虫を描く私――標本画家のひとりごと 川島逸郎

2021.10.20

03昆虫「標本画」へ

鳥から昆虫への回帰

 細部に至るまで、科学的な根拠を伴い、どこまでも正確さを追求した生き物の絵を描きたいと切望した十代の私は、鳥への興味関心によって「標本画」との邂逅を果たしました。自分が求めていた絵が確かにこの世に在るのだと知ったときの感動は、それは大きなものでした。

 その時点においてもなお、「標本画」という言葉を知りませんでしたが、その存在を知り得たことは、少年だった私にとって、どれほど心の拠り所、指針になったか計り知れません。高校生の頃には、相変わらず鳥を見つめながらも、昆虫への情熱が再燃してきていました。虫との距離感は鳥よりも段違いに近く、じかに手に取り間近で観ることがたやすい、といった背景があったことは容易に想像がつくでしょう。自ずと虫追いへと回帰していき、休日のみならず学校の授業を退けての帰路でさえ、山野を徘徊するようになりました。手中にした虫たちの姿形を正しく描写したい。果たして昆虫においても、鳥のように正確、精密に描くという絵の世界はあるのだろうか? 幼い時分から慣れ親しんだ、各社から出版されていた子供向け学習図鑑にも、手描きの昆虫画が整然と並んではいましたが、私が真に描きたい絵は、もはや、そこで掲げられたような質のものではなくなっていました。幼かった私の、心の窓にもなっていたそれらをとうの昔にくぐり抜け、私は、いつしか新たな次元を求めて旅立ち始めていたのです。

 

再び、昆虫を描き始めて

 しばらくの空白期間を経て昆虫へと戻ってきた私は、再び、それらを描き始めました。しかし、昆虫の「小ささ」は、大きな関門となって私の前に立ちはだかります。幼い頃に描いた昆虫画が、図鑑などの筆写が主とならざるを得なかったのもそのためです。学校での理科の授業で、かろうじて単眼顕微鏡を触った覚えがありましたが、それにしても、反射鏡を明るい窓に傾けて覗いても、結局はよく見えなかったとのおぼろげな記憶しかありませんでした。昆虫を描くには顕微鏡が欠かせない、という発想や知識が念頭になかったのです。それゆえ、私は相変わらず書籍からの筆写を続けていました。ただ、標本画ではなく生態写真を写生するようになっていたのは、昆虫の生態や生活史、その暮らしぶりに強い関心を抱き始めていたからです。この頃に描いた作品を、振り返ってみることにします。山地に多く、独特の斑紋が目立つ「オオトラフコガネ」と、北海道だけに分布し煌びやかな金属光沢と美しい色味とをそなえた「オオルリオサムシ」。一見、どちらも「それらしく」描かれてはいます。しかし、当時の私は、昆虫の形態についての基本的な知識を持ち併せておらず、いずれも実物を見たことはありませんでした。紙面に掲載された鮮明な写真を忠実に筆写すれば、その虫には見えるでしょう。その一方で、心の奥底でどうにも煮え切らない、もやもやした日々が続きます。これで良いわけがない、このように描いていてはいけないと、焦燥が募るばかりでした。

 

 

上・オオトラフコガネ(雄)、下・オオルリオサムシ(雄) ともに、黒沢良彦・渡辺泰明 著、栗林 慧 写真『野外ハンドブック・12 甲虫』(山と溪谷社、1985年)に掲載されていた、生態写真を筆写したもの。実物を知った上で描いたものではない。©川島逸郎

 

「標本画」とは何か?

 これまで、再三にわたって「標本画」と書いてきました。しかし、言葉としては昔から存在してはいたものの、そのように確立された一つのジャンルなのかといえば、そうとも言い切れません。では一体、「標本画」とは、どのような絵なのでしょうか? 呼び名としてはあっても、確かな定義づけがなされ、その有用性や利点について記述された例があったか、実は、私自身も知りません。けれども、それがもしもなされてはいなかったとすれば、自然科学の土俵上で長年にわたって描いてきた私が、手描きの標本画が消えゆく時流にある今、自身の考えを書き留めておくことに何かしらの意義はあるのではないか、と思っています。

 「標本画」とは何か? それは、自然科学の出発点である記載において、標本と科学的な知見とをもとに、対象となる生き物の種類ごとにある標準的な姿形を、グラフィックス(付図)として示すためのものです。描くに当たって、形態学的にも解剖学的にも、正確さを追求するのは言うまでもありません。芸術的な絵画との大きな違いは、描画の目的である「見る側へ、何を示し、伝えるための絵なのか」が明確なことです。雑多な視覚情報が入り混じった写真とも違い、あらかじめ定められた目的に沿って、描きこむ情報の整理や抽出、省略を行うことが、もっとも重要な点です。二次元の情報を伝えるさいは、単純な線画だけで示す場合も多いのですが、三次元の情報(立体構造)を伝えたい場合には、点描といった手法によって陰影をつけ、そのありようを示すのです。

 

「標本画」に起こす イリオモテボタル(雄)を例に

 標本から描き起こして標本画へと完成させた、二つの例を紹介してみましょう。どちらも同じ甲虫(イリオモテボタルの雄)で、年代を経て、新旧二度にわたって描いた全形図です。描画の出発点、すなわち標本も併せて示しました。通常、標本はなるべく状態の良いもの、その種の中でも標準的な姿形をもった個体を選ぶのですが、ここではあえて、状態の悪いものを取り上げてみました。このような悪条件の資料から描き起こさねばならない状況も、往々にして生じるからです。

 

イリオモテボタル(雄)(コピー) この虫の新種記載(Wittmer in Wittmer & Ohba, 1994)に当たって挿画(標本画)を任され、1993年に描いたもの。 ©川島逸郎

 

イリオモテボタル(雄)  同じ虫を、2005年に新たに描き直したもの。Kawashima et al. (2010) の中で使用された。©川島逸郎

 

イリオモテボタル(雄)の標本 甲虫の中でも体が柔らかく、乾燥標本にすると変形しやすい。 ©川島逸郎

 

 古いほうは、新種記載に当たって付図を担当したとき、1993年に描いたものです。2005年に新たに描き直したものは、まるで別の虫に見えますが、そこには私自身の描画技術の進歩のみならず、とりわけ「観察眼(ものを見抜く眼力、洞察力)」が培われ、向上したことが、何よりも大きく作用しています。標本がいかにねじれ、傾き、大きく歪んで変形していたとしても、野外での生きた状態の虫を含め、多くの資料に当たってきた知識や経験の量に比例して培われる、標本を前にしたときのこの「観察眼」こそが、あらゆる負の要素を補正し、あるべき姿形へと導いてくれるのです。

 では、こうした標本画を完成させるまでのさまざまな作業の折々で、私が何を考えいかに描いているのか? それらについては、次回以降に譲ることにしましょう。

 

 

(第3回・了)

 

本連載は隔週更新でお届けします。
次回:2021年11月3日(水)掲載予定