虫を描く私――標本画家のひとりごと 川島逸郎

2022.12.28

21無理難題の依頼

 

「ストップ・ザ・ヒアリ」

 皆さんは、「ヒアリ」という名を見聞きしたことはないでしょうか。ヒアリは「外来生物法」によって「特定外来生物」に指定されているアリの一種で、腹端にハチと同じように刺針を持ち、ヒトが刺された場合には激しいアレルギー症状を引き起こします。さらに、在来生態系への影響を含めさまざまな被害が懸念されているアリです。本来は南アメリカ中部に分布する種だそうですが、物流網の拡大に伴って原産国以外の地域への移入が確認されており、日本でもそれを食い止めなければと、2009年に環境省で「ストップ・ザ・ヒアリ」と銘打ったキャンペーンが張られました。当時すでに近隣の中国や台湾までヒアリは迫っていましたから、水際で侵入を防ぐべく、各方面への警戒を呼び掛ける目的の事業だったようです。

 そのキャンペーンのパンフレットが発行されることになり、そこに掲載される図版作成を担える者として、私へ白羽の矢が立てられたというわけです。パンフレットは、各地の空港や港湾での植物防疫所などに配布、備えられると聞きました。

 

初めてアリの標本画を描く

 アリを対象に標本画レベルの絵を描くのは、この一件が初めてでした。ヒアリの実物を見た経験はなく、標本も持っていません。依頼側から提供された、海外で得られた乾燥標本の一式を元に作業が始まりました。さて、どのような図を作るのか? 先方の要望としては、背面から見た全形図に加え、他のアリとの識別や種の同定に使われる形態的な特徴を部分図で示すこと、ヒトの皮膚上で刺している様子を生態画で示すという二点がありました。スケッチ用の標本は、決して状態の良いものではありませんでしたが、そこは経験値で何とでもカバーできます。加えてアリは、脚を腹側で絡めたような横向きで標本になっているものが多く、今回の依頼のように識別用に形態的な特徴を示した側面図を描く分には、横向き標本であれば観察もスケッチも手間が少なく済むので気も楽です。面倒だったのは、背面からの姿のスケッチでした。細かく分かれた節のそれぞれについて、正中が傾かないように留意し、前後の傾きについても、自然な角度を見極めてトレースしてゆかねばなりません。いっそう細かく節が分かれ、乱雑に折れ曲がった触角や脚も然りです。そのような手間を掛けて取った各部分のスケッチを合成して作ったのが、ここに掲げた全形図です(図①)。

【図① ヒアリ】 乾燥標本を元に、ワーカーの大型個体を背面から描いた。パンフレットの表紙にあしらわれたこの絵は、1984年の映画『ゴーストバスターズ』のロゴマークのように、道路標識の禁止マークで捉われたデザインになった。持ち上がった中脚は、図らずもそれに上手く符号しているようにも見え、少し安堵感を覚えた記憶がある。2009年制作 ©川島逸郎

【図② 環境省自然局発行のパンフレット(表紙)】

 

 ただ、改めて眺めてみると、ああすれば良かった、こうすれば良かった、といった点が目に付きます。例えば、頭はもう少しうつむき加減にすべきだったと思います。生きているときには、この図ほど仰向くことはないでしょうから。中脚に至っては、なぜ前寄りの向きにしたのか、我ながら不思議です。ここも、中脚は後ろを向いている方がアリの姿勢としては自然でしょう。日常的に深く親しんでいたヤゴ(トンボの幼虫)の中脚を前に向けた姿勢が、脳裏に染み着いていたのかもしれません。どちらの点も、今なら容易に想像が付きそうなものですが、何ら深い思慮を巡らせてはいなかったのでしょう。パンフレット制作を請け負った先の職員で、アリの専門家でもある方が、この図を見て「アリの絵では、余り見掛けない姿形ですね」と笑っておられたと、後から聞きました。

 

無理難題の依頼

 このようにそれなりの苦心や反省はあったものの、モデルになる現物(標本)さえ手元にあれば何とでもできるものだなと、改めて自覚したひとこまではありました。

  しかし、生態画はそう簡単にはいきませんでした。「ヒトの皮膚上で刺している様子」を描かねばならないのです。標本を見るのも初めてでしたから、生きた状態やその動きを知る由もありません。依頼担当者から提供された資料は、恐ろしく解像度の低い一枚の写真で、「ヒトの皮膚の上に、アリらしき虫が止まっている(どうやら、刺しているらしい)」以上は何も判らない代物でした。台湾でこのアリに刺され、病院に担ぎ込まれたという担当者が自身の体験談を語ってくれましたが、それでも描けるだけのイメージには足りません。「この写真からは到底、絵に起こせそうもないんだけど」と流石に音を上げた私に、担当者は満面の笑みを浮かべながら言い放ちました。「大丈夫、大丈夫ですよ!  川島さんのことだから、蜂に刺された経験なんて数限りなくあるでしょ。スズメバチが刺すときは、大あごで噛み付いておいてからぶすっ、て刺すじゃないですか。このアリも同じなんです。だから描けますよ!」。一体全体、何が「だから描ける」のか釈然としないまま、ついに押し切られた形で打ち合わせは終わってしまいました。とどのつまりは、私自身が持っているスズメバチでの記憶に頼るしかなく、かつての記憶を辿り、想像を巡らせながら描いたのが図③だったわけです。当の担当者は実は、大学の昆虫学研究室で一年後輩に当たり、もっとも親しい間柄の一人だったので、その知れ過ぎた気心が、無理難題の依頼の背景にあったのは言うまでもありません。「果たして、あの絵はあれで良かったかな」と、ふと考える瞬間もいまだにありますが、こうした依頼も時にはあろうかと、ここは遠ざかる過去の一挿話にとどめ、もはや問わないことにしておきましょう。

 

【図③ ヒトの皮膚を刺すヒアリ】このアリが刺す様子をじかに見たことはないので、やや類縁は離れるが、スズメバチ類が刺すときの有り様もイメージした。予め描く姿勢やその角度を決めておいてから各部分をスケッチし、下図の段階でそれらを合成したのちに、脚の先に至るまで生きた自然な状態となるよう微調整を施している。2009年制作 ©川島逸郎

 

 

(第21回・了)

 

 

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次回は2023年1月24日(火)に掲載予定