虫を描く私――標本画家のひとりごと 川島逸郎

2021.11.17

05「描くため」の備え ――描画以前

描くための観察の前に

 小さな昆虫を詳細に観るためには自ずと顕微鏡が欠かせず、その形や構造を正確に描こうとすれば、「方眼メッシュ」や「描画装置」といった専用の道具を使う必要があることは、前回に書きました。ですが、標本画を描くためには顕微鏡観察の前段にもすべき作業があるのです。描画に直接関わる事柄ではありませんが、それなくしては描くこと自体が困難になります。

 こと標本画ともなれば、それを見る側へ伝達すべき目的というものが明確に存在します。文章だけではどうしても伝え切れない、表現し切れない情報を補完する意味から、あえて絵として描いているのですから。しかし、その狙いを曖昧にしたまま漠然と対象を写生しただけでは、目的を果たせません。その目的のためには、標本を観察する前に、描く側の意図に沿った適切な状態へ持ってゆく必要があるのです。こうした作業は、描画の出来を大きく左右するものですから、決してないがしろにできません。

 

【図版① 解剖・観察のための道具箱 昆虫の解剖や、観察を行うための道具は、釣り具用のタックルケース一箱にまとめて収納している。学生時代から使い続けている一式で、どこへ赴くにも、携帯も可能。 ©川島逸郎】

 

目的に沿った標本の作り方

 標本製作には、細かな観察やそれに基づいた描写を目的にした作り方というものがあります。

 例えば、ハチやトンボではどうでしょうか。彼らが持つ、観察すべき重要な体の特徴は側面に多く現れます。そのため、側面側から見るとそれらの特徴が観察しやすく、描きやすいのです。皆さんが昆虫標本と聞いて、まず思い浮かべるであろう体の左右に翅を広げた「展翅標本」は、見栄えこそ良いのですが、真横に張り出した翅がかえって邪魔になって、側面からの観察やスケッチがし難いことこの上ありません。観察や描画をしやすくするためには、ハチであれば背方に翅を立てたままの標本に、トンボであれば背中で左右の翅を畳んだ状態の「横向き」の標本に形作ることになるわけです。見栄えを捨てるにはそれなりの背景や理由があるのです。ここでは、そのように作られた標本を元にして描いたベトナム産のヤンマ科の一種や、私たちの身近にも多い寄生蜂、オオコンボウヤセバチの横向きの姿を挙げておきます。前者では、腹部に並ぶ斑紋が分かりやすい側面を示し、後者の独特の体形は、背面よりも側面でこそ際立っているさまを示しています。

 

【図版② ベトナム産ミルンヤンマ属の1種(腹部側面) トンボ目は、体の斑紋に種の特徴がよく現れる。それらは側面から見るとより観察しやすく、図示する際も、側面側を描く場合が多い。2012年の作品。 ©川島逸郎】

【図版③ オオコンボウヤセバチ 身近に多い寄生蜂の一種。ハチ目もトンボ目と同じように、側面から見たほうが様々な特徴を観察しやすい。特に寄生蜂など、図示する際にも側面から描かれる場合が多い。2009年の作品。 ©川島逸郎】

 

「部分(パーツ)」を描くために

 ここから先は、別の次元での事柄を語ることにしましょう。それは、小さな昆虫の体の中でもさらに細かな、ごく一部分(パーツ)だけを取り出して描く場合です。標本画として表現する虫の姿とは、何も全形図(=全身像)だけに限りません。昆虫は、体の各部分にこそ著しい特徴が現れやすいので、むしろ、説明の必要に応じて、特定の一部分だけを取り出して示す「部分図」が大半を占めます。

 細かな部分について的確に描写するためには、解剖や分離が欠かせません。そのための解剖道具もまた必要となります。その上、取り外して分離したままの状態では、多かれ少なかれ筋肉などが付着しているので、観察やスケッチの邪魔にならないように、予めこれらをきれいに除去(クリーニング)しておく必要があります。

 

いかに「パーツ」をクリーニングするのか?

 ここでは、外骨格(表皮)を扱う場合を例に挙げてみます。外骨格の様子を的確に把握するには、生物顕微鏡で透過光を通しての観察が必須です。その際、内面に筋肉が付着したままでは、光が遮られたり、雑情報まで一緒に透けて見えてしまうので、表面構造を鮮明に見ることができません。そこで、薄めた水酸化カリウムや水酸化ナトリウム溶液に浸けて筋肉を溶かすのですが、標本の古さや状態によっては、思うように溶けてはくれないこともしばしばです。

 化学的な除去ができないときは、時間と手間とを掛け、物理的に取り除くほかはありません。さまざまな小道具を駆使しますが、まず、先端を研磨し針よりも細く尖らせたピンセットを両手に持ち、実体顕微鏡で覗きながら、慎重に残渣や結合組織をつまみ取ってゆきます。次に細めの昆虫針の先端を丸く曲げた小さな鉤で引っ掛けたり、掻き取ったりして除去します。さらに残ったものは、柄の先に鼻毛やまつ毛、豚毛などを取り付けた「柄付き針」ならぬ「柄付き毛」を使って選り分け、弾き飛ばしてゆきます。硬い金属の道具は、操作に油断すれば部品を壊してしまいかねませんが、鼻毛ややまつ毛は柔らかくも腰が強く、こうした目的に向いているので、結構多く使われる「道具」なのです。

 これら一連の作業を行う際は、同時に顕微鏡のフォーカスリングも回しながら、焦点を合わせ続けなければなりません。腕がもう一本あったら良いのにと、何度思ったことでしょう。

 そうした苦労の結実であるいくつかの作品も紹介したいと思います。体の内容物を完全に溶かし出し外皮だけにしてから、その表面にある特徴を読み取って描かれたヤマサナエの1齢幼虫と、やはり内部の筋肉を溶かし出して内部構造をスケッチしたヤエヤマヒメボタルです。いずれも、中身の取り去った外皮に透過光を通してやらなければ構造の把握は覚束なく、的確な線画に示すことはできなかった作品の典型例です。

 

【図版④ ヤマサナエの1齢幼虫  サナエトンボ科の一種。まだ翅はなく、触角や脚先も細かな節に分かれていない。胸部と腹部には、ふた通りの形状をした感覚毛が列をなしている。これらの特徴は、中身を溶かし出してから透過光を使って読み取る。2016年の作品。 ©川島逸郎】

【図版⑤ ヤエヤマヒメボタル雄の中胸・後胸 胸部のうち、中胸と後胸を示したもの。左に突出した部分は、後胸から生える左後翅の基部。内壁には、飛翔筋が付く張り出しがあり、それらは点線で示している。やはり、中身を溶かしてから透過光で観察する。 ©川島逸郎】

 

 

(第5回・了)

 

本連載は隔週更新でお届けします。
次回:2021年12月1日(水)掲載予定