見えないものと仲良くなる 安田登

2017.12.27

05見えないものと仲良くなるためのツール4、意味ある偶然の一致(2)

 

 前回は須磨の浦で遭遇した偶然の一致のことを書いた。
『平家物語』の大きな戦闘場のひとつである一ノ谷を訪れ、須磨の浦で敦盛のことを考えていたら水上バイクがやって来た。それがちょうど敦盛が馬を乗り入れたあたりで、それで偶然の一致を感じたという話をした。
 一ノ谷の合戦で、もうひとつ有名なのは鵯越(ひよどりごえ)の逆落としである。源義経が、崖のような急斜面を馬で駆け下りたという伝説だ。
 この一ノ谷の合戦の一年後に平家は滅亡する。時の利はすでに源氏に移っていたと言っていいだろう。しかし、一度は天下を取った平氏だ。源氏に劣らぬ大勢力を誇っている。執拗に攻撃を仕掛ける源氏の猛襲にも激しく抵抗する平氏軍に、源氏軍もほとほと手を焼き、互いに一歩も譲らぬ激戦を繰り返していた。
 が、その均衡を破ったのが、この鵯越の逆落としである。
 ちなみに、この逆落としは史実であるかどうかは意見の分かれるところだ。だが、そんなことはどうでもいい。琵琶法師たちの語った『平家物語』のお話をそのまま信じることにして物語を楽しもう。
 平家の陣の後ろには山があり、そこは断崖絶壁。まさかここから攻撃されようなどとは、平氏は誰も予測していなかった。
 が、源義経は精兵七十騎を率いて後ろの山に上った。
 義経は「馬を落としてみよう」といって、鞍を置いたままの馬を崖から追い落とす。
 一頭は足をうち折って転び落ちたが、もう一頭は無事に降りた。さらに三頭は越中前司の屋形の上の方に駆け降りて、ぶるぶるっと身ぶるいして立った。
 「これならば乗り手が心得るならば失敗することはあるまい。我を手本にせよ」と自身が先頭に、まずは三十騎ほどが駆け下りれば、残りの軍勢も続いて降りた。小石まじりの流れ落とし、滑り落ちるようにざっと下りて、踊り場のようなところで騎馬軍は止まった。
 が、ここから先が難所だった。450メートルの苔むした大盤石の崖が真っ逆さまに下っている。「さすがにこれは無理だ」と思っているところに、相模の国、三浦の武将、佐原十郎義連が進み出て、「ちょろい、ちょろい」と先頭立って駆け下りたので、みなそれに続いた。あまりに恐ろしいので目をふさいで駆け下りたものもいる。馬を損ねてはならじと馬を背負って駆け下りる武将もいた。
 突然の来襲に平氏は大混乱。義経はそれに乗じて火をかければ、驚いた平氏の兵たちは我先にと海上に浮かぶ船に向かって逃げ出したという。

 「そんなにすごい崖なのか」
 それを確かめるべく、義経が馬で駆け下りたといわれる後ろの山に登った。
 『平家物語』で語られるような垂直な断崖絶壁はない(もともとこの山ではなかったという説もあるが、やはりそれも気にしないことにする)が、それでもかなりの急こう配だ。
 そこを最初はおそるおそる歩いて降りた。しかし、「義経の気持ちの追体験ならば」と、走り下りてみた。
 これはこわい。
 歩いて降りてもこわいのに、走ると倒れそうになる。かかとでブレーキをかけながら走り降りる。ちょっと気を抜くと倒れて滑り落ちる。
 人間ですらこわい。馬のこわさはいかほどだろうと思った。
 と、そのとき思い出した。このような急斜面を馬で上り下りした例がある。
 私の能の先生(故・鏑木岑男師)は、東京港区にある愛宕神社の宮司をされていた。
 愛宕神社は、自然の山としては東京で最高峰の山(と言っても海抜26mだが)で、その頂上に鎮座ましますのが愛宕神社だ。神社には傾斜角度は40度、86段の急階段がある。上から下を見ると目がくらむ。まさに鵯越の山である。
 江戸時代に、この山を馬で上り下りしたという伝説がある。宝井馬琴の講談で有名だが、親しくしている浪曲師の玉川奈々福さんもよくこの話を語る。

 こんな話である。
 ときは寛永11年の春、三代将軍、徳川家光公が菩提寺である芝・増上寺にご参詣の帰りに、愛宕山の下を通ったとき、山上から梅の香りが漂ってきた。
 将軍は「あの梅を取って来い」と命じた。家臣が「はっ」と取りに行こうとすると、「誰が歩いて行けと言った。馬で取って来い」という。
 急こう配の階段だ。馬が上れるとは思えない。しかし、将軍の命令。無視するわけにはいかない。何人かが挑戦するが、階段の途中で馬が下を見て恐怖のために足がすくみ、山上まで到達する者はいない。
 怒った将軍が「もういい」と帰ろうとすると、ひとりの武士が馬を駆って階段を登り始めた。居並ぶ立派な武士に比べてみすぼらしい恰好の田舎侍である。馬だって駄馬にしか見えない痩せ馬だ。
 将軍は近くの者に「あれは誰だ」と問うが、知る者はいない。無名の武士だった。
 彼とその馬は見事、山上に到達し、境内の梅を手折って、そのまま馬で階段を駆け下りて、梅を将軍に献上した。
 将軍は彼に「日本一の馬術の名人」との称号を授け、その名は日本中にとどろいた。彼こそ、「寛永三馬術」のひとりとして有名な四国丸亀藩の曲垣平九郎(まがき・へいくろう)である。
 むろん、これは講談である。「講談師、見てきたような嘘をつき」というが、愛宕山の階段を見れば、誰もが「そんなのできるはずがない」と思う。そこで、昭和57年にテレビ番組の企画で「これは本当に可能なのか」とやってみようということになった。
 結果をいえば成功した。大成功だった。
 私は能の弟子としてその場に立ち会わせていただき、テレビの人や騎手とも話をした。なぜ、このようなことが可能だったのかを尋ねた。
 これを実現するためには長い時間を費やしたそうだ。最初は一段、二段の階段から練習を始めた。そして、段数をゆっくり、ゆっくり、徐々に増やしていき、馬が怖がったら、その時点でまた対策を考える、そのようなことを繰り返して、やがて撮影の日を迎えたという。
 鵯越の山で、この話を思い出した。
 佐原十郎義連を始めとする東国の源氏の武将たちは、普段から馬で山を駆け降りる稽古をしていた。だから、鵯越が可能だったのだ。
 須磨の海を海で泳いだ「海の平氏」に対して、山を駆け下りる「山の源氏」、その対比がこの物語だったのか、とこのときさらに実感した。

 さて、そんなことを考えながら鵯越の山を歩いていたが、見晴らしのいい場所で休憩をした。石に座って義経のことを思いながらiPhoneを取り出してツイートをしていた。
 すると、どこからともなく赤トンボが飛んできて、私の右肩に止まった。そのまま、ツイートを続けていると赤トンボは肩から飛び立ち、今度はiPhoneの右上に止まった。それでも気にせずにツイートを続けていた。
 ツイートをすればiPhoneは揺れる。それなのに赤トンボは逃げようとしない。「不思議なトンボだ」と思ったときに気がついた。
 「赤は平家の色だ」
 平家は赤旗だ。「この赤トンボの写真を撮ろう」と思った途端に、赤トンボは突然いなくなった。
 「ああ、残念」と思っていると、そこに今度は白い蝶が現れてゆったりと舞うのだ。
 白といえば、むろん源氏である。
 須磨の浦で見た水上バイクの平敦盛が赤トンボとなって現れ、鵯越の源義経が白い蝶となって現れた。
 すごいでしょ。
 前回にも書いたが、むろんこれは偶然であろう。
 だが、これを単なる偶然と思うか、そこに意味を見出すかだけである。
 平家の象徴たる赤トンボが「右肩」に止まり、そしてiPhoneの「右上」に止まったということから「平家の烏帽子は右折だ」とさらに深読みすることもできる。
 いや、これは深読みではない。人の心を読む、という使い方をするように、「読む」という行為自体が、そこに現れていない何かを洞察することをいうのである。いま目の前に起こる事象をそのままスルーするのか、そこに何かを「読む」のか、その違いである。

 私たちの世界は、「読まれることを俟っている偶然」に満ち溢れている。しかし、私たちの社会は「世の中は必然で成り立っている」というたてまえで生活しているために、この偶然は無視される…どころか否定される。
 必然は因果性によって保証される。「なにごとにも原因がある」という因果性だ。どんなことににも原因があるはずだと私たちは考え、何かをしたというと「なぜ」と聞かれる。
 「須磨の浦に行って来たんだ」というと、「へえ、なぜ」と聞かれ、そこで「須磨の浦は能『敦盛』の舞台だからね」というと「ああ、なるほど」と納得される。
 この因果性は論理性によって保証されていなければならない。誰でもが納得できる理由である必要があり、わけのわからない理由では因果性にならない。須磨の浦に行った理由が、能の舞台であり、そして私が能楽師であるから納得される。
 鵯越の山で赤トンボを見たということが「秋だったから」という理由ならば「ああ」と納得されるが、「ちょうど源平のことを考えていたから」では納得されない。
 因果性や論理性はリニア(直線的)である。「AだからBである」のAとBは直線で結ばれていなければならない。
 しかし、多くの人が思っているように、どうも世の中は直線的な因果性や論理性だけで成り立っているわけではなさそうである。
 ユングは因果性では説明できない関係性として共時性(シンクロニシティ)という考えを提示した。ユングがこの考えを示したのが晩年に近いことだったこともあり、結局、この説の当否は証明されていない。が、証明されないのは当たり前だろう。なぜなら証明は論理をベースにしているからだ。因果性や論理性を真向から否定する共時性を、論理で説明しようとする方がもともと間違っている。
 ところが現実は共時性以上の非・因果性の世界を実現しつつあるように感じる。
 誰でもがインターネットの世界に生き、ブロックチェーンがビットコイン以外にも使われる現代、そろそろ因果性や論理性の呪縛から解き放たれる時代が近づいているのではないだろうか。
 テッド・ネルソンのプロジェクト・ザナドゥ(ハイパーテキスト構想)は、あらゆる場所の間で双方向リンクを結ぶハイパーテキストを目指した。現在のWebは、途中でリンクが切れるという意味で、プロジェクト・ザナドゥの失敗物である。これは論理的な文法で書かれるプログラムの持つひとつの限界であろう。
 しかし、プロジェクト・ザナドゥの発想自体はすばらしい。空海の「帝網(たいもう)」を思い出す。
 帝網とは帝釈天の網である。帝釈天の宮殿には無数に張り巡らされた網があり、その網の結び目の一点一点には宝珠がある。そして、その宝珠は互いを照らし映し合い、全体が鏡映している。そして、これこそが私たちの世界であるという。
 あらゆる事物・事象は見えない網で結ばれていて、常に鏡映し合い、それに目を向けたときに、必要なものが映る。偶然を意味あるものにするということは、この帝網、すなわちインドラ・ネットワークに気づいて、そこに目を向けることであろう。
 インターネットを超えるネットワーク、インドラ・ネットワークが到来する日が近いかも知れない。
 今回の話の最後に宮沢賢治の『インドラの網』を紹介しておこう。
 于闐(コウタン)大寺を発掘した青木晃が、天の空間、ツェラ高原で出会った于闐大寺の壁画の三人の子どもたち。彼らは天界の太陽の出現に喜び、駆け回り、そして青木にぶつかるとびっくりして飛とびのきながら、そのうちの一人が空を指さして叫けんだ。

  「ごらん、そら、インドラの網を。」
 私は空を見ました。いまはすっかり青ぞらに変わったその天頂から四
 方の青白い天末までいちめんはられたインドラのスペクトル製の網、
 その繊維は蜘蛛のより細く、その組織は菌糸より緻密に、透明清澄で
 黄金でまた青く幾億互に交錯し光って顫(ふる)えて燃えました。

 

 

(第5回・了)

 

この連載は月1回更新でお届けします。
次回2018年1
月25日(木)掲載