虫を描く私――標本画家のひとりごと 川島逸郎

2021.11.3

04どのように虫を描くのか?

小さな虫の「形を取る」には?

 昆虫の「標本画」制作を志したものの、そのためにはまず何をすればよいのか私には分かりませんでした。道標になるものは何一つありません。

 標本作りの方法すら知らなかった頃には、取りあえず描きたい虫の死体を目の前に置き、ルーペで拡大しながら写生していました。しかし、それを続けていただけでは目指す標本画へと到達できないことは、すでに鳥の写生を通して痛感していました。私が第2回目で示したハシブトガラスとヒメウの脚を描いたとき、実物に定規を当てて方々を測定しながらスケッチしたのは、少しでも正確に描き、標本画に近づけたいとの思いからです。日常的に多くの昆虫を手にする中で、しっかりとした外骨格をもつそれらが、その特質ゆえ種類ごとに「いかにもその虫らしい」微妙な形状のバランスをそなえているのは察しがついていました。これらを単なる勘で描いてしまったのでは、科学的とは言えないであろうことも。

 では、そのラインや湾曲の度合いなどを含め、どうすれば昆虫の外形を正確に捉える「形取り」ができるのでしょうか。小さな昆虫の形取りを扱った教本などありません。単に細密画というだけなら、さまざまな技法書も存在しますし、そのための教場もあったように思います。しかし、私は細密画を描きたかったのではなく、形取りに始まり、引く線の一本に至るまでも科学的な裏付けを伴った描き方をしたかったのです。そのためには、道具はもとより、対象を深く理解するための昆虫学の素養が、何より必要不可欠なものだと思われたのでした。今現在、私が手掛けている標本画は細密な描写で成り立っていますが、絵の目的に叶うための表現が結果的にそうさせているだけのことであって、「細密」であること自体が絵の目的ではないのです。

 

大学の昆虫学研究室で

 そんなもどかしい思いを抱えながら十代後半を過ごした私は、苦心の末、昆虫学研究室のある農学系の大学へと進みました。芸術的な絵画を描きたいわけではなかったので美術系の進学先は念頭にありませんでしたが、かと言って昆虫の研究者を目指していたわけでもありません。ただただ「昆虫学専門の研究室であれば、標本画の描き方を知ることができるかもしれない」「描くためにはまず昆虫学を学ばねばならない」と考えた先の入門でした。

 ですが、この見立ては的中しました。それまで目にしたことがなかった専門分野の記載論文には、国内外を問わず、先人によって描かれた標本画が多用されていたのです。また、研究室ではそうしたスケッチに必要な道具にも、じかに触れることができました。顕微鏡の接眼レンズの内部に装着する「方眼メッシュ」や、顕微鏡用の「描画装置」という耳慣れない機器を用いて絵を描けるようになったことは、私の絵に進展をもたらし、それにより新たな局面が見えてきました。対象物と紙面とを見比べながら勘や感覚に頼って写生するのとは次元を異にして、その根拠、裏付けを伴う線を見極め、引いてゆくことができるようになったのです。

 

「方眼メッシュ」と「描画装置」

 「方眼メッシュ」は上に述べた通り、方眼目盛が刻印された丸いグラスです。顕微鏡の接眼レンズの内部にはめ込んで使うのですが、顕微鏡を覗くと、対象物と方眼目盛とが重なって見える仕組みです。この状態を元に、対象の像を方眼紙に対応させて写し取ることで、その形状やバランスを正しくスケッチすることができるというわけです。ここでは、私が初期に手掛けたトンボの卵(胚発生)のスケッチを挙げました。方眼メッシュの短所は、線を引くための拠りどころが方眼であるため、不連続である点を繋いでゆくことによってしか像を写し取れないことです。自ずと、スケッチの精度は低下せざるを得ません。加えて、方眼の升目だけを当てにして目分量で描くしかないため、微細な構造を正確に写すことには向いていません。

 

【図版① サラサヤンマの胚発生(スケッチ) 描画装置を使用する以前、接眼レンズの内部に装填した方眼メッシュを通して覗いた像を、方眼紙にスケッチしたもの。1990年頃 ©川島逸郎】

 

 次に、顕微鏡用の「描画装置(描画管)」についてご説明しましょう。描画装置は、顕微鏡の接眼部と鏡体(本体)との間に挟み込んで使う型式のものです。利き腕を置く側に突き出た部位の先端に、傾斜した鏡またはプリズムが備えられ、机上(紙上)に置いた鉛筆を持つ手先の像を取り込み、顕微鏡本体を通過する対象物の像と重なり合って見える仕組みになっています。そのため、顕微鏡を覗きながら、対象の像をなぞる(トレースする)ことによってスケッチができるわけです。この装置には、プレパラート標本を観察するための生物顕微鏡用と、立体的な対象を見た向きのまま覗くことができる実体顕微鏡用とがあります。

 

【図版②③ 描画装置(描画管)を装着した顕微鏡:生物顕微鏡用(上)・実体顕微鏡用(下) この形式のもの(描画管/ドローイング・チューブ)は、接眼部と鏡体(本体)との間に挟み込んで用いる ©川島逸郎】

 

 プレパラート上で平らに圧縮され、二次元に近づいた対象(標本)を覗く前者は、とても快適にトレースできるのですが、実体顕微鏡用のものは本来、光学上の無理があるようで、覗いた立体物の外形をトレースするのはかなり難しく、使いこなすには大変なこつが要ります。こうしたこつを体得するまでには、私も多くの時間を費やしました。なお、昔の論文では、その「材料と方法」の項目に「(挿図は)アッベの描画装置によって描かれた」と記されていたりします。残念ながら未だその実物を見たことがありません。アッベ式描画装置とは、のちに登場した前述の描画装置(描画管)とは異なり、接眼レンズに取り付ける型式のものです。

 

【図版④ アッベ式描画装置(広告)。オリンパス光学工業(株)製のもの。この形式の描画装置は、顕微鏡の接眼レンズに取り付けて用いる】

 

 生物顕微鏡用および実体顕微鏡用それぞれの描画装置を用いて描いた作品を挙げてみましょう。

 トンボ(サラサヤンマ)の成熟卵を描いたものは、卵の中で完成した胚(幼虫の体)を示しています。すでに完成した各部分の細かな構造は、もはや方眼メッシュでのスケッチでは覚束ないように思い、描画装置へと移行するきっかけとなったものです。逆に、方眼用紙でのスケッチ(図版①)を振り返って見れば、発生初期の卵ではそこまで細かな描写の必要がなかったことが分かります。

 

【図版⑤ サラサヤンマの成熟卵 卵の中で完成し、孵化直前の胚。生きたままの卵を生物顕微鏡で覗き、描画装置を用いて描いた初期である1993年の作品 ©川島逸郎】

 

 一方、同じトンボの終齢幼虫(ヤゴ)は、乾燥標本(羽化殻)を、実体顕微鏡用の描画装置を使って描いたものです。表現に稚拙さ、初々しさが漂ってはいますが、その実、前回で示したオオトラフコガネやオオルリオサムシの絵からは長足の進歩を遂げたものなのです。

 

【図版⑥ サラサヤンマの終齢幼虫  羽化殻(乾燥標本)を、実体顕微鏡用の描画装置によりスケッチして描いたもの。修士論文で用いた1996年の作品 ©川島逸郎】

 

 写真を筆写した絵は、ただ見えた通りに描いたにすぎません。とりわけ口や触角などの細部においては、基本構造も知らないまま描いたことが、節を分かつ境界線を不分明に、ぼやかしていることによって露呈してしまいます。しかし、形態や構造を熟知し、描画装置を用いて描いた絵は、ごまかしが入り込む余地はありません。このヤゴの絵が、外形に加え、各部分の形状や相互の連結、体の表面構造と、随所に引かれた線のすべてにおいて、現物(標本)に基づく根拠をもって描かれていることが、皆さんにもお分かりいただけたでしょうか。

 

 

(第4回・了)

 

本連載は隔週更新でお届けします。
次回:2021年11月17日(水)掲載予定