虫を描く私――標本画家のひとりごと 川島逸郎

2022.1.12

08虫の体の成り立ちを知るために――解剖の楽しさ

 

解剖こそ原動力

 5の中で、細かな部分からなる昆虫の体を描くには、観察の前段で解剖が必要な場合も出てくること、さらに解剖によってばらばらになった一部分を詳しく観察するためには、適切な処理が必須だと書きました。こと標本画を描くともなれば、こういったいくつもの下準備が必要になってきます。これらは、とても面倒なことに思われるかもしれません。確かに、手先の細かさや根気を要しますし、慣れもまた要ります。しかし、この解剖そのものに、手先の作業ひとつで未知の世界が眼前に拓けてくるという、他に代えがたい楽しみがあるのです。そこで今回は、その解剖について、さらに一歩踏み込んで紹介することにします。

 私は描き手ですので、言うまでもなく対象を正確に描く目的から解剖をするわけですが、実は虫の体の成り立ちやありようが分かってくるにつけ、「この複雑な構造を描き切ってみたい」といった活力が湧いてくるのです。己の野心が徐々に頭を持ち上げてくると言えるでしょうか。

 

カブトムシは、何個の部分から成っているのか?

 ひと口に「昆虫の体(外骨格)は細かな部分から成っている」と言っても、一体何個の、いかなる状態の部分から成るのかは、イメージはし難いことと思います。そこで、それらを一目瞭然に示した写真を挙げてみましょう。私が以前に勤務した、博物館での展示用に作った標本箱です(図①)。中に収められている一匹のカブトムシは、全身をばらばらに分解されています。半ば遊び心から拵えたものですが、甲虫の体について今一度復習してみようという気持ちと、カブトムシはおおよそ何個の部分から成っているだろうか?という素朴な興味も背景にありました。せっかく分解するのだからとことんばらしてやろう、とも。

 

【図版① 「カブトムシのばらばら標本」 展示用に、遊び心で作ったもの。乾燥標本を水酸化ナトリウムで煮て、内部の筋肉などをすべて溶かし出してから分解した。外骨格から成る昆虫は、多数の板や節片(部分)の集合で形作られている。誰しもが馴染みの深いカブトムシを例に、おおよそ何個ほどの部品から構成されているのかを示した。2012年に制作。 ©川島逸郎】

 

 まず、頭部に胸部、腹部と大きく三つに分離してから希釈した水酸化ナトリウム溶液に漬け、よく煮込んでタンパク質などを溶かします。溶けた内容物を取り除いて各部分を取り外し、切り離してゆくのですが、分離するのは関節のほか、板同士を分かつ縫合線の部位になります。こうした処理を行うためには、形態学の知識が必要です。こう書くとまたハードルを上げてしまいそうですが、昆虫の体を本格的に理解しようと思えば、事前の学びも欠かすわけにはいきません。

 結果として152個の部分に分割できましたが、実際には、その数はさらに多くなるでしょう。なぜなら、部位同士が融合していて、本来はあるはずの縫合線が消え、分離できない部分があったからです。しかし、たとえ完全にばらせなかったとしても、節の分かれ方や縫合線の走り方の確認を踏まえて昆虫の体を観ることは、正確な絵に描くに当たり大変に有効です。

 

ゲンジボタル幼虫のスケッチから

 さて、この原稿を書いている現在の私はというと、ゲンジボタルの幼虫を観察して取った多数のスケッチを元に、体のあちこちの部分図を制作しています。日本人には馴染みの深い蛍ですが、その幼虫形態について、私自身はあまり詳しく調べてはこず、改めて自分の目で観察し直そうと考えたのです。観察作業最前線の生々しさを皆さんにも感じ取っていただけるのではないかと考え、あえて下絵の前段でもあるオリジナルスケッチ(図②〜⑤)をお目に掛けたいと思います。

 幼虫の頭部ですが、胴体の大きさの割に小さいものです。その上、生きた状態では前胸の内部に引き込まれていることが多く、普段は外側からは中々よく見えません。この状態のままでは観察ができないので、標本(アルコール浸け)の胴体から頭部だけを取り出します。アルコールで固定された前胸部から頭部を取り出すのは中々に骨が折れますが、両側の側面膜質部を慎重に裂いてゆき前胸の腹面から完全に開いておいて、その頸部を切り離すことによって行います。無事に摘出できたときの安堵感や達成感は、とても一言では言い表せないほどです。

 ただし、本当の闘いはここからです。頭部は、生物(光学)顕微鏡での透過光を通して観察しますが、頭蓋の色素沈着が強く濃褐色に染まっている上に、内容物があると光がうまく通らず、表面構造が分かりません。そこで、まずは内容物をきれいに除去しなければなりません。半日から一昼夜、希釈した水酸化ナトリウム溶液に漬け込み、タンパク質などを溶かします。溶解して半ば液体状になってくれれば取り出しやすいのですが、結合組織などの繊維といった残渣がどうしても残ります。それらは、これまた第5回に書きましたが、先を曲げた微細な針の先端などを使って、時間を掛け、粘り強く除去してゆきます。しかし、頭蓋の内部を空にすることができたなら、もう成功したのも同然です。きれいにクリーニングがなされた頭部の標本を顕微鏡下で覗きながら、私はまた、描くことへの野心を滾らせることになるのです。今回お見せした一連のスケッチから、私はどのような本画を仕上げたのか? それは、後の回でお目に掛けることにしましょう。

 

【図版② ゲンジボタル幼虫のスケッチ(頭部背面) 下絵を作る前段のスケッチは、顕微鏡下で取る。ゲンジボタル幼虫の頭蓋背面を、胴体から切り離してから描いている。濃い褐色の色素で染まっているので、やはり内容物を溶かし出してから透過光で観察する。毛が密生した前縁には上唇がないこと、「Y」の字状の裂開線が、観察や図示すべき最大の特徴。2021年に制作。 ©川島逸郎】

【図版③ ゲンジボタル幼虫のスケッチ(頭部腹面)  図②に同じく、幼虫の頭部腹面をスケッチしたもの。ホタル科の幼虫は頭蓋腹面が大きく縦に開き、左右一対の小あご(Cd、St、Mxplpとある部分)や下唇(Lbとある部分)がはまっている。観察の邪魔になる内容物を除去した上でそれぞれの境界線を見極めなければ、それらの線を正しく引くことはできない。2021年に制作。 ©川島逸郎】

【図版④ ゲンジボタル幼虫のスケッチ(触角) 幼虫の触角は3節しかない。ここでは、大きな節に見える基部の膜質部から描いている。全体的な造りはシンプルだが、先端にある第3節がきわめて短く小さいことに加え、同じような大きさの感覚器と並んでいる点に注意する必要がある。加えて第3節の先端には、さらに微小な2個の感覚器があることも見過ごせない。2021年に制作。 ©川島逸郎】

【図版⑤ ゲンジボタル幼虫のスケッチ(大あご)  大あごは、獲物を麻酔するとともに消化液を注入する「注射針」である。内部に一本の管が通り、先端には穴が開いている。その内部構造は透過光を通さなければ明瞭に把握できないので、頭蓋から取り外した上での観察が必要になることも多い。光を通すことで、表面に並ぶ毛の生え具合も鮮明に捉えることができる。2021年に制作。 ©川島逸郎】

 

 

(第8回・了)

 

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本連載は隔週更新でお届けします。
次回は2022年1月26日(水)に掲載予定