よく行くスーパー銭湯がある。平日の夕方、仕事が早めに終わって疲れをほぐしたいときや、夜遅い時間になってから気分転換に外へ出かけたくなったときに、なにをしようか迷ったらだいたいこの銭湯へ行っている。
昔はお風呂が大の苦手だった。熱い湯に浸かってなにが気持ちいいのかわからない。髪や身体を濡らしてまた乾かさなければいけないのも納得がいかない。サウナブーム辺りから身の回りに銭湯へ定期的に行く人が増えたときは、なぜ家にお風呂があるのにお金を払って銭湯へ行くのかふしぎでならなかった。サウナの有無はさておき、自宅の浴槽に入浴剤を入れて、お湯の温度を高めにするだけではだめなのか。家のお風呂と銭湯のなにが違うのか。
銭湯への抵抗がなにで和らいだのかは、正直覚えていない。たぶん「お金を払っているからにはちゃんと湯船に浸かろう」という意識が働いたおかげで、普段よりゆっくりお風呂に入り、いつもより疲れがとれたのかもしれない。なんとなく銭湯へ行った後は気分が良く、夜にぐっすり眠れるという理由で、疲れたときは自然と銭湯へと足を運ぶようになった。では、なぜ家のお風呂ではなく銭湯ではないとだめなのかと訊かれるとうまく答えられる自信がない。「湯船に浸かりたい」だけなら家のお風呂のお湯を溜めればいいのだし、サウナにはあまり興味がないので、強いて言えば湯船の広さくらいしか決定的な違いはないはずなのだ。
「は」と「が」の使い分け方についても、「家のお風呂」と「銭湯」の違いを考えているときのような捉えどころのなさを感じる。中学の国語では「は」は副助詞または係助詞で、「が」は格助詞と学ぶ。では、明確にどう使い分けているかといえば、「この文章の中では文法として副助詞が入らないとおかしいから……」とは考えず、読んだときに自然かそうでないか、ということだけで判断している。ほかにも使い分けに迷う助詞はいくつもあるが、文章を書いていて、どこか無意識に使い分けている・一度書いた後で手直しすることが多いなと感じるのが「は」と「が」だ。たった一文字で、たった一音で、日本語のバランスが崩れるのはなぜなのだろうか。長年の謎を解明するため、文法的なアプローチではなく感覚として、「は」と「が」をどのように認識し、使い分けているのかを考えてみたいと思う。
より伝えたいことが後ろにくるのが「は」、前にくるのが「が」
さしあたって「は」と「が」の違いについて考えるとっかかりを見つけるべく、ネットで「は と が 違い」で検索してみた。すると、日本語教員を養成するための一本の動画(『日本語教員養成チャンネル』「【説明できますか?】「は」 と 「が」の違い【日本語文法解説】」)が出てきた。まず興味深いなと思ったのは、「は」と「が」がつなぐ言葉の、強調する箇所が違うという説明だ。動画の投稿者は、「は」の場合は「は」の後ろにくる言葉、「が」の場合は「が」の前にくる言葉が伝えたいことなのだ、と話す。
私は日本語の先生です。
私が日本語の先生です。
たしかに! たとえばライターとして取材に行ったとき、自己紹介する場面であれば「(わたしは)ライターのひらいです。よろしくお願いします」と言うのに対し、カメラマンや編集者などさまざまな職種の人が複数人いるなかで、誰かがライターを探している場面なら「わたしがライターのひらいです」と言うだろう。そこで「わたしはライターのひらいです」と言ったなら、(なんかこいつ急に自己紹介してきたな)となるに違いない。もし「は」でつなぐなら「ライターはわたしです」と答えれば自然だ。先ほどの法則にあてはめると、強調したい部分は誰がライターなのか? ということなので、きちんと一致している。

ライターが誰なのか探しているときに、なぜ「わたしはライターのひらいです」と言ったらおかしいのか。ここまでの推測から、前提があるときは「が」じゃないと不自然なのかもしれない。会社で上司がとある部下の誕生日サプライズを目論んでいたとしよう。「誰かケーキ買ってきてくれる?」と言われ、もし自分の手が空いていたなら「わたしが買ってきます!」と答えるはずだ。「わたしは買ってきます!」と言えば、急にロボットのような喋り方になって同僚たちに心配されるだろうし、「わたしは買ってきますけど!」みたいな言い方なら、同僚たちはもしかして嫌味言われた? と怪訝な顔をするだろう。ケーキを買ってくれる人はいないか? という投げかけがあったから、ここは「わたしは」ではなく「わたしが」が適切なのだ。「山川くん、今年で会社を辞めるらしいよ」と同僚が退職する と聞いたときも「彼 “が” 決めたことだからね」と「が」になるのは同じ理由だ。
「は」と「が」の違いについてあらためて調べてみると、『新日本語文法選書 1「は」と「が」』(くろしお出版)という本が見つかった。本書は「は」と「が」の使い分けの原理について論じており、五つの原理を紹介している。今考えていることのヒントになりそうなのが 「新情報と旧情報の原理」だ。本書の言葉を嚙み砕いて表現すると、「『は』は旧情報のものを伝えるときに、『が』は新情報を伝えるときに使われる」という原理らしい 。ここで、もう一度例文を出して整理してみる。

たとえば取材先でインタビュイーや編集者などに自己紹介するとき、相手が知らないのは「わたし」ではなく「ライターのひらい」であることだ。そして、ライターが誰なのか探しているときに相手が知らないのは、「わたし」である。つまり、「は」のときは後ろに相手の知らない情報が、「が」のときは前に相手の知らない情報がやってくるということだ。先ほど例に出した部下のサプライズケーキのシーンでも再度あてはめてみよう。

誰かが買ってくることは決まっているから、上司がまだ知らない情報は買ってくるのが「誰」なのかということだ。だから、ここで「わたしは買ってきます」と言うと、妙な違和感が生まれてしまう。
鼻が長い象は鼻詰まりするのか
「は」と「が」の違いを説明する際の有名な例文として使われるのが「象は鼻が長い」だ。先ほどまでは「は」と「が」のどちらかの使い分けについて考えていたが、「は」と「が」のどちらも一文に使うことがある。
象は鼻が長い。
象は鼻は長い。
象が鼻が長い。
「象は鼻は長い」は、象が長いのか鼻が長いのかよくわからないし、「象が鼻が長い」は日常ではおそらく一度も耳にすることのない、めちゃめちゃな文章になっている。「象は鼻が長い」の一番伝えたいことはなにかと言えば、「鼻が長い」だ。その次に伝えたいことは「長い」だ。つまり、「は」と「が」が一文の中で使われるとき、一番伝えたいおおきなことは「は」に包まれ、そのなかで次に言いたいことは「が」に包まれているんじゃないか。もう少しわかりやすい別の例文で考えてみることにしよう。

一番言いたいのは「鼻が長い」ではなく、「鼻詰まりするのか?」であるから、先ほどの仮説は合っていそうだ。広い範囲の言葉と言葉をつなげられるのは「は」なのだとわかる。ならば、「が」を使う必要はあるのか。「は」でどんなに広範囲の言葉もくっつけられるなら、「が」を使わないほうが楽なんじゃないか。
わたしが言いたいのは、ナゲットとポテトのどちらも食べたいということなんです。
わたしはナゲットとポテトのどちらも食べたいんだよね。
上記二文は、ほぼ同じ意味だ。しかし、上の「わたしが言いたいのは、ナゲットとポテトのどちらも食べたいということなんです」のほうが、切実さがこもっているように感じる。「ナゲットとポテトの両方が食べたい気持ちをわかってよ!」という心の声すら聞こえてきそうだ。「わたしはナゲットとポテトのどちらも食べたいんだよね」だと、自分のことなのになぜか他人事のように語っているような印象になる。「わたしが言いたいのは」とすることで、切実さや主張を強調した言い方ができる。広範囲の言葉たちをなんでもかんでもくっつけることのできる「は」がのりなら、狭い範囲の言葉たちを高い強度でくっつける「が」は瞬間接着剤と言えるかもしれない。
虫唾は走る 開いた口は塞がらない
慣用句の「が」と「は」について着目してみようとしたところ 、「が」がつくものばかり思い浮かぶ。「虫唾が走る」、「開いた口が塞がらない」、「気が利く」、「株が上がる」、「口が滑る」、「鬼が笑う」、「顔が立つ」、「頭が上がらない」……。「は」が使われるものを探してみると、「病は気から」、「背に腹は代えられない」、「百聞は一見にしかず」、「二度あることは三度ある」などそれなりにあることはわかったが、共通して「は」がつく慣用句はどれも教訓めいている。「が」のつく慣用句は、教訓というよりは比喩だ。慣用句の「が」を「は」のように変えてみるとどうなるだろう。
虫唾は走る
開いた口は塞がらない
気は利く
株は上がる
「虫唾は走る」「開いた口は塞がらない」と言われたら、虫唾以外のなにかは走ってないけれど、少なくとも虫唾は走っているように 感じ 、開いた口は二度と塞がらないのかと不安になる。「気は利く」「株は上がる」は一見ポジティブなようで、ネガティブな一面もあることをほのめかしているようだ。たとえば「あの人、気は利くんだけど」「上司からの株は上がっても、同僚が反発しているんじゃ困るんだよ」といった具合である。
次に、「は」の慣用句の構造に着目してみることにした。先ほどあげた慣用句を何度か繰り返し読んでみると、「は」を「=」で置き換えられるのでは? と発見した。
病=気から(やってくるもの)
背に腹=代えられない(もの)
百聞=一見にしかず
早起き=三文の徳
このイコールとは、主語が述語の言い換えになっているということだ。ほかの「時は金なり」「溺れる者は藁をもつかむ」「一寸先は闇」なども、イコールでつなぐことができる。主語をA群、述語をB群とすると、AをBに喩えている構造になっているのだ。

先ほどの「が」の慣用句に戻ろう。「虫唾が走る」「開いた口が塞がらない」「気が利く」などについても、主語と述語で群を分けてみる。

「は」の慣用句と決定的に違うのは、BがAの喩えではないことだ。Bは単にAの説明にすぎず、虫唾は走るときもあるし、走らないときもあるのでA=Bとはならない。開いた口、気、株についても同じだ。もしもことわざを一から作るとしたら、「AはB(Aの喩え)」か「AがB(Aの説明)」とすれば、それっぽい表現が作れると言える。
わかることがあるだけ
いくつかの実例から「は」と「が」の使い分けの法則がだんだんわかってきたような手応えを少し感じるが、わかったことを見つけたそばから、わからない部分が宇宙のように膨張していっているような気もしてしまう。 十代の頃、法律に興味を持つようになり、四年制の大学の法学部へと進学したときのことを思い出す。あの頃は、わからないことをわかるために授業を受け、学びを深めていくのだと思っていた。ところがどうだろう。こんなになにも意識せず使い分けている「は」と「が」でも、あらためて考えてみるとわからないことがまだまだある。ただ、わかることがあるだけだ。今回の文章を書いている間にも、実は「は」と「が」で迷った一文があった。
そういうときの要因を作っているのは「は」と「が」だったりする。(最初に書いた文)
そういうときの要因を作っているのが「は」と「が」だったりする。(後から直した文)
どちらも意味が通っているし、おかしくもない。こういう細かな一文字の選択と修正を、きっとわたしたちは日常の中で何度も、何十回も繰り返しているんだろう。意味は変わらないかもしれない。だけど、「は」と「が」のどちらがより心地良いかを考えることは、決して無駄ではないと信じたい。わからないことがあるということは、学ぶ喜びが、考えるたのしみが残されているという希望でもある。
(つづく)
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