虫を描く私――標本画家のひとりごと 川島逸郎

2022.9.28

18スケッチを通して、アリの体を学ぶ

 

ある昆虫画講座から

 私は以前、ある県の自然史博物館で昆虫担当の学芸員として勤務していたことがあります。同僚は私が昆虫を描く画家であるのを知っていましたし、特別展のポスターの絵を手掛けたりしたせいか、そのことは、博物館に出入りする市民にも伝わっていったようでした。いつしか、私に「昆虫画講座」を開催してほしいとの要望が寄せられるようになり、特別展の関連講座に始まり、博物館友の会主催の講座を仰せつかることとなりました。

 昆虫画の講座、と一口に言っても、これはなかなかの難題です。私が日頃描いているのは専門性を伴う標本(資料)画ですし、何よりも対象である虫の小ささは、こうした講座においてはネックになります。例えば哺乳類や鳥類のように、対象の全体を見渡しながら写生できるものではないですし、大勢で一つの対象を囲むこともできません。拡大して観察するにしても、昆虫の微細な体のつくりを細かく正確に把握するのは、ルーペによる簡易的な拡大では無理な話です。小さな対象を観察するためには、どうしても高い倍率の顕微鏡が欠かせません。ただ、そこは大きな博物館のこと、ありがたいことに講座や実習用の実体顕微鏡がたくさんありました。とはいえ台数には限りがあるので、それぞれ一台の顕微鏡を割り当てるため、受講者十人での開催となりました。

 

予備知識なしで観る

 さて、昆虫画については初心者である可能性が高い受講者の皆さんに、一体、何を描いてもらえばよいだろうか? これこそが肝です。身近で見慣れた存在であり、あわせて、観察対象として「見るべき形態」もそなえた虫はないか? さらには、それを描くのに一定の形態学的な知識も要る対象であれば理想的です。その理由はのちほど述べますが、私の脳裏にはある虫が真っ先に浮かびました。それが、「アリ」だったのです。

 私は、さっそく準備に取り掛かりました。受講者の全員が同じ対象に向き合い、観察結果をその場で共有できるよう、アリの種類は同じものに揃えることにし、採集に出掛けました。身近に見られる種類の中から迷わず選んだものとは、大型で観察しやすいクロオオアリ(図①)です。受講者全員に行き渡る個体数を確保したのち、観察および描画中も取り扱いやすいように、それらを標本にします。ただアリの体は、その小ささから直に昆虫針を刺せません。こうした場合、虫は台紙(厚紙の小片)に貼り付ける形式を取ります。あらかじめ台紙を針で刺しておいてから、その台紙上に、糊で虫体を貼り付けるのです。糊付けするさいは体の側面を上にし、横向きで観察できるように仕立てる必要がありました。なぜなら、注目すべき特徴の多くは、真横から見たときにもっとも明らかであるためです。予備も含めて二十個余りの標本を作るのはいささか手間ではありましたが、恐らくは生まれて初めてアリの体の隅々まで眺めることになるであろう受講者の反応を想像すると、どこか愉快な気分にも浸れるのでした。

 

【図① クロオオアリ 働きアリ(無翅のワーカー)の側面全形】 私たちが道端で普通に見かける、働きアリ(ワーカー)。彼女らの体格には大小の変異があるが、ここでは平均的な個体を示した。翅がないことは、誰しもが知っている通り。2018年制作。 ©川島逸郎

 

「答え合わせ」

 講座の当日、愉快な気分を抱きつつ作成した標本を各受講者に配布し、いよいよスケッチ開始です。どこが目の付けどころなのかは、講義の前段では説明しませんでした。本来、十分な予備知識を踏まえてものを観ることこそ正確に描くための正攻法なのですが、あえてそうはしなかったのです。まずは、目に映るそのままを「忠実に」描くように努めて頂くことから始めました。まっさらの状態から描き出すその姿とは、その「実態」をどこまで捉えたものになるでしょうか? ひとわたりの描画作業が終えてからの答え合わせの場で、それぞれの描き手の観察力が露わになるのです! 受講者の立場からしたら、何と意地の悪い講座だったことでしょうか。

 いかなる虫であれ、「見どころ」をそなえているものです。そうした中で私は翅をもつ女王や雄ではなく、それをもたない「働きアリ(ワーカー)」を取り上げることにしたわけですが、働きアリの「胸部(中体節)」は、体節の融合や部位の消失といった変化(改変)のありさまが明らかなためでした。

 昆虫の体には基本的な構造や法則性がありますが、多様な分類群の数だけ、その改変ぶりもまたさまざまです。しかしアリは、基本形を知っていれば、そこからどのように変化したかが一見して理解しやすい、格好の観察対象でもあるのです。例えば、「胸は3節から成る」「前脚は前胸から、中脚は中胸から、後脚は後胸から出る」といった法則性です。きっとこの講座は、じかにアリの体を眺めるまたとない機会であったに違いありません。図解(図②)を示しながら、ここでも述べてゆきましょう。

【図② クロオオアリ 働きアリの頭部および合胸(中体節)】 限られた時期にしか現れない女王よりも見慣れた姿。後出の図③と比較すれば一目瞭然だが、とりわけ胸部の形状の変化が分かる。飛ぶための筋肉(飛翔筋)を持たない分、その容量の減少に伴った形状の変化が、いかに大きく特異なものかが実感できよう。2013年制作。©川島逸郎

 

 まず前脚は、はっきり区切られ、可動もする前胸から出ています。では、中脚や後脚はどうか? それらが生えている区画は一つの塊になっていて、明瞭な境界線(縫合線)は見えないはずです。つまり、中胸と後胸は完全に融合してしまっているわけですが、脚の生える位置関係から改めて眺め直してみると、不明瞭ながらも二つの胸の区画の痕跡が見えてくるでしょう。さらには、中胸気門という呼吸孔が残っていることは、そこが中胸の範囲であることの証拠になります。後脚を出している後胸は、ぼんやりとした小さな三角形の一画として、狭く短く残っているだけであるのが見て取れますが、加えてもう一つ、妙な点があると気付くことができればしめたものです。

 3節から成る胸部の最後尾の体節は後胸であるはずなのに、その後方にまだ膨らんだ部分が付け足されていることにお気づきでしょうか。この部分は「前伸腹節」と言い、実は腹部の第1節です。つまり、見掛け上の「胸部(中体節)」は、実は胸部3節に腹部の第1節が融合した、ひと塊の函なのです。これは、アリも含まれるハチの仲間の多くで共通する、大きな特徴の一つでもあります。図鑑などに掲載された昆虫の形態の図解で、この塊とその後方に連なるもう一つの塊である「腹部(後体節)」とのくびれた部分を胸部と腹部の境界であるかのように示されている例をしばしば見掛けますが、もちろん、これは誤りです。

 話が難しくなりましたが、講座の締めくくりにおいた「答え合わせ」では、上に述べたような事柄を、配布した解説シート(図②)を元に詳しく解説しながら行いました。予備知識がないまま、形態上の改変が進んだアリの体を読み解くことは、初心者にはきわめてハードルの高い作業であったでしょう。計二日間にわたって顕微鏡に噛り付いてきた受講者の中には、一連の作業を終えたあとは精根尽き果てたかのような人もいました。私が想像する以上に、大変な集中力が要る作業であったようです。だからこそ、描いたアリの絵を見返しつつ、何に気付き、あるいは見過ごしていたかを冷静に振り返るのは大切です。そう、観察とは事前の学びや予備知識があればこそより確かなものになるのだなということ、加えて「描く」ことでその観察レベルがいっそう深まり、正確な知識へと結び付くのだなということを、実感して頂けたのではないかとの手応えを感じた二日間でした。

 私自身も、今回の原稿を書くに当たって、講座の当時は扱わなかった女王(図③)を、改めて観察し直してみました。翅にまつわる構造を極限まで減らした働きアリとは違って、退化していない翅とその基部構造に加えて、飛翔筋をもつ分だけ肥大した中体節の形は、働きアリのそれとは著しく異なるのを目の当たりにしました。これまで、数多の女王を目にしてきながら、実は曖昧なままであった像を、今ここに至って、自らの確かな知識とすることができたわけです。

【図③ クロオオアリ 女王(有翅)の頭部および合胸(中体節)】 ハチの仲間であるアリは本来、前後2対、計4枚の翅を持つ。結婚飛行ののち、翅を落とす前の姿を描いている。翅を持たない働きアリ(図①・②)と胸部の形が異なるのは、翅をそなえた分の飛翔筋を内臓しているため。ただ、そうした形状はハチの仲間としてはむしろ通常の姿である。2022年制作。 ©川島逸郎

 

 

(第18回・了)

 

 

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次回は2022年10月26日(水)に掲載予定