虫を描く私――標本画家のひとりごと 川島逸郎

2022.7.27

16蜻蛉の尻尾を描き続けた日々 〜『日本のトンボ』図版制作秘話〜

 

始まりは生態写真集から

 日本に分布あるいは記録のあるトンボ全種を紹介した拙著『日本のトンボ』は読者に支えられ、2012年の初版以来、2022年で改訂第二版を重ねるまでになりました。それまでの日本のトンボの図鑑は「大図鑑」が多く、大判であることから使い勝手には制約がありました。コンパクトな判型も相まって、本書は専門家やトンボ愛好家のみならず多くの読者層から受け容れていただいているようで、何より嬉しく感じています。

 実は、当初は大掛かりな生態写真集を考えていたのでした。デジタル写真隆盛の今でこそ昆虫の生態写真を撮影する人はたくさんいます。しかし、三十年ほど前、フィルム(銀塩)の時代は、撮影者の数ははるかに限定的であったように思います。そうした中にあって、「トンボ屋(=トンボ愛好家)」には、ネットにカメラ、すなわち捕虫網での採集と写真撮影を両立させている人が比較的多くいました。その理由を考えてみると、生きたトンボの色味や瑞々しさは乾燥標本では失われやすく、その美しさを残すことが難しかったからでしょう。カラー写真の発達とともに、その美麗な色彩を捉える撮影がとりわけトンボ屋界隈で普及していったのは、当然な成り行きだったのかもしれません。

 トンボの生態撮影の世界では、産卵のために叩いた水面の波紋や、飛ばした水滴の中に卵が写り込んでいなければトンボ写真家仲間には認めてはもらえない、といったこだわりの境地にまで達していました。凄腕トンボ写真家たちによる、そうした成果の蓄積を踏まえて、生態写真集を企図したわけです。

 しかし皮肉にも、デジタルでの撮影人口の激増によって写真そのものに新鮮味がなくなったせいか、「今や写真集では売れないので、ハンディな図鑑形式に」との意向が出版社側からもたらされたのでした。もし図鑑形式ともなれば、写真の他にも種(しゅ)の見分け(同定)のための部分図を付けねばなりません。これは大仕事になる、当分はトンボの尻尾を描き続けることになるぞと、私はここに至って覚悟を決めました。

【図① モノサシトンボ科の頭部(背面)と胸部(側面)】
種類ごとに細かく異なるモノサシトンボ科の頭部と胸部の斑紋を示したもの。描いた乾燥標本は、褪色はしても、黒い地色部分の形状や範囲に変化はない。2011年制作。 ©川島逸郎

 

全種を網羅した部分図制作に向けて

 トンボの近縁の種どうしはとりわけ似ているものが多く、ベテランのトンボ屋でもない限り見分けられません。しかし、図鑑とあらば、種の見分けに便利で確実な同定ができる内容を目指さなければなりません。これこそが図鑑の生命線だからです。一般の人々が手にして活用する図鑑であれば、なおさらここに注力すべきでしょう。

 デジタルでの標本写真はひと昔前では考えられないほど鮮明な時代になりました。が、そこから何をどのように読み取るか、そのジャッジが案外難しいのです。その点、必要最小限の情報を抽出し、単純化した線画であれば、それが一目瞭然です。雑情報をすべて省き、必要最小限の線だけで描いた方が、特徴のそれぞれをひと目で伝えやすいからです。そこから、部分図を線画で描くことが自ずと定まりました。

 さらに利便性を高めるためには、日本に分布する、あるいは記録されたことのある種類を網羅する必要がありましたが、その多くを、自ら採集し標本として手元に保存していたことがここで大いに役立ちました。どちらかといえば成虫よりも幼虫(ヤゴ)が好きな上に、コレクター癖も持ち合わせていない私ですが、手元には曲がりなりにも標本資料が蓄積されていました。この時ほどこれらに助けられたことはありません。兎にも角にも、年中無休でトンボの標本と睨めっこし描画に励む一年間が始まりました。

 一体、どれだけの点数の部分図が必要になるのか? 着手の時点では明確だったわけではありません。ただ、単純に考えても日本産は約200種。同定のポイントとなる雄の尾部附属器は複数の角度からの図が欲しいですし、雌の産卵弁の図も欠かせません。「赤とんぼ」の代表であるアカネ属では、胸の側面の斑紋も必要でしょう。そうした事柄をつらつらと思い浮かべると、トータルで描くのは7800点にはなるのではと踏んでいたのですが、2022年の改訂第二版では、実に1055点に達することとなりました。

【図② サナエトンボ科の尾部附属器(側面)と産卵弁(腹面)】
種の同定に当たり、色彩斑紋とともに重要なのが各部分の形態の違い。ここでは、種ごとの違いが現れやすいサナエトンボ科の雄の尾部附属器と雌の産卵弁を示した。2011年制作。 ©川島逸郎

 

標本との格闘を経て

 顕微鏡の下、描くべき角度に標本を設置しスケッチを開始するわけですが、これが中々難しい。トンボの標本は基本的に、頭を左にした横向きに作ります。その際に、頭部は左に90度回転させて背面を上に向け、左右の翅は畳んだ状態で紙に包んで乾燥させます。頭部の背面、雄の尾部附属器や産卵器の側面を描く際は、横向きの標本を平らに寝かせた状態にすれば済むように思われますが、いざ拡大して覗いてみると、微妙に角度がついていたり、腹部が弱く捻れていたりすることが実に多いのです。「正しい」角度でトレースするためには、たくさんの昆虫針を使って設置角度を微調整してゆく羽目になります。また、産卵弁を腹面から描く場合、当初は考えもしなかった苦心がありました。翅を左右に広げた標本であればただ仰向けに置けば済みますが、上に述べたように、通常の横向き標本は翅が背中側に畳まれているので、腹面を見なければいけないときは、その突っ立った翅が邪魔して、設置にひどく苦心させられたものです。これまた、多くの昆虫針を支えに使って、何とか腹面を上に、垂直に立った状態にまで持ってゆかねばなりません。どうにも上手く立てることができないときは、随分といらいらさせられました。

 ですが、それ以上に困ったのは、「丁寧に作られた標本ほど、観察やスケッチがしにくい」ということでした。私も、若かりし頃は時間もあったためか、標本作製で内臓を取り除く際は、腹部の膜質の部分は、どこまでも丁寧に切り裂いていました。ところが、このように処理した標本は、その後の乾燥に伴い、産卵弁を含む腹側の板に歪みや傾きが生まれてしまうことが多く、正しい角度でスケッチがしにくいと言ったらありません。きちんと畳んでおいた脚にせよ、各節に並んだ棘などが重なり合って、かえって判別しづらいのです。これまで書いてきたことと相反しますが、標本作製に時間が取れず、いい加減に放ったらかしのまま日干しにしたような標本のほうが、かえって変形も少なく観察しやすいなどとは、それまで思いも寄らなかったことでした。

  これは描画(スケッチ)であれ調査研究であれ、根底は共通するものと思いますが、標本というものも、何をいかに観、また調べるのか、目的を先々まで見据えて作るべきものなのだなと、『日本のトンボ』の図版を制作する中で悟らされました。

 

【図③ トンボ科アカネ属の胸部(側面)】
 「赤とんぼ」の代表であるアカネ属は、胸の側面に現れる黒斑の違いに注目すると見分けやすい。胸の斑紋での識別図は、トンボ図鑑のいわば「定番」であったが、『日本のトンボ』の図は、従来の本よりも格段に正確、かつ精緻な出来栄えと自負している。2011年制作。 ©川島逸郎

【図④ イトトンボ科7種の雌の頭部斑紋(背面)】
イトトンボ科の種はお互いによく似ており、同定が難しい。体の斑紋や形態上のわずかな違いを示した図を多く掲げた。ここに挙げた7種は、雄のそれと変わりないことから初期の版では省略していた雌の頭部。完全を期すために、2021年の改訂版から追補することにした。2020年制作。 ©川島逸郎

【図⑤ 通称「スジボソギンヤンマ」の前額(背面)・尾部附属器(背面・側面)】
 日本産トンボの雑種でも有名な、ギンヤンマとクロスジギンヤンマとの間で生じる個体の特徴を示したもの。交雑個体は、親の2種のどちらともつかない中間的な特徴を現しているものが多い。それらのうち、頭部前額の紋様と、雄の尾部附属器の形態とを示した図。2011年制作。 ©川島逸郎

【図⑥ チョウセングンバイトンボの各部分】
 近縁種であるグンバイトンボとの違いが現れる、各部分の形状を示したもの。2021年にもなって、日本国内でも長崎県対馬に生息することが判明し、報文として公表された。そのため、2022年の改訂第二版から含めることになり、急遽作った図。2021年制作。 ©川島逸郎

 

(第16回・了)

 

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本連載は月1更新でお届けします。
次回は2022年8月24日(水)に掲載予定