虫を描く私――標本画家のひとりごと 川島逸郎

2022.10.26

19小さな蜂と、先人の仕事とに挑む

 

ある小さな蜂

 数多の昆虫の中で、私がもっとも好きなものは何かと問われれば、それは間違いなく蜂であると答えるでしょう。その習性や生活ぶりの多様さもさることながら、ひとえに、その色彩や斑紋、形態の多様さに惹かれるからです。

 膨大な種類数を擁する仲間ですので、取りもなおさず、上に挙げたような特徴の多様さを、その分だけ持っていると言ってもよいでしょう。私の虫の好みは、その珍しさではなく、描画欲を掻き立てられる特徴をそなえているか否かに掛かっています。描き甲斐、とでも言い換えられるでしょうか。ここに挙げるキアシブトコバチも、そんな虫の一つでした。

 体長はせいぜい5ミリ内外の小さな寄生蜂ですが、きわめて硬く頑丈な造りの体をもち、その表面には細かな点刻が整然と並ぶほか、緻密な表面構造もそなえています。全身は黒づくめですが、脚には鮮やかな黄色い斑紋があるのが印象的です。そんな顕著な特徴をもった小蜂ですが、珍しい虫ではありません。私たちの身近にごく普通にいて、木立や草やぶさえあれば、都会の緑地公園だろうが自然豊かな野山だろうが、どこにでも見られるような蜂なのです。ふとある時、私がこの蜂を描いてやろうと思い立ったのは、上に述べた特徴のそれぞれがとても描き甲斐があるように感じたこと、ごく普通の虫であること、そこに加えてもう一つ、とても大きな動機がありました。それは、ある先人の絵を目にしたことがきっかけでした。

 

先人の仕事に挑む

 若かりし頃から、昆虫の分類学的あるいは形態学的な論文を数多く目にしてきました。そこには、実にさまざまな手描きの標本画(解剖図を含む)が掲載されていたのです。人の手で描かれるものでしたからどうしても巧拙はありますが、中には標本画の枠にとどまらない優れたものもありました。私は、肝心の本文を読むことすら忘れ、日々、ため息をつきながらそれらの挿図に見入ったものでした。それらが、一般の方々の目には触れることなく、今も世の中のどこかで埋もれているのは、とても惜しい事に思えます。

 そして、研究者自身が手掛けた図に優れたものが多かったのは、強烈な印象で記憶に残っています。標本写真を撮ることも今ほど簡単ではなかった時代、研究者たちもまた描画が達者だったのです。

 それらを眺めていてまず気付かされたのは、標本画はとても実用的なもので、何を示して伝えるものか、描かれる目的がきわめて明確であるという事です。見る側の自由な感性にも任される絵画とは、そこが決定的に異なっていました。しかし、自己主張を抑え、実用性を踏まえた絵作りに徹したはずなのに、描き手の情念が一画面に凝縮しているのが伝わってくるのです。原画にせよ、絵としてはさして大きくはないものでも、それらを目の当たりにしたとき、その繊細さとともに「これが人間の技か」と胸に迫り来るものがありました。今や、用途や効率を求めれば、コンピュータで描画すれば事足りる時代なのでしょう。ですが、今にして、私が手描きの標本画に固執する理由は、先人たちのように自分自身の手技をどこまでも極めたいことに加え、肉筆の画面にのみ色濃く漂う、生身の人間臭さに惹かれるからに他なりません。

 Habu (1962)*によるアシブトコバチ類のリビジョン(再検討的な論文)は、そのように感じた存在です。本文中に挿入された多数の線画(部分図)に加えて、巻末には19枚の図版(プレート)が付けられています。プレートは彩色およびモノクロで、部分図もありますが、虫体全体を描いた「全形図」も多く掲載されていました。しかも、それらの一つ一つが単純な線画ではなく彩色あるいは点描画で、その緻密で優れた描写には驚かされました。論文のボリュームも相当なものでしたが、これだけ多くの全形図を揃えるのは、大変なエネルギーが要ったはずです。酷似した多くの種類を描き分けるには、研究者としての目も伴っていなければ為し得なかっただろう、とも思わざるを得ません。

 これらの画が常に脳裏にあった私がアシブトコバチの実物を手にした瞬間に、「あの絵を超えてやろう」と思い立ったのは必然であったかもしれません。14年前に手掛けたキアシブトコバチの画(図)は、見返すとすでに拙さを覚えますが、例えば、点刻の数やその密度の正確さ一つをとっても、その決意のほどが描画面の隅々に現れていることが見て取れます。

【図 キアシブトコバチ もっとも身近な寄生蜂の一つで、さまざまなチョウやガに寄生する。時には庭先にもやって来るが、その小ささから、それと知っていなければ見過ごしてしまうだろう。ただ、硬く堅牢な体や、微細かつ緻密な表面構造は、どこか惹かれるものがある。2008年制作 ©川島逸郎】

 

絵画へと向かわなかった理由

 先に、標本画と絵画の違いについて、私なりに思うところを書きました。私は、もとより「虫(生き物)」と「絵」の二つが最大の関心事で、描くことが三度の飯より好きな子どもでしたので、絵画を見ることにも興味はありました。幼少のみぎり、美術館に博物館、動物園の集まる上野へ一体何度足を運んだことか、今となっては定かではないほどです。

 展示を観覧するほかにも、我が家にあった美術関連の雑誌や本を眺め、有名無名の絵画作品に日常的に触れていました。が、私自身は、日々描きながらも絵画の世界に熱中することはなかったような気がします。好奇心の向く先が、絵だけでなく虫を始め非常に多岐にわたっていたためかもしれませんし、生来の天の邪鬼な性(さが)からか、「すでに沢山の人がやっている世界へ、自分がゆくことはない」と思ったのかもしれません。後年の大学進学の際も、美大を受験しようとの考えには及びませんでした。生物学といった学問を修めるには独学だけでは限界があるだろうが、絵を描くという行いには独学も許容される自由さがあるはずだ、との感覚もありました。

 自然関連の雑誌で時として組まれる動物画の特集も、もの珍しさに興味を持って眺めはするのですが、「(自分が求める世界とは)何かが違うな」と、深入りすることはありませんでした。とりわけ外国の生態画の中には、生き物それぞれの実物感や生態のありさまを実に上手く描写している、と感じさせるものが多々あったのは事実です。しかし、そこに一定の技巧を感じ取れたとしても、どういうわけか、その先へは入れ込めなかったのです。それよりは、描かれた対象の精神性まで感じさせる肖像画や人物画の名作の方が、それを描いた人間技の生々しさとともに、私の心の深奥に届く何ものかがありました。そのような感覚は、今現在もさして変わってはいません。上手く表現はできないのですが、絵において私の琴線に触れるかどうかは、描かれている対象への私自身の嗜好とはさほど関わりはないようです。描画面に色濃く滲み出る、ものを創り出す人の情念や人間世界にこそあるのかもしれません。私は、絵の描き方を誰からも教わってはいませんが、先人の優れた絵の数々を見つめ、模倣に模倣を重ねたその先に成立したことは疑いようがありません。それを振り返るときはいつも、私の標本画もまた、多くの先人の仕事の上に立っているのだと、感謝とともに想わずにはいられないのです。

 

*Habu, A.(土生昶申), 1962. Fauna Japonica. Chalchididae, Leucospididae and Podagrionidae (Insecta: Hymenoptera). 232 pp., 19 pls., Biogeographical Society of Japan, Tokyo.

 

 

(第19回・了)

 

 

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次回は2022年11月23日(水)に掲載予定