小学生の頃、体育をほとんど見学している同級生がいた。
 運動がキライなわけでも、親御さんに特別な思想があるわけでもなさそうだった。もちろん、体操着を忘れ続けたわけでもない。いまでも、なんの理由で見学していたかわからないが、冬になるとよく風邪で学校を休んでいたので病弱だったのだろう。
 当時、僕らの遊びといえば野球だった。彼は西武ライオンズが好きで「カリブの怪人」と呼ばれたオレステス・デストラーデのバッティングフォームを真似ていたが、実際にバットを振ることはなかった。野球といっても公園でカラーボールとプラスチックのバットで遊ぶようなレベルだ。それでも彼は参加しない。代わりに審判をやったり、スコアをつけたり、「そこはバントだろ!」と監督気取りで指示を出したりしていた。
 ある時、担任の先生がみんなの前で彼を「体は弱いけど、クラスで一番野球に詳しいよね」と褒めた。確かにそうだった。彼は実際にプレーしない分、テレビで試合を見まくり、選手の打率や防御率を全部暗記していた。動けないからこそ、違う形で野球を極めていた。
 世の中には頑張りたくても頑張れない人がいる。だが、そういう人ほど、普通とは違う道を見つけるのがうまい。サボりたくないのにサボらざるを得ない状況を、むしろ武器に変えてしまう。そんな逆転の発想は、実は偉人の世界でも同じだ。いや、むしろ偉人の中には、その「サボらざるを得ない」状況を「サボることの価値」に転換した者すらいる。
 松下幸之助といえば、パナソニック(旧松下電器産業)を一代で築き上げた「経営の神様」として知られる。その影響力はいまだに大きく、著書『道を開く』(PHP研究所、1968年)は21世紀になっても毎年のように重版され、発行部数は累計570万部をこえる。
 このロングセラーにはいくつも理由はあるだろうが、まず内容が平易で誰でも読め、書いていることに思わずうなずかされるところが大きい。「人間同士の礼を失わない」「人生観と信念を持って人生を生きる」。何も特別なことは言っていないのだが、松下幸之助に言われると「やっぱり、人生とはそういうものなんだね」と、うなずいてしまう。いつの時代も何を言うかではなく誰が言うかが重要なのだ。「自分は宇宙に生かされていると感謝する」なんてちょっとスピリチュアルなスパイスがきいた言葉ですら幸之助に言われると納得させられる自分がいる。「そう、コスモのパワーが私たちを生かしてくれるんだ!」と明日から水素水をガブガブ飲んでもおかしくない。つまり、松下幸之助とは「何を言ってもありがたい御託宣に聞こえる、生きた神様」みたいな存在といっても言い過ぎではないのだが、面白いことに、この神様、実はめちゃくちゃサボりたがりでもあった。松下が「経営の神様」の地位を築けたのも、実は病弱だから生み出せた「意識的にサボる技術」と無縁ではなかったのだ。体が動かないことと、戦略的に動かないことは違うが、幸之助は、前者から後者の価値を発見したのである。
 1894年、幸之助は和歌山県の農家の末っ子として生まれる。「貧しい農家の生まれで苦労を重ねた」と生い立ちが語られがちだが、これはちょっと違う。生家は小地主で父親は村会議員も務めており、偉人の伝記によくある極貧家庭ではなかったが、父親には欠点があった。山っ気が強かったのだ。一攫千金を狙い、米相場で勝負に挑むが大失敗し、家を手放し、夜逃げ同然に一家でトンズラする。そこで家族で下駄屋を始めるが、うまくいかない。食うのにも困り、幸之助は9歳で小学校を中退し、大阪の火鉢店に丁稚奉公に出る。朝から晩まで働き詰めの日々が続く。その後、自転車店、大阪電灯会社(現在の関西電力)へと職を変える。
 一所懸命に働き、仕事ぶりは評価されていたが、いかんせん学がない。今以上に会社で出世するには学歴の壁は高かった。「あまり出世できないだろうな」と思っていると、血を吐く。19歳だった。すでに父母、兄弟が相次いで結核で亡くなっており、死を覚悟する。「もうおしまいだ」と医者に行くと診断は肺尖カタル。結核ではなかったが予断を許さない。医者からは「実家に帰って養生しろ」といわれたが、戻る実家なんてない。
 当時は、社会保険もない時代だ。働かないと食えない。でも、働けない。3日行っては1日休み、1週間行っては2日休み、騙し騙しの状態で勤務を続ける。1年くらい経つと小康を得たが全快には至らない。「こんな状態ではいつまでも会社勤めを続けられない」と考えるようになる。いつ、また体調が悪化するかわからない。会社に勤めないで自分で事業をすれば、自分のペースで働ける——いや、もっと正直に言えば「好きなときに休める」。22歳のとき独立を決断する。これが後のパナソニックになる。
 幸之助には壮大なビジネスプランがあったわけではない。会社にいても未来がない、それならば独立しよう。だから、最初はお汁粉屋を始めようとしていたくらいだ。単にお汁粉が好きで、「一日中お汁粉を作って、疲れたら店を閉めて、気が向いたら開けるくらいの商売がいいな」とでも思っていたのだろう。ガツガツ働く気はさらさらなかった。結果的に妻がお汁粉屋の開業を嫌がったので、電気器具の会社を立ち上げた。あくまでも「体に無理せず、楽して稼ぎたい」が起業の動機であり、パナソニックの原点は「いかに効率よくサボるか」だったのだ。
創業からわずか数年後に幸之助は再び体調を大きく崩す。医者からは安静を命じられる。普通の経営者なら、ここで事業を諦めるか、規模を縮小するだろう。ところが、幸之助は違った。「体が動かんのやったら、動かんでも儲かる仕組みを作ったらええ」どこまでもポジティブだ。─この究極のサボり思考が、日本企業史上に残る革新的な経営システムを生み出す。事業部制の導入だ。
 1933年、幸之助は事業部制を導入する。ラジオ部門、電池部門、配線器具部門各事業部に大幅な権限を委譲し、それぞれが独立採算で運営する。各事業部長は、まるで一つの会社の社長のように、仕入れから販売、人事まで幅広い権限を持つ。幸之助が病床にあっても、いや、正確に言えば「今日は調子いいけど、あえて寝とこ」という日でも、各事業部長が自律的に判断し、事業を推進できる。
「任せて任せず」——これが幸之助の経営哲学だった。仕事は部下に任せるが、完全に放任するのではなく、要所要所で確認し、指導する。体が弱くて常に現場にいられないからこそ生まれた、絶妙な管理手法だった。
「衆知を集める」経営も早くから実践していた。自分一人の知恵には限界がある。ましてや病弱で動けない日が多い自分には、なおさらだ。だからこそ、社員一人ひとりの知恵を結集する必要があった。新入社員でも意見を言える提案制度を設け、現場の声を積極的に吸い上げた。これも見方を変えれば「自分で考えるのをサボって、みんなに考えてもらう」システムだ。
 幸之助は昭和20年(50歳)くらいまでは寝たり起きたり、養生をしつつ経営に当たった。面白いのは、彼が「働けない」と「働かない」の境界線を曖昧にしていったところにある。最初は病気で働けなかったが、次第に「自分ががむしゃらに働かないほうが会社は成長するのでは」と気づき、意識的にサボるようになる。「今日は調子がいいけど、あえて寝とこ」──そんな日もあったに違いないのだ。そしてその選択が、結果的に会社の成長を加速させた。
 1965年に日本で初めて導入した週休二日制もその延長線上にある。高度経済成長期の真っただ中、誰もが24時間戦っていた時代に、あえて休みを増やす逆張りの決断を下した。周囲からは「そんなことをしたら競争に負ける」「甘やかしすぎだ」と猛反対されたが、幸之助は譲らなかった。
「一日休養、一日教養」
 週休二日の意義をこう表現した。土曜日は体を休め、日曜日は教養を高める。自分自身が病弱で休まざるを得なかった経験から、人間には適切な休息が必要だと身をもって知っていた。何より、「みんなでサボれば怖くない」という真理を理解していたのだろう。
 実際、週休二日制導入後も松下電器の業績は順調に伸び続けた。むしろ、優秀な人材が集まるようになり、社員のモチベーションも向上した。残業も減り、効率的な働き方が定着した。「サボることを制度化」したら、会社はもっと強くなったのだ。
 幸之助は、自分の弱さを隠そうとはしなかった。成功の理由を問われると「学歴がなかったからや。家が貧しかったからや。体が弱かったからや」と必ず答えた。弱点があったからこそ、常識にとらわれない革新的な経営システムを構築できた。そして何より、「できるだけ楽をしたい」という人間の本音に正直だったから、誰もが働きやすい会社を作れた。
 興味深いエピソードがある。ある時、幹部社員が「社長、もっと体を大切にしてください」と心配すると、幸之助はこう答えたという。「君らが心配することはない。わしが倒れても会社は回る。そういう仕組みを作ってきたんや。むしろ、わしがおらんでも回る会社こそ、本当に強い会社や。わしは毎日お汁粉でも食べとったらええねん」——最後のお汁粉の一言は私の創作だが、きっと心の中では思っていたはずだ。
 幸之助は94歳で亡くなる。結局、死を覚悟してから70年以上生きたことになる。「サボりながら」長生きし、「サボりながら」巨大企業を築き上げた。それは、サボることを単なる怠惰ではなく、戦略的な選択として昇華させたといえるだろう。
 幸之助は二宮尊徳の「道徳なき経済は犯罪であり、経済なき道徳は寝言である」という教えを、生涯大切にした。そして、幸之助はそこに新たな真理を加えたのかもしれない。「休息なき労働は破綻であり、労働なき休息は堕落である」。働くことと休むことのバランス、そして何より「いかに上手にサボるか」こそが、持続可能な成功の秘訣なのだ。働き方改革が叫ばれる今、大切なのは「自分がサボっても価値を生み出し続ける仕組み」があるかどうかだ。お汁粉屋になり損ねた男が残した最大の教訓は、「本気でサボりたいなら、まず本気で仕組みを作れ」ということかもしれない。
 病弱な少年時代を過ごし、94歳まで生きた幸之助。きっと天国では「今日は調子いいけど、あえて寝とこ」と言いながら、雲の上でゴロゴロしているはずだ。「経営の神様」ではなく「サボりの神様」と呼ばれていたら嫌だけど。
今回の教え:みんながサボっても大丈夫な組織を作れ。
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