えたんやけど、やめよっか」
 昨晩妻が話したことはたしかに納得できることが多かったし、それに対して反論する言葉が見当たらなかったのは事実だった。教員という仕事が嫌なわけではなかったし、自分がこの仕事に向いているとさえ思っていた。しかし、妻が言ったことを反芻すればするほど、教員以外の道で自分の身を立て、親としての姿勢を示すことが僕らにとって正しい選択なのではないかと、漠然とした思いにとらわれていった。
 さらに「今みたいな人生を送るために結婚したんちゃうし」という妻の言葉がずっと脳裏から離れずにいた。
 そもそも僕たちが結婚することを決めたきっかけは、この人となら人生面白くなりそうとお互い感じたからだ。そう思って一緒になったはずなのに、妻にとっては面白くなるどころか、どんどん想像の域を超えない、決められた枠にはまっていく面白味のなさを感じていたようで、その思いがあの言葉に凝縮されているような気がした。
 それは僕にとっても不本意だった。そうやっていろいろと総合的に考えて、結局最後は直感で教員をやめようと決意した。
「絶対そのほうがいいわ」
 確信めいて言う妻を見ながら、夫が安定した職を捨てると言って喜ぶ妻って、はたしてこの世にどれくらいいるのだろうかと思った。何か壮大なドッキリを仕掛けているのではないだろうか。
「でもさ、やめるって言ったって、何したらええんやろ。俺、とくにやりたいこともないしさ」
 そうなのだ。やめると言ったものの、何か他にやりたいことがあるわけでもないし、新しい展望だって何もなかった僕は全くもって安本丹だった。これではやめることが最大の目的になってしまうではないか。しかし、やりたいことなんてそう簡単に見つかるはずもない。妻にすがるような視線を送って、僕は彼女からの提案を待った。
「そうやなあ……写真やったら?」
「え、写真?」
「うん、写真。やってたやん、亮人」
 たしかに僕は写真をやっていた。大学時代、二年間ほど写真に興味を持って熱中していた時期があったのだ。しかし、それはもう何年も前のことで、今では家族の写真を撮る「我が家の写真係」くらいのものだ。強いて言えば、たまに『スタジオ・ボイス』や『スイッチ』などの雑誌の写真特集を購入して読む程度だった。
「やってたけどさ。それはあくまで趣味というか……。写真って、写真家になるってこと?」
「そう。写真家? カメラマン? まあどっちでもいいけど」
「でも、なんで写真家?」
 妻の荒唐無稽な提案に、至極当然な質問をした。
「写真撮るの、向いてると思うから」
 本当にこの人は昨日から何を言っているのだろう。そしてなんて漠然としたことを言っているのだろう。僕は困惑した。
「写真家ってそう簡単になれるもんちゃうで。俺、写真の学校も行ってないしさ、撮り方だって素人やしさ。技術だってないし。それにどうやって仕事にするんかも分からんし」
「そんなん、どんな仕事でもそうやん。簡単にできたら苦労せえへんよ。最初からうまくいくとは思ってへんやん」
 うまくいかないと思っていることをどうして勧めるのだろう。
「でも、うまくいかへんかったらどうするんよ?」
 思ったままの不安を口にした。
「亮人、やってみたん? まだやってもないし、そんなのやってみな分からへんやん。やってみてうまくいかへんかったら、その時考えたらええやん」
……
 妻の言葉に完全に促される形で「……うん」と返事をした僕は、「写真家になるのか、俺……」と、まるで他人事のようにその姿を想像した。
 カメラ片手にいろんなところを飛び回って「何か自由そう」というイメージがぼんやりと浮かんだ。しかし同時にその自由さは浮雲のように儚くて、不安定で、とてつもなく頼りなかった。僕は恐くなった。荒れ狂う大海に出航するには、今の装備と心持ちでは出航できない、無謀すぎると思った。
「あのさ、写真はやる。先生もやめる。でも、今の状態でやめたらさ、あっという間に無一文になって、写真どころじゃなくなると思うねん。だからさ、あと一年。あと一年間働かせて。その間に少しでも貯金してさ、写真のことも勉強したりするから。どうやろ?」
 僕の提案を聞いてから、少し冷めかけた茶をすすって妻が言った。
「分かった。じゃあ、あと一年な。でも次の一年が終わったら、きっぱりやめて、動き出してな」
 固い決意が妻の表情からあふれていた。しかし僕はというと惚けた顔で本当に教員をやめるのかと、まったく実感のわかないまま、「写真家になった自分」を頭の中で何度も浮かべた。浮かべるけれど何も想像できなかった。現実味なんて湧くはずもないまま、この瞬間に僕の教員人生は残すところ一年二ヶ月となった。

(選択・了)

『しゃにむに写真家』刊行記念
オンラインイベントを開催!(全3回)


第1回目のゲストは、推薦文をお寄せくださった作家のいしいしんじさんです
テーマは「撮ること・書くこと・生きること」。表現することを職業とするお二人に「写真家に〝なる〟・写真家に〝なる〟ってどういうこと?」を語っていただきます。


開催日時は2月18日(木)20:00~21:00です。
イベントの詳細、チケットの購入は「Peatix・亜紀書房ページ」まで。ぜひご参加ください!


試し読み 第4回「願い」は2月16日(火)更新です。お楽しみに。