虫を描く私――標本画家のひとりごと 川島逸郎

2022.6.22

15忘れられない失敗

 

信じがたい失敗

 三十年以上にわたって標本画を描き続けてきた間には、あまたの間違いも犯してきました。大きなミスこそさすがに減りましたが、それでも、未だ完全に無くすことはできていません。今回は、その中でも最大、痛恨の失敗を語りましょう。

 長年の経験の賜物で、過ちがあったとしても微細な修正で事足りていたのですが、最近、我ながら信じがたいほどの重大な誤りを犯してしまったのです。それら、誤った図と修正後の図とを並べてみます(図①)。どこに誤りがあったかは一目瞭然でしょう。そう、腹部の体節を1節分、余計に描いてしまったのです。私は全形図の下図を作るに当たって、部分ごとに取ったスケッチをまずはトレーシングペーパーに写し取り、それをさらに本画用紙に転写します。その際に、同じ体節を二重に継ぎ足してしまったわけです。

【図① オキナワクシヒゲボタル幼虫の全形図の二態(左:修正前・右:修正後)】

 10節あるホタル科幼虫の腹部腹節のうち、先端の第10節はごく短いか小さく、第9節に隠されて上面からはほとんど見えない。信じがたいことに、その腹節の数を誤っていた。スケッチを転写する際に、同一の節を二重に継ぎ足してしまったのだが、明らかに注意力が散漫だったため。左はオリジナルの状態で、右は雑誌の編集者が余計な1節を電子的に除去して下さったもの。2017年制作。 ©川島逸郎

 

 ホタル科の幼虫の腹部は10節からなりますが、末端の第10節は小さく短いので、第9節に隠されて上からは見えません(図②)。したがって、背面からは9節分が見えることになります。何らかの誤りがないか、ひとわたりのチェックを行うのがルーティンの流れです。私の過ちは、体節の数を間違えるという、もっとも基本的な確認を怠ったために起きたものでした。日頃の疲労が蓄積して集中力を欠いていたなら、やはり、ここで一息を入れるべきだったのです。大きな過失とは、こうしたちょっとした油断の中にこそ潜んでいることも、重々承知していたはずなのに。

【図② オキナワクシヒゲボタル幼虫(全形図)】

 出版物へは、この状態で印刷公表された (Kawashima, 2017)。2017年制作。©川島逸郎

 

防げたはずの失敗

  また、痛恨の、とまでは言わないまでも結果的に犯してしまった、そういうタイプの過ちもあります。次に挙げるベトナム産ムカシヤマイトトンボ科の幼虫(ヤゴ)の絵は、その一例です。

 イトトンボやカワトンボの仲間は、腹の先に3枚の「尾鰓(びさい)」を持ちます。描くに当たってアルコール漬けの標本を元にしましたが、生きた自然な状態の知識は私にはありませんでした。が、この仲間の多くがそうであることもあって、私はこれら3枚をお互いに離して描きました(図③)。過去に二つあったこの仲間の幼虫記載のうち、より信頼できそうに見える図でも、そのように描かれていたからです。つまり私は、先人の絵に無批判に引き摺られてしまっていたのです。

 加えて、その論文の著者が、トンボ分類学において世界的な大学者であったことも、私の鵜呑みにいっそう拍車を掛けました。あの偉大な学者が、間違えているはずはなかろう、と。

  しかし、本当はそう描くべきではなかったようです。生態写真で生きた状態を見ると、3枚のうち左右の一対は閉じられ、より小さな中央の鰓(図④)を包み込んでいました。参考にした過去の記載のもう一方は、粗い図でしたが鰓は閉じており、その点は正確に描かれていることが後から分かりました。参考にした標本を振り返っても、左右一対の鰓はよく色素沈着した褐色でしたが、中央の鰓だけはそれがなく乳白色をしていました。つまり、普段は包み込まれて外側には露わになっていないことを示しているわけです。私は、こうした事柄を十分に察することができたはずでした。

【図③ ベトナム産 Rhinagrion hainanense 終齢幼虫】

 ムカシヤマイトトンボ科 Philosinidaeの1種。腹部の先端には3枚の尾鰓がある。この仲間の幼虫は、過去に二度にわたって記載されている。最初の報告での図は全体的に鮮明ではなかったが、尾鰓は閉じて描かれていた。次の報告のものは鮮明で、尾鰓の各々はお互いに分離させてあった。生きた自然な状態を知る術がなくアルコール浸けの標本を元に描くしかなかったとき、参考にしたのは後者だった。2010年制作。©川島逸郎

【図④ ベトナム産 Rhinagrion hainanense 終齢幼虫の尾鰓】

 幼虫の腹の先にある尾鰓を側面から描いたもの。一枚の中央鰓(下)を、一対の側鰓(上)が左右から挟んでいる。これら白黒の図からは分からないが、中央鰓は色素の沈着がなく白い一方で、側鰓は褐色をおびている。中央鰓だけ色素の沈着がないということは、普段は側鰓に包まれているであろうと想像できたはず。だが、描画中にそのことに思い至らなかったのは、明らかな経験不足である。2010年制作。©川島逸郎

 

過失を、その先への糧に

  このような描画上の大きな失敗とは、画家本人からすればもちろん、世上に晒す気分にはなれません。ですが、この機会にあえて出すことにしました。反省と検証とを通して自らを律することによって、観察力をいっそう深めることに努め、更に精度を増した描画を生産するための糧にしたい、との強い意志があってのことだからです。

 ひとたび印刷された図も、形(モノ、現物)として後に残る絵も、もし描写に誤りがあった場合は、それも含め後世に遺ることになります。それだけに、描き手には、対象にいかに向き合っているか、ごまかしでは逃げられない真摯な描写が問われるでしょう。たとえ印刷用に描かれた原図ではあっても、出版後はただの用済みになるわけではないと、私は昔から考えていました。もし、原画自体が優れたものであれば、必ずや「絵画作品」として、別の意味や価値も伴ってくるだろうと確信していたからです。電子的に修正がなされ、印刷の上では誤りを避けることができた絵であれ、手元に残った原画に手ずからの修正を加えずにはいられなかった(図⑤)のは、そのような思いからでした。

 いつか再び、何らかの失敗をしてしまうことがあるかもしれません。もとより、完璧を期すことは究極の目標に違いありません。ですが、失敗を恐れることなく、困難な対象に果敢に挑み続けることこそが私の絵を生み出す原動力と、改めて心に誓っています。

 

【図⑤ 「修正」のありさま】

 図①の説明に述べたように、印刷上は、電子的に処理された画像を掲載されることで解決したが、根本的に誤った原画を遺す気にはなれず、事後に処置を行うことにした。二重に描いた体節は、思い切って裁断することを決断する。どう処理すべきか思案したのち、デザインナイフで慎重に切り落としておいてから、その前後を繋ぐことにした。2017年の出来事。©川島逸郎

 

 

(第15回・了)

 

画集『虫を観る、虫を描く 標本画家 川島逸郎の仕事』が発売中です。
本連載は月1更新でお届けします。
次回は2022年7月27日(水)に掲載予定