しゃにむに写真家 吉田亮人

2020.7.7

23修行

 

 仕事こないと思うよ。
 あの晩の小西さんの言葉がずっと忘れられなかった。バイト生活から抜け出し、写真の仕事で身を立てたいとずっと思い続けて3年目にしてようやく訪れたチャンス。それを見事に棒に振ってしまった自分が不甲斐なくて情けなくて残念で仕方なくて、あの居酒屋の一件以来、厚い雲がどんよりと垂れ込めた曇天のような気分が続いた。
 そもそも、この仕事をきっかけに写真の仕事が立て続けにくるのではないかという淡い期待を抱いていた僕自身の考えが甘すぎたのだ。いい仕事をしてこそ次の仕事が来るという至極当たり前のことが分かっているようで分かっていなかった。そして仕事を請け負うには僕はあまりにも準備不足すぎた。そんな自明のことを今さら後悔しても仕方ないのだが、小西さんの言葉を何度も反芻しては、大きなため息をつき、落ちるところまで落ちていった。
 しばらく谷の底で沈殿し、憔悴しきったところで、ようやくそんな感傷に浸って無為な時間を過ごしている場合じゃないと気づいた。とにかく今の自分にやれることをやるしか道は残されていないと、気分を吹っ切った。
 まずはお金を貯めて、機材を少しずつ揃えようと思った。なけなしの金もない僕に残された道はやはりバイトをして金を準備することくらいしかなく、その状況を受け入れて働いた。
 そしてまず三脚を買った。自宅に届いた、今のところ使う予定のないピカピカのそいつを眺めて、すぐに小西さんにメールを入れた。
「小西さん、三脚を買いました。少しずつ機材を揃えていきます。よろしくお願いします」
 そうして、また2、3ヶ月バイトをして、お金ができると今度は広角ズームレンズを買った。そしてやはり使う予定のないピカピカのそいつを眺めて、メールを送った。
「小西さん、お久しぶりです。やっと広角ズームレンズを買いました。どうぞよろしくお願いします」
 何が「よろしくお願いします」なのか自分でも分からなかったし、小西さんにも意味が分からなかったと思うが、とにかく小西さんとできた細い細い糸を切りたくなくて、それからもレンズを1本、2本と増やしていくたびに機材購入報告メールを送り続けた。
 機材購入準備をする傍ら、撮影技術の獲得も喫緊の課題だった。それまで自分の感覚だけで撮影し、作品を制作してきた僕は「写真作品」は撮ることができても、撮影依頼主のオーダーに応えられる「依頼写真」を撮る技術は全く持っていなかった。それに撮影現場の実際も全く知らなかった。
 本屋や図書館に行って、無数にある撮影技術本を手に取ってみたが、そこに書いてあることがさっぱり分からないばかりか、イメージすら出来ない。3年やってきた自分がど素人なんだと今さらながら気付いた時の恥ずかしさといったらなかった。そして知らないということは本当に恐ろしいことだと思った。これは本当にまずい事態なんだという人並みの危機感をこの時ようやく抱いた。
 そうした自分を全面的に受け入れ、降伏したうえで、これからどうしよう。きっといくら何冊本を読んで、机の上で勉強しても、撮影技術を会得することはできないのではないか。やはり実戦の中に飛び込んで、揉みくちゃにされながら身体全体で会得していくしか方法はないのではないか。そうであるならばどこかのプロカメラマンに頼み込んで現場に付いて行かせてもらおう。そうするしかもう他にない。
 強迫観念にも似た思い込みのまま、僕がこれまで出会ってきた数少ないプロカメラマンの顔を思い浮かべて、ぐるぐる思案した。その結果、勝手に白羽の矢を立てたのが、以前東京で行われたある写真のイベントで知り合った遠藤倫生さんというカメラマンだった。
 遠藤さんは当時、東京でフリーの商業カメラマンとして活躍している人だった(現在はClipLineという会社の取締役を務める)。前職は塾の講師で、そこからカメラマンになったという自分と似たような経歴を持っていて、年齢も同じだった。何となくそれだけで親近感を感じていた僕は、早速遠藤さんにメールをしてみると、突然のことに驚いた様子ではあったが、「私なんかでよければいいですよ」と快諾してくれた。「ちょうど撮影があるから東京に来られますか」と聞かれてすぐに駆けつけることにした。2013年6月のことだった。
 待ち合わせ場所は東京・西麻布のとあるビル。15分前くらいに到着して待っていると黒縁の眼鏡に口髭をたくわえ、スーツ姿でバシッと決めた遠藤さんが大きなスーツケースを引きずって交差点の向こうからやってくるのが見えた。
「お久しぶりですね」
 遠藤さんはそう言うと右手を差し出してきて、握手をすると「さて」と一呼吸置いて、今日の撮影内容を説明し始めた。
「今日はこのビルの中で撮影します。内容はキャバクラ嬢が身につけるドレスの撮影です。クライアントはそのドレスを作っている会社です。何人かモデルがいて、交代でドレスを着てくるので、それを撮影していく仕事になります。さあ、それじゃ行きましょうか」
 手短に言って、ビルの中に入り、エレベーターで階上へ向かった。チンと到着を知らせるベルが鳴ってドアが開くと、だだっ広いフロアが広がっていて、そこに大量の服があちこちに雑然と積み上げられていた。
「お世話になっております。カメラマンの遠藤です」
 フロアに到着するなり遠藤さんが大きな声で挨拶すると、服の山の向こうからいかにもアパレル風な派手な身なりの男の人が現れた。
「おはようございます! 今日はよろしくお願いします。モデルさんはもう準備に入ってますので!」
 男は元気な声で遠藤さんに言ってから、僕に目を向けて、「メールで仰ってた遠藤さんのアシスタントさんですか」と尋ねた。
「こちらはアシスタントではなく、今日一緒に撮影を手伝ってくれるカメラマンです。彼がちょっと現場を見て勉強したいということで、今日一日現場にお邪魔させていただきます。よろしくお願いします」
 頭を下げる遠藤さんの横で僕も一緒に頭を下げつつ、自己紹介を済ませ、名刺を渡し、挨拶をした。
「京都から来られてるんですか。今日一日よろしくお願いしますね。じゃあ、こっちは大体セット出来上がってるんで!」
 男はにっこり笑うと、「じゃあよろしくお願いします!」と元気に言って、服の山の中へ消えていった。
 遠藤さんは服の山とは違う方向に向かい、スーツケースを引っ張っていくと、おもむろにその中から撮影機材を出し始めた。
「この会社は主にキャバクラ嬢が身につけるドレスのレンタルをしてるんです。新しいドレスが入るとお客様に写真を見て選んでいただくためにこうやって撮影するんです。しょっちゅう新しいドレスが入ってくるので、こうやってオフィスの中に簡易撮影スタジオを作ってもらったんですよ」
 小声で話しながら、遠藤さんが指差す方向を見ると確かに大きなフロアの一角に背景紙だけを取り付けた簡素な撮影スペースが設けられていた。
「社内にこの撮影スタジオを設置することを私から提案したんですよ。毎月大量に撮影するので、そのたびに撮影スタジオをレンタルすると高くつくんですよ。でも、こうやって内製化しちゃえば費用は浮くし、わざわざレンタルスタジオまでドレスを運ぶ煩雑さがなくなります。そして浮いた費用の一部をギャラに充ててもらえたら私としても有難いですしね」
 淡々と話しながら、遠藤さんはこの撮影スペースの周りに照明機材を慣れた手つきで立て始め、ものの10分ほどで完成させた。
 テレビかなにかで見たことのある、照明用の白い大きなアンブレラ2つが、遠藤さんがシャッターを押すたびに、「ピピーッ」と大きな音をたてて光る。アンブレラの中には照明機材があって、遠藤さんのシャッターと連動して光る仕組みになっているようだった。
「人物を撮るとき私は60ミリのニコン単焦点レンズを使います。その他にも135ミリのこのカールツァイスレンズもほんの少し使いますね」
 そう言いながら、テスト撮影に余念のない遠藤さんの機材ケースに目を向けるとカメラレンズやらカメラボディやら、その他なにやら訳のわからない機材がびっしり入っていた。これを一体どうやって使い分けているのだろう。ちんぷんかんぷんの頭のまま僕はノートに「人物・60ミリ、135ミリ、照明・アンブレラ」などとメモを取った。
 そうこうしているうちに、「おはようございます。お待たせしました〜。今日はよろしくお願いしまーす」と、若い女性の声がフロアに響いた。ドレスに身を包んだ2人のモデルさんがペコリと遠藤さんに頭を下げる。
「よろしくお願いします。それでは一人ずつ順番に始めましょうか」
 すぐに撮影が始まった。簡易スタジオに立ったモデルさんはレンズを見つめ続けながら、腰に手を当てたり、ちょっと体をひねってみたり、堂々と立ってみたり、次々とポーズを決めていく。そのワンシーン、ワンシーンを遠藤さんは冷静に撮っていく。シャッターが切られるたびに、「ピピー」という音とともに照明機材が発光し、それが妙に心地いい。
 10枚ほど撮ったところで、遠藤さんが「はい、お疲れ様でした〜。次行きましょう」とモデルさんに声をかけると、次に控えていたモデルさんが登場し、また「ピピー」という音がフロアにこだまする。そして10枚ほど撮るとまた新しいドレスを身にまとったモデルさんに交代、というような流れで次々と撮影をこなしていく。ドレス1着につき、撮影にかける時間は1分半といったところだろうか。
 遠藤さんは撮影中特にモデルさんに声をかけることもなく、とにかく休むことなくどんどん撮る。およそ1時間で30着ほどのドレスを撮影してようやく終了となった。
「あのピピーっていう音がリズムを出してモデルさんの気持ちを上げるんですよね。現場によっては出さない設定にする時もあるんですが」
 ペットボトルのお茶を飲みながら、顔色一つ変えずに涼しい顔で言う遠藤さんがその時ひどくかっこよく見えた。
 僕たちはモデルさんとアパレル男に挨拶を済ませると手早く撤収しビルを出て、六本木を二人で歩きながら駅の方向へと向かった。
「今日はあんな感じでモデルさんを次から次へと撮ったわけですが、明日はホテルの広告の撮影です。朝早いですが来ますか?」
 聞かれるまでもない。「はい!」と短く返事をして初の撮影現場見学は終わった。
 翌日のホテル広告撮影、またその翌日はオーダーメイドスーツの商品撮影、その次はウェディングドレスのモデル撮影というように、連日大小様々なクライアントを相手に撮影をしに行く遠藤さんに金魚のフンのようについて回り、その仕事ぶりを見させてもらった。
 それぞれの撮影現場は、当たり前だが撮影内容によって全く違っていた。撮影の内容も人物、商品物、建物など様々だし、それによって現場に携わる人間の数もその時々によって20人の時もあれば2人の時もあったりと、どれひとつ同じ現場などなかった。
 しかし、スタイリストやメイクなど撮影チームの人たちと連携を取りながらも、最終的にはカメラマンの作り出す現場の空気が、写真の良し悪しの大部分を決めるというのは共通して言えることだった。
 雰囲気を作るだけではない。商品そのものやモデルさんやセットそのものにも細やかな気配りと配慮をしながら、現場全体を冷静に把握する能力も必要だし、クライアントや制作チームに対してより良い提案をする積極性、そして臨機応変さも必要だった。そのどれをも的確に丁寧にやってのけてこそ、初めて信頼してもらえるのだということが分かった。それが遠藤さんの現場での最大の収穫だった。
 おそらくカメラマンの腕というのは、撮影技術はもちろんだが、撮影現場を主体的に回し、雰囲気を作り、的確に撮影していく能力に現れるのではなかろうか。そして、これも恐らくだが、それだったら僕には出来るかもしれないと思った。
 なぜならばそれは教員の仕事と非常に類似する部分があったからだ。様々な個性が集まった一つのクラスを引っ張りながら、一人一人に気を配り、全体を冷静に把握しつつ、時には熱く、時には教え諭し、クラスを作っていく教員のそれと、カメラマンが現場を回す時のそれとは共通項が多く、僕が教員時代に得たあの経験を応用していけるのではないかと思ったのだ。
 もちろん撮影技術の面に関しては、イチから経験を積み上げていくしかない。機材の扱い方や応用の仕方などは、人物撮影からブツ撮りから風景から何でも貪欲にこなしていく遠藤さんの仕事の幅広さのおかげで、学べたことが多くあった。
 あとはとにかく僕自身が鍛錬を積んで、いかに早く習得ができるかが問題なだけであって、やっとこれでスタートラインに立つ準備ができたという感じだった。
 それからおよそ1年後、小西さんから撮影依頼が再び来ることになるとは、この時はまだ想像すらできなかった。

 

(第23回・了)

 

この連載は今回で終了です。この原稿を元に書き下ろしを加えて、単行本化いたします。どうぞ、楽しみに。連載をご覧いただき、ありがとうございました。また、お会いしましょう。