虫を描く私――標本画家のひとりごと 川島逸郎

2022.11.23

20前例のない絵

 

仕事の発端とWさんのこと

 私はこれまで、多くの昆虫の絵を描いてきました。が、今回取り上げる2009年頃の作であるトンボの卵巣の絵は、その中でもいささか変わっていて印象深い仕事として記憶に残っています。それは標本画というよりも模式図と言うべきシンプルな図だったのですが、どのような体裁であれ、国内はおろか世界でも、その構造を正確に図示された例はなかったのでは、と思われるものだったからです。

 2005年に『トンボの調べ方』(文教出版)という本が出版され、私も持っていました。内容は多岐にわたり、トンボ学の入門書としても適切な項目が揃っていたように思います。幼虫(ヤゴ)が好きな私にとっては、終齢幼虫の特徴について詳しく記述された一章が特に参考になり、長らくお世話になったものでした。とりわけ私の目を惹いたのは、それまでの図鑑類や総説ではほとんど触れられて来なかった、卵期の胚発生や1齢をはじめとした若い齢期の幼虫に割かれた項目です。その項目を担当、執筆されたのがWさんという方でした。

 Wさんはトンボ界ではよく知られた方でしたが、超接写の技術に秀でておられたことから、トンボの胚発生に留まらず、さまざまな昆虫の孵化の写真でも著名でした。私にせよ、後年になって記憶が繋がりましたが、十代の頃から、さまざまな雑誌の紙面でそのお名前や映像作品を目にしていて、同じような関心を抱く者として目を掛けて下さったのか、ヤゴの成長に伴う形態の変化(後胚発生)に魅せられていた当時学生の私へも、多くのご教示やご助言を下さったことを懐かしく思い出します。昆虫発生学への強い関心から自ずと超接写を試みるようになったとの経緯は、後年にお聞きしました。ある時、そのWさんから直々に「トンボの卵巣の絵を描いてほしい」というご依頼が寄せられました。よくよくお話を聞けば、上に記した『トンボの調べ方』の改訂版(2010年)の出版が決まったことで、その機会にしっかりした図を掲載したいと思い立って依頼して下さったようです。

 

前例を探して

 Wさんは昆虫発生学の論文や新しい研究成果にも通じておられたので、発生上の現象や胚の超微細構造の図は存在しても、意外なことに、卵巣全体の造りについて的確に図示された例が見当たらないのをご存知だったのでしょう。一方、それまでの私はと言えば、トンボは好きな虫でしたが卵巣についての知識はほとんど持ち合わせてはいませんでした。せいぜい、標本作りの過程で摘出する際の感触や、大まかな形状を知っていたに過ぎません。果たして、描画以前に解剖そのものが上手く行えるだろうか? そして、ご要望に沿えるような的確な図を作れるだろうか? 不安な気持ちでいる私にWさんの「川島さんなら、出来ると思うわ」の一言。Wさんの押しの姿勢とその言葉の勢いとに、腹を括りました。

 しかし、何らの基本的な知識もないままに、いきなり解剖に踏み出すのは無謀です。とりあえず、手元にあるトンボの形態学に関する文献を参照することから始めました。それまでにもページを繰ってはいたはずですが、卵巣にさして関心を抱いてこなかったので、参考になりそうな図がどれほどあったか、あやふやな記憶しかありません。有意義なはずの資料も、目的意識を持って向き合っていないと、図の一つ一つまでは脳裏に深く刻まれてはいないものだなと思いました。ともかく、国内外の資料を探し探し、ようやく見付ける事ができた卵巣の図が想像以上に少なかったのは、いささか驚きでした。それも、腹腔に長く伸びた袋に多くの卵がただ詰まっているだけのように描かれたものしかありません。とりあえず、それら二、三の図と取り出した実物とを見比べながら作業を進めることにしました。ところが、観察やスケッチの助けになるかと期待を掛けたそれらの図は、どうも実物とは違っているようなのです。

 

知識なく描かれた簡単な図であれ

 結局のところ、解剖してみないことには、いかなる構造を持っているのか詳しく知ることはできません。生来の手先の器用さも幸いして、卵巣全体をきれいに取り出すのはさして難しくはなかったのですが、そこから先が難所でした。薄い膜で覆われた袋の一対から成る卵巣は、内部にたくさんの卵を抱えているのが透けて見えます。一体、中はどうなっているのか? 興味津々で袋を切開したとたん、多くの卵がばらけて出るとともに、小さな卵の連なりが溢れ出てきました。この連なりが卵を生産する「卵巣小管」であることはすぐに分かりましたが、とにかく数が多い。全体がどう繋がっているのか、一見しただけでは分かりません。多くの昆虫では数本から数十本程度ですが、先に見つけた文献では、すべてにおいて「非常に多くの」「膨大な」といった言葉で数が濁されています。トンボは桁外れに多いためでしょう、正確に数えられた先行例は見当たりませんでした。余りの多さに混沌とした小管をより分け大元を辿ってゆくと、左右の袋のそれぞれに一本の索(「腹幹」と呼ばれる主要な気管)が走っていて、小管のそれぞれは基部でこの索へと束ねられていること、卵巣小管の先から産み出された卵は袋の中に放出されたのちに後方の生殖孔へ送り出されてゆく、といった大まかな造りだけは分かりました。おおよそ10種余り、それぞれ複数の個体を調べたので、かなりの解剖をこなした計算になります。もちろん、種類ごとに微妙な違いはありましたが、基本的な構造に変わりはないことも分かりました。何らの専門知識もない中で始まった作業でしたが、ともかく、目に見えたままを写したスケッチだけは溜まりました。図①に挙げたものは、その中の一枚です。

 

【図① トンボ卵巣のスケッチ(ウスバキトンボ)】参考になる図の先例も見当たらず、10種余りを事前に解剖した。種類ごとに細かな違いはあるが、一連の解剖によって構造の概要は把握できた。まずは見えた通りに写したスケッチを溜めていった。それらは本図の制作に活かされ、最終的に図②で挙げた模式図へと結実した。2009年頃の制作 ©川島逸郎

 

 それらのスケッチを元に最終的に作った図は、卵巣小管がどのように袋の中に生え、小管で生産された卵が放出、排出されてゆくのかといった大まかな構造を示した「模式図(図②)」です。知識がないままに描くという、それまで経験したことのない仕事でしたので、知識がないだけに過筆に陥らないように、あえて最低限の線を引くだけに留めました。しかし一方で、この程度の精度のものでさえ、不正確な図ばかりが占めていたそれまでの状況からすれば、一歩でも前進した図だったと自負しています。

【図② トンボ卵巣の模式図(シオヤトンボ)】紙ではなくトレーシングフィルムに描いた。模式図とはいえ慎重な解剖によって目にしたままを写してはいる。こうしたシンプルなものでも、出版の時点ではトンボの卵巣の図としてはもっとも的確なものであったと言えよう。2009年頃の制作 ©川島逸郎

 

 時は流れ、若い研究者によって正確かつ精密な研究成果が生まれましたが、私のシンプルな図も、もしかしたら、そうした研究の土台になり得たのではないか、自然科学の進展に貢献できたのではないか、とも思えるのです。科学に根ざした絵も完成形や絶対はなく、常にその進展とともに歩みを進め、刷新されてゆくものと言えるでしょう。

 

 

 

 

 

(第20回・了)

 

 

画集『虫を観る、虫を描く 標本画家 川島逸郎の仕事』が発売中です。
本連載は月1更新でお届けします。
次回は2022年11月28日(水)に掲載予定