梅崎春生という作家がいた。
1915(大正4)年生まれで、文学史では野間宏、椎名麟三などと第一次戦後派作家のひとりとされているが、文学好きでもなけれ「誰、その人たち…」という感じだろう(ちなみに野間宏は『作家の戦中日記』の中で友人たちからは野獣と呼ばれて、痴漢行為、猥褻行為を行う姿も記録されていて徹底した自己曝露は正直、彼の小説より面白い)。
梅崎は「ボロ家の春秋」で直木賞を受賞していて他にも、「桜島」「幻化」などの作品を残しているが、これらも、聞いたところでピンとこない人がほとんどかもしれない。
ウェブ連載は名前が知れている人の方がウケは良いのはわかっているのだが、なぜ、そう知りながら梅崎を取り上げるかというと、本連載は編集者からの「梅崎春生みたいな一見、怠惰な偉人を取り上げて本にしたい」と依頼を受けて始まったことを思い出したからだ。当時、その編集者はバリバリの実用書をてがける出版社にいたのでかなり驚いた。私は梅崎が好きだったので、依頼は嬉しかったが「バリバリの実用書の会社でこんな企画を出すなんて、この人は会社で居場所はあるのだろうか、転職でもするのかしら」と余計なお世話だろうが、思っていたら本当に転職し、この連載が始まった。
いかに梅崎が一見、怠惰だったのか。自分で「怠惰の美徳」というエッセイを書くくらい怠惰だったのだ。エッセイでは当時の生活を記しているが、これが救いようがないくらい怠惰だ。
「私は近頃毎日八時頃起き、朝飯を食べ、それからまた寝床に這い込んで横になる。ぼんやりとものを考えたり、本を読んだりしている。午後一時ごそごそと起き出して昼飯を食べ、またあわてて寝床に這い込む。三時頃にしぶしぶ起き上がり机に向い、六時頃まで仕事をする。それから夕刊などを読みながら、九時頃までかかって晩飯ならびに飲料を摂取する。九時半にはもうぐうぐうと眠っている。決して勤勉な生活とはいえない。典型的な怠け者の生活である。しかし自前で怠けている分には誰にも後ろ指さされるいわれはない」
(「怠惰の美徳」)
起きてから3時までほとんど寝床にいる上に、1日3時間労働である。作家というものはそういうものかもしれないが、梅崎は作家になる前からこの調子だった。
旧制高校から東京帝大に進むが、大学の講義には出席せず、就職試験は全滅する。役所に嘱託として潜り込むが、当然のことながら、職に就いたからといって働く意欲がいきなり湧くわけもない。
「朝出勤簿にハンコを押すと、あとはもうほとんど仕事がない。昼飯を食べるのが仕事らしい仕事で、退庁時間までぼんやりしている。ぬるま湯に入っているような毎日であった。
しかし私はこの生活は苦痛でなかった。生れつき私はじっとしているのが大好きで、せかせか動き回ることはあまり好きでない」
(「怠惰の美徳」)
戦中は軍隊に召集され、復員後、作家になるも、これまた生活は変わらなかった。いや、怠惰だから作家になったのか。会社勤めであろうと自営業だろうと、ぼんやり暮らした。
とはいえ、ただただぼんやりしていていては一日が長い。「怠惰の美徳」には書いていないが、梅崎はかなりの量の酒を飲んでいた。酒飲みは誰でもわかるが、17時くらいからだんだん記憶が怪しくなり、気づいたら夜中だ。酒のみにとって一日は長いようで短い。ぼんやりしていてもあっという間なのだ。晩年は酒浸りになり、肝硬変で死ぬが、若いときから酒は常に隣にあった。
1943(昭和18)年の梅崎の日記を読み返したら、1週間のうちに5日は飲んでいて、それも毎回、確実に泥酔していたという。当時は物資も少なくなり、酒も個人には配給制、店に割当制になっていたことを考えると、かなり必死にならないと酒にはありつけない。ぼんやりしているのに酒にだけはまじめだったのだ。
1944(昭和19)年に海軍に召集された後も酒との縁は切れない。まともな酒などない時代なのだが酒が欲しくて、仲間と燃料用のメチルアルコールを飲んでいる。そんなことしていたら、いつ死んでもおかしくないと思うのだが、実際、危うく死にかけたこともある。
短編小説「蜆」の中になぜ酒を飲むか、梅崎の思想がわかる記述がある。
なぜ、酒を飲むのかと聞かれた男が「退屈だからだよ」と答える。退屈だと何で飲むのかとさらに尋ねられると男は偽物にあふれる世の中を嘆き、こう語った。
「俺はにせものを見ていることが退屈なんだ。だから酔いたいのだ。酔いだけは偽りないからな。酔ってる間だけは退屈しないよ」
退屈だからといって飲んでいたらアルコール依存症まっしぐらに思えるが、実際、まっしぐらだった。それでも梅崎は飲み続け、酒を題材にした多くの小説を書いた。
梅崎は1964(昭和40)年に50歳で亡くなるが、40歳くらいから体調が芳しくなかった。うつ病と診断されたこともあったがそれはアルコールに起因していた可能性が高い。死の2年前の1962年には泥酔して顔面を怪我し、1週間後に吐血する。大量飲酒による肝臓障害が原因だったので1週間ほど禁酒するのだが、回復するや、飲酒を再開してまた吐血する。そんな飲みっぷりだから体はボロボロでその年の年末に、検査を兼ねて武蔵野日赤病院に入院する。肝臓癌の疑いから39年の年明けに東大病院に転院し、3月に退院する。肝臓癌ではなかったが、肝硬変だった。
退院後はさすがにしばらく禁酒していたが、いつのまにか飲酒を再開する。もちろん、家族は酒を飲まないように見張ったが、梅崎はウイスキーを書棚やゴミ箱、玄関の植込みの中などあらゆる場所に隠した。見つかったら、さらに見つけられにくい場所に隠して飲み続けた。
死ぬ2カ月前には飲みに出かけて、タクシーで埴谷雄高に送り届けてもらおうとするが自分の家がわからなくなって家の近くをぐるぐるとひたすら巡回する。らちが明かないので、交番を探して、埴谷が電話を借りて、自宅に電話して、なんとか家にたどり着く。
当然、家族以外も酒を控えさせようとした。作家の遠藤周作がそのひとりだ。梅崎は遠藤をかわいがっていて、遠藤も梅崎をヘンテコな兄貴と呼んで慕った。実際、かなりヘンテコで、梅崎は酔っ払うと遠藤家に電話をかけた。半年くらい毎日、梅崎から電話があった時期もあったが、もちろん用事などない。それでも、毎日、架けてきてはいつも20分くらい話し続けたという。遠藤はいつも酩酊している梅崎に禁酒をすすめたが、そのときの反応が興味深い。
「君あ、酒がぼくの文学だということがまだわからないのか」
(遠藤周作「梅崎春生」)
梅崎は遺作となった「幻化」で戦中から戦後にまたがる自身の歩みを描いた。梅崎の分身の主人公は自分が配属されていた鹿児島を訪れ、戦争を追想するが、ひたすら飲んでいる。鹿児島に着くや機中で知り合った人物と飲み、枕崎でも飲み、坊津への移動中も酒を買い求めている。
梅崎はデビュー直後に随筆「茸の独白」ではこう書いている。
「私は私小説的精神と訣れよう。俳諧とも風流とも訣れよう。義理人情とも訣れよう。何物にも囚われることを止そう。そして何も持たない場所から始めて行こう。自分の眼で見た人間世界を、自分で造った借物でない様式で表現して行こう」
酒について書くのならば体がどうなろうが飲まないわけにはいかない。梅崎にとっては飲むことが仕事のひとつだった。依存症といわれようが、それが作家としての職業倫理だった。
「(元大臣)とか(元技師)とかそんなのはよくあるが、(元作家)と言うのはあまりまだ見たことがない。作家というものは、一度なってしまえば、死ぬまで作家なのである」
(「真の作家ということ」)
梅崎は身の回りにいたら、だらだらした怠惰なおじさんかもしれないが、作家としてあり続けた。常人には理解できない「怠惰ではない日々」を死ぬまで送ったのだろう。
今回の教え: 酒飲みの一日は短い。
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