虫を描く私――標本画家のひとりごと 川島逸郎

2024.1.17

29蟷螂の斧 カマキリと私と

私の中のカマキリ

 このWeb連載もついに今回で最終回を迎えることとなりました。長年にわたって昆虫を描き続けてきたその分だけ、それぞれの虫たち、また描くことにまつわるエピソードや去来する想いがあったものだと、我ながら感じ入るものがあります。そして、それらを文字に綴ることは、立ち止まって自分の仕事を振り返るのにまたとない機会になりました。その掉尾を飾る画題には、カマキリを選んでみました。子供の頃からとりわけ親しんできた虫の一つです。どういうわけか、巷間で目にしてきたカマキリについてのエッセイなどは「この虫だけは苦手」といった趣きのものが多く、好意的な心情が述べられた文章を読んだ記憶がありません。確かに、人間に対してもぎろりと睨みつけ、大仰に攻撃を仕掛けてくる虫は決して多くありません。挙動や気性の激しさが、人々の目に怖いものと映るのは無理もないでしょう。けれども、とりわけ虫好きな子供にとって、戯れあう遊び相手としてこれほど格好の虫はいません。幼い私にとってもそれは同じことでした。カマキリの中でも最も大きなオオカマキリは特に魅力的で、目一杯お腹の膨れた雌を見つければ、必ず室内に放し飼いにしたものです。産卵を控えてぱんぱんに膨れ上がったお腹は、側面に見える葡萄褐色の膜質部が張ってくるのですが、指先でそこに触れたときの柔らさは、何とも表現しがたい触り心地でした。そうこう日々を過しているうち、カーテンや壁などに大きな卵のうを産み付けるのが常でしたが、私の親兄弟はそうした事をとやかく言う人々ではありませんでした。少し変わった子供にとっては幸いだったと言うべきかもしれません。地面近くを歩くコカマキリは前脚の内面にあるきれいな斑紋に見とれたものですし、いつも樹の上にいるハラビロカマキリは、それよりはるかに大きなオオカマキリにも増して乱暴で力も強く、前脚の鎌で挟まれたときの痛さには散々閉口させられました。とは言っても、懲りもせず見つけるたびに捕まえてしまうのが、私の性(さが)でした。

 

ようやく描いたカマキリ

 しかし、カマキリを絵に描いた記憶はさして残っていません。虫好きな子供にとっては「格好良い」姿形の虫であることに相違なく、いかにも描き応えもありそうなものですが。はっきりと憶えているのは、学習図鑑のカマキリのページを見開きそのまま筆写したことくらいでしょうか。幼少時からの絵は今もなお、束ねて天袋に押し込めてありますから、その中を探せば残っているかもしれません。さておき、当時としては珍しかった生態写真だけで構成されていたその図鑑には、まさに野っ原での出会いが再現されたかのような、たくさんの虫たちの生きた姿態の一瞬が収められていました。それら一つ一つに付された、生態を活写したキャプションもともに筆写したということは、その斬新な紙面が、子供心にもよほど胸躍るものだったのでしょう。
 数年前にようやく、大真面目にカマキリに向き合ってみました。珍奇さよりも、その生活ぶりやそれに大きく関わる「形(かたち)」にもっとも心惹かれる私ですが、あまりに身近な虫たちの形のその細部まで観察しては来なかったことにはたと気付いたからでした。今更ながら瞠目させられることの多かったこの試みは一旦中断していますが、カマキリで気になっていた部分についても、いくつかの図を作ってみました(図①・②)。もっとも、際立った外見とは裏腹に決して描きやすい虫ではないことは、ある程度予想してはいたのですが。

 

カマキリを描く難しさ

 描写の難しい点は、大きく三つありました。一つは、その色みです。外皮そのものに色素が沈着している虫や、「構造色」と呼ばれる金属光沢をもつ虫は、まだ表現するのも楽なのです。が、カマキリの場合は体の大半で、外皮の色というよりも、その下を裏打ちするように色素細胞の層があるものか、バッタやキリギリスにも似た微かな透明感があります。要は、多少とも透明な外皮のすぐ下に透けて見えている色合いです。さらには、その色調が種類ごとに微妙に違うのです。同じ緑であれ、オオカマキリはオオカマキリの、ハラビロカマキリはハラビロカマキリに独自の緑です。以前に手掛けた折りは前者を描いてみた(図①)のですが、草色とでも言おうか、どことなく沈んだその色調を再現できているとは言えません。できる限り自然に近い色を作るのに、相応の時間と手間とを掛けるべきでした。いつか再挑戦してみようと心に期するものがあるのは、そうした蟠りをいまだに引きずっているからでしょう。

【図①オオカマキリの顔と大あご】カマキリの部分で真っ先に気になったのは大あごです。捕まえた虫をばりばり噛み砕く様子からの思いつきでしたが、その先端は大して鋭利でもなかったのは意外でした。ただ、その奥に潜む臼歯部は「Z」の形の隆起であることまでは予想していませんでした。2019年制作 ©川島逸郎

 

 二つ目はひじょうに細かく枝分かれした翅脈をもつ後翅(図②)で、描写にどれほど難渋させられたことでしょう。カマキリに類縁の近い、ゴキブリの後翅を描くに当たっての困難は第25回に書きました。類縁の近さからその造りも似通っているので、描く難しさも変わりがないのは当然と言うべきでしょうか。とりあえず現物を厳密にトレースすればよいとは思えど、翅脈についての知識の乏しさは、描きながらも常に不安の種として付きまといました。種類によっては、その細かな翅脈に加え、それにも関連した複雑な斑紋が加わります。翅の全面に広がる美しい斑紋をもったオオカマキリは、描くのに苦労させられるカマキリの代表でしょう。この斑紋については色みも含めて、ある程度は納得のゆく描写ができたと思えた一方、翅膜の煌めきはどこか説明的な表現に留まり、今後への課題を残しました。

【図②オオカマキリの後翅】普段は前翅の下に畳まれて見えない後翅こそ、カマキリの隠れた見どころと言えるでしょう。そこに現れる斑紋は種類によって大きく異なるので見分けにも役立ちます。観察会で翅を広げて見せると、その美しさに大きな歓声が上がるのが常です。私にとっては、それを描写するだけの鍛錬がまだまだ要ることを自覚させられましたが。2019年制作 ©川島逸郎

 

 三つ目は描画技術というよりも、この虫独特の姿態です。いわゆる生態画であれば、生きた自然な姿そのままに描けば良いのですが、こと標本画での全形図の場合は背面から正対し、かつ標本のように展脚を施した状態で示すのが通例です。ところが、カマキリはどうもその姿に仕立て難いのです。中、後脚はさして問題はありません。ただ、あの前脚だけは基部からして下を向いているので、描くにも側方に拡げるのはどこか無理があり、不自然さが拭えません。もっとも、古くからお馴染みのチョウやガの展翅された姿にせよ「自然」な姿形ではないわけですから、こうした辺りは、カマキリでも割り切るべきところかもしれません。

 

故事「蟷螂の斧」に想う

 今回は、新たに全形図を描き下ろすことにしました。当初は、最も大きく立派なオオカマキリを再び取り上げようと考えていましたが、趣向を変えて、最も小さな種類であるヒナカマキリを描くことにしました。成虫でも体長は二センチにも満たないばかりか、翅も短く退化してしまっています。ごく小さい上に体の色は地味な褐色で、緑色の個体はいません。さらには、全身に装ったまだら模様は周囲の環境によく溶け込むので、地面近くをちょこまかと走り回っていても、見つけるのは中々大変です。虫好きはともかく、一般に知名度は低いことでしょう。であればこそ、ここにその姿を図示する意味もあろうというものです。

 体型は元より、全身に散りばめられた斑紋はどれも不定形です。ただ、前胸の正中では太い帯になるなど、ごく微かながら法則性が潜んでいることも察せられ、それを見極めねばと心しながら描きました。その和名のとおり、どこか愛らしさを感じさせるこの虫に向き合っていると、どういうわけか「蟷螂の斧」との言葉が頭に浮かびます。前脚を目いっぱい振り上げて大きな車に立ち向かうカマキリ −−そんな故事成語が連想されるのは、その小ささも相まってのことかもしれません。そして、この言葉を浮かべるときは必ずや、カマキリに右手一つで描き続ける自身の姿を重ねるのが常です。デジタルあるいはAI云々と喧伝される激動の現世にあって、今なお、手作業の肉筆でものを生み出さんとあがく我が身が投影されて見えるからかもしれません。

 

【図③ヒナカマキリ(雌成虫)】オオカマキリを筆頭に、翅をもつ種類が一般的なイメージでしょうが、あえて翅のない小型種を取り上げてみました。一般にはこのカマキリの存在は知られていないでしょうし、その小ささも相まって、ちょこまかと走り回る姿も薄暗い森の中では目立ちません。ですが、その細やかな斑模様にはどこか心惹かれるものがありました。縦棒の長さは5ミリ。2023年制作 ©川島逸郎

 

 私の描いている標本画はまさに「黒子」です。華々しく表舞台に現れ出て、世人の目に触れることはまずありません。自然科学という文化の一端を密やかながら担うことが、その役回りです。ですが、それこそまさに私の拠って立つべき場所と心得てもいるのです。何より、私の性分に合っています。一方で、人間の手技の凄みとはどれほどのものか、それが異文化、国境を超えてもなお通じる普遍性をもつまでに極めたものであるなら、いつか世界のどこかで誰かの目に留まる日もまた、来るだろうと確信している私もいます。人間が自らの手で読み書(描)きすらできなくなり、産み出されたあらゆるものが生身の人の手によるものと素直に信じられなくなる未来は、すぐそこまで迫っているようです。それは、人間社会を幸福たらしめ、満ち足りたものにしてくれるのでしょうか。私自身も生きた時代の仕事やその精神を、消え去りゆく郷愁をもって振り返る日がやって来るような気がしてなりません。

 それでは、いつかまた「どこか」でお会いしましょう。

 

 

(第29回・了)

 

 

画集『虫を観る、虫を描く 標本画家 川島逸郎の仕事』が発売中です。
本連載は今回で最終回となります。ご愛読ありがとうございました。
書き下ろしを加え、単行本化予定です。