「カナブン」の見どころを探して
以前も触れましたが、この連載も回を重ねてきたところで、「こんな虫を描いてみて感じたところを綴ってみては?」と、編集者から提案リストが送られてきました。その題材はいずれも、身近でしばしば目にし、誰もが知っているようなポピュラーな虫たちでした。が、私がリストを見てまず感じたのは、これは前途多難な道のりになるだろうということでした。リストの中からテントウムシ、ゴキブリを選んでみましたが、観察での新たな発見に加え、予想していた以上の描写の困難さがありました。前者で言えば、きめ細かな上翅の表面構造であり、後者であれば、きわめて密な翅脈とその複雑な枝分かれが思い出されます。
今回はカナブンを取り上げることにしました。カブトムシやクワガタムシとともに、クヌギの樹液に集まる定番の甲虫です。その体の、深みを感じる独特の輝きはすぐに思い浮かぶものの――何かと衆目を集める立派な角をもつカブトムシや大あごが目立つクワガタムシとは対照的に――それ以外の際立った特徴は出てこないのではないでしょうか。だからこそ、標本画として取り組む中で何か目新しい特徴が見つかるかもしれないと、目論んだわけです。
さて、どこに焦点を合わせてみるかと思案の末に浮かんだアイディアの一つが、口器の構造に注目してみることでした。カナブンが属するコガネムシ科という同じ仲間の中には、葉を食べるものも多いのですが、カナブンは樹液や果汁を舐めるだけで葉を齧ることは決してありません。そうであれば、その口器とは果たしていかなる形や構造をしているのか? 同じ科で葉を齧るタイプの、アオドウガネのそれと比較してみることにしました。
カナブンの「口」とは?
カナブンが樹液を舐める様子を見ていると、ブラシのような器官や口ひげの先の一対が頭蓋の先端下側から出たり引っ込んだりするのが見て取れます。これらが舐めとるのに役立っているのは明らかです。ただ、背面からはそれ以外の口器はほとんど見えません。そこで私はまず、この四角い頭部を腹側から観察してみることしました。中央には下唇ひげを生やした下唇があり、その両側には、小あごひげをそなえた小あごが見えます。先に触れたブラシのような器官は、その小あごの先端にあることが分かりました。
これらの下唇と小あごを頭蓋から取り外すと、その下に隠された大あごが姿を現しました。ここから詳しく見ていくことにしましょう。齧ることをしないカナブンですから、大あごはおそらく何らかの痕跡が残っている程度まで退化しているかもと踏んでいたこともあって、こうして目の当たりにするとは思わず、嬉しい誤算だったと言えます。加えてその形は予想だにしなかったもので、大あご本体は薄っぺらの細長い板と化していました。これでは、ものを齧り取ることも切り取ることもできそうもなく、舐めることに特化したがゆえの変形と見て良さそうです。本体の板の内側には、薄片として円く張り出した部分があり、その縁にはびっしりと剛毛が生えていました。この部分は、摂取した液体を嚥下するのにいかにも役立ちそうです。一方で、この大あごは意外な特徴をそなえていました。それは、その奥の臼歯部に円盤状の大きな内歯があったことです。カナブンが摂取するのは液体のみで咀嚼の必要はなさそうですが、一体何の役に立っているのでしょう。描き終わった今も、分からないままです。
予想外の大あごに続いて、次は先に下唇とともに取り外した小あごを見ていきましょう。大あごと同様に左右一対あり、中央にある下唇を挟んで位置する点は他の昆虫と同じです。硬く頑丈な造りをしていますが、本来あるべき境界線(縫合線)の消失あるいは改変がみられ、基本形から各部分がどのように変化しているかを読み取ることは難しそうです。
ただ、舐めるための主要な器官はこの小あごであることは、先端の外葉らしき節片に生えた毛束から分かりました。小あごの本体部分の内縁には、先端寄りに突起があるほか、嚥下のさいに役立ちそうな毛が並んでいます。一体化してはいるものの、実はこの内縁の部分は、小あご本体(軸節)に融合した内葉なのかもしれません。小あごひげの先端は円盤状に裁ち切れていますが、真っ先に餌に触れる部分なだけに、ここにも超微細な感覚器がありそうです。
さらに下唇を見ていくと、造りはいたって単純なものでした。本来そなわっているはずの「亜基節」「基節」「前基節」といった各部分の区分も明らかではなく、お互いに融合しているのか一枚の板のようです。その前方の両側に生える下唇ひげもまた、先端は裁断されており、やはりここにも微細な感覚器がありそうです。この図では見えませんが、本体の内(上)面(下咽頭)には感覚器でもある細かな毛が多く生えていました。通過する食餌を感受しているものでしょう。
下唇と小あごを取り外す前の段階では、上唇や大あごはまったく見えなかったので、もしかしたら頭蓋に融合するか退化消失しているのかとも思いましたが、下唇、小あご、大あごと順繰りに取り外してゆくと、もっとも奥に上唇を見つけることができました。頭蓋の下(内)面の凹みにうまく収納されていたのです。ここでは描き込みませんでしたが、その下面(上咽頭)の一部には微細な感覚器が密に存在するようです。
葉を食べるアオドウガネでは?
カナブンを描き終えて、改めてアオドウガネを見てみました。頭部を構成するパーツは基本的に同じですが、角張ったカナブンのそれと比べると全体的に丸みが強く、頭部が短いことが実感されます。その中でも口器の短さは際立っており、ここにものを齧るための構造的な強靭さがあるのかもしれません。カナブンと違って齧ることに特化しているはずですが、口器を形作るそれぞれのパーツにはどのような違いがあるでしょうか。
さしたる特徴もなかったカナブンと違い、外からは見えない上唇の下面(上咽頭)には棘や刺毛の束が生えていました。これは、齧り取った食餌を感受するとともに、奥へ送り込む役割を担っていそうです。
大あごは下唇と小あごに隠れ、腹側からはほとんど見えません。これはカナブンと同じです。ただその形の洗練ぶりは、驚くべきものでした。もぐもぐと葉を齧る様子から、それに適した形状をしているだろうとは想像してはいましたが、先へゆくほど薄く鋭利になった大あごは、まるで斧の刃のようです。さぞや、すっぱりと葉を裁断できるに違いありません。本体の内側の、嚥下を助けるであろう毛の密生には納得もしますが、その奥に続く臼歯部の形状にも驚かされました。円盤状に大きく発達した面にはおろし金のような横しわが細かく並び、かじり取った葉片をさらに細かく磨り潰すのに絶大な効果を発揮していることでしょう。
もちろん、小あごは舐めるための毛束は備えていませんが、その代わり、大あごでかじり取る動きをすぐ下から助け、補うのに適した形状をしていました。下唇だけは、表向きはカナブンと大きな違いはないように見えたのですが、側面から下側を覗き見ると、まったく異なる立体構造でした。本体の内(上)面(下咽頭)は大きくせり出しています。その稜線の部分には細かな毛が密生していましたが、液体ではなく固形物である食餌を嚥下するさい、それを奥へ送るのに大いに役立ちそうです。
カナブンとアオドウガネは類縁が近く基本的な構造は同じでありながら、パーツのそれぞれが習性に合った形に変化しており、その有り様に、改めて感心させられることとなりました。
こうして、パーツを取り出してスケッチしたり他と比較したりしながら、虫の体がなぜそんな形をしているのか、何の役に立っているのか、あれこれと思考を巡らせるのは実に楽しいものです。逆に、その虫なりの生態や習性を知っていた場合には、その形のもつ意義について想像もしやすく、虫の多様な形態は、その暮らしぶりを実によく反映しているなと感じることができます。もっとも、そう簡単に答えには辿り着けませんが。それもまた、自然観察の醍醐味でしょう。虫のスケッチとは、「無知の知」への入り口、自然を理解しようとする挑戦の始まりでもあるのです。
(第26回・了)
画集『虫を観る、虫を描く 標本画家 川島逸郎の仕事』が発売中です。
本連載は今後しばらくの間、不定期更新でお届けします。
次回の更新をお待ちいただけましたら幸いです。