虫を描く私――標本画家のひとりごと 川島逸郎

2021.9.22

01虫と出会い、描き始める

虫、自然との出会い

 私が、「生物画家」との名乗りのもとに昆虫を描き始めてから、早や、三十年余の月日が経ちました。私が描き続けてきたのは、「標本画」と呼ばれるものです。科学的な裏付けのもとに描かれ、図鑑や科学論文で使われる動植物の絵ですが、その多くは、一般の目に触れることはありません。私は、どのような絵よりも「標本画」に魅せられ、先人の手になる、人間技とは思えないような繊細な仕事に、心を奪われてきました。この、市井にあってはおよそ耳慣れないであろう、そして、デジタル技術の発達した現在においては、もはや風前の灯にある「標本画」をどこまでも突き詰め、命のある限り描き続けようと、腹を括っている人間でもあります。私は、日本で最後の描き手になるかもしれません。もし、描くことを止めてしまえば、その時点で、こうした画を制作する技術もまた、途絶えてしまうかもしれない。世の中から失われつつある「標本画」について、その描き手である私が、今ここで書き遺すことは、大きな意味があるようにも思えるのです。
 私の標本画について、そもそもの発端とはどこにあったろうかと、ふと振り返る瞬間があります。この原稿にせよ、タイトルこそ「出会い」「描き始め」としてはみたものの、実のところ、一体いつ頃から虫の絵を描き始めたのかは、すでに、私自身の記憶からも失われています。ひとつ、確かに思い出せるのは、幼稚園に上がったときには、すでに虫を手に取り描いていた、という事実でした。ですから、じきに半世紀に手が届くことでしょう。幼稚園、ひいてはのちの小学校の時代も、その折々で、どのように日々を過ごしていたかはほとんど記憶にないのに、虫と絵とにまつわる事柄だけは、わずかな断片ではあれ、脳裏に深く刻まれています。それだけ好きが昂じ、熱中していたからに違いありません。

 

オニヤンマ(小学校三年生のときに描いたもの) ©川島逸郎

 

 大気汚染の煤と煙とにまみれ、「公害」の象徴ともなった1960年代の川崎の中心街近くに生まれた後、武蔵野の面影と里山の自然とが、いまだ残されていた西の郊外に移り住んだのが、ちょうどその頃に当たります。半世紀近くを経た今、極度なまでに都市化がすすみ、びっしりと隙間なく住宅が建ったその街並みも、当時はまだ、延々と連なる水田、椚や楢の雑木林が、そこかしこに残っていました。そこには、幼い好奇心を満たしてくれるだけの様々な生き物が、自然環境とともに、日々の生活の身近に暮らしていたわけです。幼かった私が、その中で、なぜ虫に関心が向き、描くようになったかは、今となっては知る由もありません。しかし、誰に導かれたわけでも、教わったわけでもないままに、言うなれば、自然発生的にそれらに指向していったのは、やはり、幼な子の手の届くところに虫がいたからではないか、ひとえに、そうとしか考えられません。すぐそこに自然が存在していなければ、今の私はきっと、昆虫と深く関わることもなければ、その絵を描くこともなかったでしょう。

 

虫たちの記憶

 先にも書きましたが、すでに当時の記憶の多くが失われている中で、「虫」の記憶だけは、それらと出会った折々の情景とともに、今もなお、私の脳裏に鮮やかに刻み込まれています。幼稚園の室内にしばしば迷い込んできたカトリヤンマの、吸い込まれるような複眼の美しさ。茶色の羽のアブラゼミばかりの川崎にあって初めて手中にした、当時は珍しかったミンミンゼミの透明な羽への新鮮な驚き。朝、団地中を回って、前夜の灯りに飛んできたシロスジカミキリを得たときの、艶かしい淡黄色の斑紋と、重々しい鳴き声への感動。住宅地の中ですら、群れをなしていたオニヤンマの摂食飛翔の雄大さ。崖の土くれから、初めてのマイマイカブリを引きずり出した瞬間の喜び。一向に同じ種類しか採れないクワガタムシに飽きて、ハチに目が向いた時、その種類の多さとともに、形や色模様の多彩さに驚嘆したこと……。記憶を辿り、掘り起こしてゆけば、それぞれの虫たちとの初めての出会いが、次々に蘇ってきます。ただ、それらの多くの虫たちが、その土地からはとうの昔に消え去ったものばかり、という事実を前に、遥かに過ぎ去った時の早さには呆然とさせられます。そしてまた、よき思い出が呼び起こす懐かしさや郷愁は、私の胸をいたく締め付けるのです。

 

虫を描き始める

 幼稚園に上がった私が描いていた虫の絵は、自分で書くことにはばかられはしますが、すでに、かなり芸が細かいものでした。昆虫の足の先で細かな節に分かれる「附節」まで描いていたのを、年長組の同級に、驚かれた記憶があります。以来、私の「日々の行い」は、ただひたすら虫の絵を描く、との一事に尽くされるようになりました。それは三度の食事の間であれ、学校の授業中であれ、倦むことなく続けられました。病に苦しむ私が、夢中になれるものがあるならと、親は傍で見守りながらも、ともに虫を楽しんでもいたようですし、虫好き、絵描きが知れわたっていた学校でも、周囲から誉められこそすれ、咎められることはなかったのは、幸いでした。絶えず鉛筆を握り続ける私の右手、殊に力を込める親指は、長年に渡って圧迫され続けたために伸びず、その名残は、左よりも約一センチも短い、という勲章(?)となって今に残っています。しかし如何せん、昆虫は小さいばかりでなく、その動きも素早い。したがって、実物を何とか筆写しようと努めもしましたが、当時の私の絵とはもっぱら、図鑑の絵や写真などを、拙くも模写するだけに留まらざるを得ませんでした。しかし幸いなことに、当時の学習図鑑、例えば、古川晴男・中山周平 著「新学習図鑑シリーズ2 昆虫の図鑑」(小学館、1969年)といった本には、昆虫の複雑な体の造りを、正確かつ懇切に描いた挿画が多く掲載されていたものです(有藤寛一郎さんの絵などが、その代表格でした)。それらを筆写することは、知識に飢えながらも、何らの術も持ち併せない一人の子どもにとって、どれほど大きな窓、そして学びになったことでしょうか。
 しかし、私が現在、もっとも力と情熱とを傾注している「標本画」に出会い、目が啓かれるのは、まだ当分先のことになります。その出会いについては、追い追いしたためてゆくことになるでしょう。

 

アブラゼミ(小学校三年生のときに描いたもの) ©川島逸郎

 
 

ウバタマムシ(小学校三年生のときに描いたもの)。本連載を始めるに当たって、当時の絵を引っ張り出してみたが、今にして改めて見返すと、回想していたほど、上手く描けてはいない。 ©川島逸郎

 

 

(第1回・了)

 

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次回:2021年10月6日(水)掲載予定