見えないものと仲良くなる 安田登

2017.11.30

04見えないものと仲良くなるためのツール3、意味ある偶然の一致(1)

 ゲーテは、死に望んで「もっと光を!(Mehr Licht!)」と言ったとか。孔子の高弟、曾子は臨終の床で「鳥の将に死なんとするや、その鳴くこと哀し。人の将に死なんとするや、その言ふこと善し」と言った。 
 人の最期の言葉というものは、こんな風に感動的なものだと思っていた。
 ところが、母と交わした最後の言葉は全く感動的なものではなかった。
 亡くなる前の母から言われた最後の言葉は「禿げたのを気にするな」というものだった。禿げていても恥ずかしくないからテレビに出るといいよ、というものだった。

 十年以上前はたまにテレビに出ていた。能と身体技法の本を何冊か書いたので、健康系の番組が多かった。
 ある番組の制作途中、すり足の仕方などを事前に録画をしていたとき、本番の台本のようなものを渡された。そこには「すり足をすると寝たきりにならない」と書かれていた。
 「これは言えない」と言った。すり足は大腰筋の活性化の役には立つ可能性はあるが、何かに「効く」と断言はできない。ましてや「寝たきりにならない」などとはとうてい言えない。そう言った。
 するとディレクターは、視聴者はこう言わなければわからないという。ここではちょっと書けないが視聴者をバカにするようなことも言った。
 腹が立った。冗談ではないと思った。なぜなら、私もテレビを見る。私も視聴者のひとりだ。それをバカにする。本番への出演は断り、もうテレビには出ないと決めた。だからテレビに出ないのは禿げたのを気にしてのことではない。
 むろん、そんなことは母には言っていない。だから、母は私がテレビに出ないのは、禿げたのを気にしているからだと思っていたらしい。
 この言葉を交わした数週間後、母は意識がなくなり、そのまま亡くなった。
 私にとっての母の最期の言葉は「禿げたのを気にするな」だったのだ。
 が、不思議なことに母が亡くなった数週間後にテレビ出演の依頼が来た。これは前のと同じ匂いがしたので断ったが、それからも数件続けて来た。
 あのことがあってからも、テレビの出演依頼はあったが、すべて断ったので、十年以上テレビ出演の依頼が来ることはなかった。それが、こう続けて来る。ひょっとしたらこれは母の最期の言葉と何か関係あるかも知れないと思い、無下に断ることはやめて、いま打ち合わせ中のものがいくつかある。

 当然、これは単なる偶然の可能性が高い。いや、絶対偶然だろう。
 が、単なる偶然を「意味ある偶然」にする、それこそが今回紹介したい「見えない世界と仲良くなる」ためのツールだ。
 偶然を「それは単なる偶然だよ」と言い捨ててしまう人と、「この偶然には意味があるに違いない」と探求する人では人生の楽しさが違う。
 内田樹さんとの対談をするために、内田さんの道場である凱風館にお邪魔したときだ(そのときの対談は『変調「日本の古典」講義』として上梓されている)。
 凱風館は神戸にある。神戸といえば源平合戦の一ノ谷の近くだ。
 一ノ谷では、多くの武将が討たれ、平氏は致命的な打撃を受けることになる。16歳で亡くなった平敦盛の最期は悲劇として語り継がれ、『敦盛』として能にもなっている。
 ところで私は、能のワキ方に属する。
 あ、突然「ワキ方」と言われても意味不明の方もいらっしゃいますね。ちょっと説明をば。
 能には主人公を演じるシテ方とその相手役であるワキ方。また、主に滑稽な部分を受け持つ狂言方と、音楽チームの囃子方と各役があり、その各役は専任である。すなわち、その役に属する役者は、一生その役をし、他の役をすることはない。
 で、私はワキ方に属する。
 能『敦盛』での平敦盛を演じるのはシテ方で、私たちワキ方は敦盛を討った源氏の武将、熊谷直実(なおざね)を演じる。
 少年武将、平敦盛を討ってしまった熊谷直実は、世を捨て僧となり、名も蓮生法師と改めて敦盛の菩提を弔うために一ノ谷を訪れる。するとそこに敦盛の亡霊が現れ、直実はその霊を弔う、というのが能『敦盛』だ。
 熊谷直実を演じる身としては、内田さんの凱風館に来たならば一ノ谷に行き、敦盛の菩提を弔いたいと思った。
 一ノ谷の合戦で有名なのは「逆落とし」だが、まずは平敦盛が討たれた須磨の浦に向かった。浜辺に臨み、敦盛を弔うワキの謡を口ずさんでいた。
 すると、水上バイクが沖に向かって走り行き、沖で止まった。バイクは「鉄馬」、すなわち馬にたとえられる。それに乗る青年は現代の敦盛か、などどぼんやりと思っていた。
 突然、これは単なる偶然ではないと思った。
 『平家物語』によれば、敦盛は沖に漂う味方の船を目指して馬に乗ったまま、五、六段(670メートル)ほども行ったところで、熊谷に呼び止められた。
 ちょうど水上バイクのいるあたりだ。水上バイクの青年こそ、まさに現代の敦盛なのだ。
 そして、そこは岸からはかなり遠い。
 「あれ?」と思った。
 『平家物語』によれば、敦盛はここで熊谷直実に呼び戻されて浜辺の戦いで討たれたことになっている。
 ここで敦盛が戻らなかったらどうなっていたか。いや、討とうとするならば、熊谷直実自身馬を海に乗り入れるべきではないのか。
 そう思ったとき、熊谷直実は馬を泳がせることができなかったのではないかと思った。逆にいえば平氏は、馬を泳がせる術を知っていた。馬という非・人間である他者を媒介に、この両者の対比がはっきりと現われたのがこの一ノ谷の戦いではなかったか。海民としての平氏と山民としての源氏との戦いを描くのが『平家物語』ではないかと気づいた。
 水上バイクは、このことを気づかさせてくれるために現れたのではなかったか、そう思った。
 ならば、さらなる偶然と出会うために、義経が馬で駆け下りたという鵯越(ひよどりごえ)の道を見てみたいと、後ろの山に登ることにしたのだが、その話は次回に。

 

 

(第4回・了)

 

この連載は月1回更新でお届けします。
次回2017年12
月25日(月)掲載