虫を描く私――標本画家のひとりごと 川島逸郎

2022.2.9

10「線引き」の高い壁

 

一本の線とその表現

 絵を描く。それは、線を引くことから始まるものです。幼少時の私もそうでした。「線」は、人が手で書く/ 描く行為の中でも、もっとも根源的な要素でしょう。

 点描画を構成する「点」と「線」、描くのに技術を要するのは、圧倒的に「線」であると私は感じています。線は基本的に、震えたり揺らいだりと乱れることのないように、一定の速さで引くものです。しかし、これが難しい。直線であれば直線定規が使えますが、そうは問屋が卸しません。なぜなら、生き物の体にはおよそ「直線」がないためです。昆虫では、甲虫の左右の硬い上翅が接する会合線くらいなものでしょう。色々な形の曲線定規もありますが、それらで引いた曲線はどうしても人工的で限定的な仕上がりになりますし、自然物での多様さには劣ります。虫体の描写で使える場面は自ずと限られ、多くをフリーハンドで引いています。こうした「自然の」線を引くには、下絵の段階で実物を再確認し、内径0.2または0.3ミリのシャープペンシルで線を慎重に決定してゆきます。より細い前者のシャープペンシルでなければ、厳密に決めることができない場合も多いのです。その上から製図ペンでトレースして墨入れするわけですが、ここでわずかでも軸線を外してしまえば、実物とはどこか違和感のある曲線になってしまいます。

 線引きが一瞬の気の緩みも許されない作業と言える背景には、こうした一面が伴うからです。ですが、仮に多少の乱れがあったとしても、点描を加えて細密な画面になってゆくほど、そうした粗は隠蔽されて目立たなくなります。それゆえ、線だけで構成された線画のほうが、実は高い技術が求められるかもしれません。シンプルなだけに、逆にごまかしが利かなくなるのです。

 

線だけで表現できる三次元情報

 若い頃の私は、線の表現の幅の広さや可能性について深く考えていませんでした。そのことは、当時の絵に如実に見て取れます。私がしていたのは単に、「下描きに墨を入れる」行為でした。すべて単一の細い線で引かれているために抑揚もなく、きわめて平板です。描いているのがただの薄っぺらな板ならまだしも、立体性に富んだ構造物なわけです。高さや厚み、重なりの上下関係といった三次元情報を、当時の線では表現できていませんでした(図①)。

 

【図① ヒゲボタル属の雄交尾器 筆者が、初めてとなる新種記載を行なった際に添付した挿図。すべての線は単一の太さのペンで描かれているため、外形はともかく、立体構造(三次元情報)が十分に表現し切れていない。また、対象物に固有の形状を端的に示すという図の目的からして、描き込む必要のない雑情報も加えられている。1998年制作。 ©川島逸郎】

 

 シンプルな線画であれ、点描からなる全形図と同じように、光の照射を念頭に入れた相応の処理を行うと、立体構造(三次元情報)を十分に表現し得る。そう気付いたのは、かなり後になってからのことです。例えば光の照射が左上から当たっている(右利きの私自身が描きやすいように)と想定した場合、その反対側になる右下寄りの線を太くすれば陰影を示せます。立体構造を併せて表現できるという、ごく簡単な視点だったのですが。そのことに気づいてから、図①と同じ仲間のホタルの雄交尾器を再び描いたものが図②です。線引き自体も美しく向上していますが、位置によって太さを変えることで、何とか立体感を表現しようと試みていることがお分かりいただけるでしょうか。もう一枚、クロオオアリを描いたものを掲げておきましょう(図③)。側面から見ると分かりやすい外形上の特徴について、線の太さを変えながら示しています。

 

【図② ヒゲボタル属の雄交尾器 図①を描いてから4年後、同じ仲間の新亜種を記載するに当たって制作した図。線引きそのものが向上し、より美しい線になっているとともに、位置によってその太さを変化させることで陰影を付け、立体感が高められていることが分かる。また、図示する目的からは外れた雑情報も省いている。2003年制作。©川島逸郎】

【図③ クロオオアリ 私たちの身近に見られるアリの一つ。アリは側面側から見た場合に形態的な特徴が見やすいことから、側面図を作った。三通りの太さの線で形の情報だけを示し、それ以外の特徴は思い切って省く。仕上がりこそ簡単な線画だが、スケッチの段階で部分ごとに適切な角度から形を取らなければならず、それら多くを後から一体に合成するなど、見た目以上に多大な手間が掛かっている。2018年制作。 ©川島逸郎】

 

 立体的に重なり合った構造を表現するためには、他にも色々な手法があります。複数の構造物が上下に重なっている場合、下位で隠された部分を多様な点線を駆使して示すのは常套手段ですし、上にある部位の縁から下になった部位が突き出して見える場合などは、上下の部位の線が交錯あるいは接した部分で、下位のそれを抜く(=少しの間を空ける)小技を使います(図④)。こうした些細な処理ひとつで、上下の部位を隔てた距離感も表現できるのです。

 

 

【図④  「抜いた」線(上・下)
 複数の物体が上下関係にある部分では、下位になる線の接点を抜く(間隔を空ける)といった処理を施すだけで、線画でも立体構造の位置関係(三次元情報)を示すことができる。ここでは、ツシマヒメボタル雄の小あごひげ(一部)(上)とヤクオオオバボタルの雄交尾器の図(一部)(下)を例に示した。2019年制作。 ©川島逸郎】

 

究極の線引き

 今生では納得できるレベルに到達できそうもない線引きに、「二本の線によって、一本の毛を描く」があります。二本の線を徐々に収束させてゆき、鋭くしなやかな先端を持った一本の毛に仕上げるのです(図⑤)。曲線定規では追い切れぬ自然の曲線はこのようにして描きます。ただ一本の線を引くことすら難しいのに、二本を滑らかに近づけ、か細く宙に消える先端に終結させる。いつの日か、奥義と呼べるところまで熟達できればと描き続けてきましたが、こればかりは果たせぬまま終わるのかもしれません。

 

【図⑤ ゲンジボタル幼虫の頭部(部分) 触角(左)やその先端の感覚器、大あご(右)を示している。中でも、大あごの背面に並んだ毛の列は、顕著な特徴のひとつ。それらの曲がり具合は一定ではないため、フリーハンドで一本ずつ描いてゆく。2021年制作。 ©川島逸郎】

 

 

(第10回・了)

 

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本連載は隔週更新でお届けします。
次回は2022年2月23日(水)に掲載予定