なんちゃって筆跡診断
職場で、出先で、まちなかで、人の筆跡を見るのが好きです。
好きだといっても、字の上手さを見て感心しているわけではありません。ただ単に、世の中の人たちがどんな字を書くのか知りたいという好奇心が止められないんです。筆跡からその人がどんなタイプの人なのかを想像するのも、好き。
これは誰しも感じたことがあると思いますが、わたしのこれまでの経験上、学校で習った楷書に近い字をかっちりと書く人は、どこか完璧主義っぽい人が多い気がします。大胆な書きっぷりでのびのびした字を書く人は、気持ちのおおらかな人。字があっちこっちへ奔放に散らばっていたり、大きさが不揃いだったりする人は、まあいっかの許容範囲がとにかく広い人だったり。
では、文字のどのあたりにそういうニュアンスが感じられるかというと、「はね」や「はらい」のくせ、線の勢い、文字自体の傾きやバランスなどが大きなポイントです。
例として、みなさんもよく使っているかもしれない「よろしくお願いします」という言葉から、「願」の一字をとりあげてみます。ひらがなより漢字のほうが画数が多く、筆跡のちがいがわかりやすいと思うので。それでは、いくつかの異なる書き方を並べていきます。

漢字ひとつとっても、いろんな書き方がありますよね。
「原」と部首「頁(おおがい)」に分けて、まず「原」のほうから見ていきましょう。
まず一画目は、右肩あがりだったり、真横だったりしますね。二画目のはじまりは、一画目に接しているものと離れているものの二パターン。それに、最後のはらいがきちんと外に向かっているものもあれば、内に巻いているものもあります。
つづいて、「白」全体のフォルムは、真四角タイプと、下のほうがすぼんでいる植木鉢タイプにざっくり分けられます。個人的には、「白」の三画目のぽきっと折れている部分は丸みがあるほうが好きです。
「小」の一画目の最後のはね方もいろいろ。わたしは書き順の流れにしたがって、ひかえめにはねるタイプです。
頁のほうは、一~三画目のつながり方に個性が光ります。「自」を見てみると、横線に区切られた空間が均一だったり、横線が中央にぎゅっと寄っていたり、そもそも横線が一本もなかったり。
最後の八、九画目の長さのバランスや位置もみんなそれぞれです。この二画を人間の足に見立ててみると、仁王立ちしているような字もあれば、陽気に踊っているような字もありますね。
というわけで、ここで、わたしの考えと少しの偏見(?)をもとに、なんちゃって筆跡診断をしていきたいと思います。

まずは、先ほどの例の上段三つから。
一番左は一画一画がシャキッとしていて、なにか揺るぎない信念がありそうです。誰かに指導するよりも、自分でやったほうが早いと思っているタイプでしょう。
中央の筆跡は、文字が着物を着ているみたいにピシっとしているので、かなり几帳面そう。仕事では厳しいご指導、ご鞭撻をいただけそうな予感。きっと、飲みにいった席ではじめてこの人の笑顔を見られると思います。
右の字を書いた人はたぶん姉御肌。時間をかけなくても、さらりと見やすい字を書いているように感じられます。大概のことはそつなくこなしていそう。

つづいて下段の三つです。
一番左の筆跡はほとんどの画どうしがきっちり接しているので、真面目な人だと思います。ものごとの基本には忠実に、応用には慎重に取り組んでいそう。
中央の筆跡は見慣れています。なぜならわたしが書いたから。ですので、飛ばします。
右の字は一見バランスが悪そうだけど、一歩引いてみると整っているように感じられます。社交的な自分でいる時間と、ひとりで過ごす時間とのバランスをじょうずに保っているタイプでしょう。
ところで、筆跡にはいつもどこかしらにその人の「書き方のくせ」が表れるそうです。利き手ではない手で書いてみても、その人の筆跡だとバレてしまケースが少なくありません。
すでにお気づきの方もいらっしゃるかと思いますが、六つの例はじつはすべてわたしの筆跡です。友人たちに手書きの文字を書いてもらったうえで、みんなの性格をああだこうだと言うのはどうにも心苦しく、ひとり芝居を打ってみました。
わたしの筆跡の擬態、うまくいっていたでしょうか。
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「ちゃら字」でごめんね
配達荷物の受け取りサインを書くのがきらいじゃない。
鈴木、とたった二文字を書くことのなにが楽しいのか自分でもよくわかりませんが、受け取りサインが不要な場合には、なんだか拍子抜けしてしまいます。
サインが必要なとき、うちでは玄関脇の柱がいい下敷きになります。配達の方が送り状からぺりぺりとはがした配達票がくるっと丸まっても問題なし。わたし、うまくやれます。
こういうとき、だいたい配達の方の足はすでに車へ戻ろうと向きを変えていますよね。なんとなく急かされているよう空気のなか、五秒でさっと書きあげて任務完了です。
わたしの地元岡山では、前述のサインのような筆跡を「ちゃら字」や「ちゃら書き」と呼んでいます。走り書きや殴り書きといった意味です。ただ、わたしの感覚では、ちゃら字と走り書きはちょっと別物で、受取伝票への走り書きサインは「ぱぱっと書いた適当な字」と言ったほうがしっくりきますね。
たとえば、かろうじて読める程度の筆跡で、自分用に書いたメモをそのまま誰かに共有しないといけない場面があったとします。
そういうときには、「ちゃら字でごめんね」とか「ちゃら書きだから読めないかもしれないけど」と言い添える。手紙でいうところの「乱筆にて失礼いたします」のようなものです。
ちなみにわたしのちゃら書きは、偏やつくり、冠(かんむり)などの部首を中心にパターン化しています。

こんな感じで、お好み焼きのうえで踊るかつお節のように、くりんくりんになるのがチャームポイントです。
ちゃら書きだと、普段の字よりぎゅっと縮まるか、字の書きはじめや書き終わりが両手を広げたように広がるか、どちらかになるパターンが多いと思います。
わたしの筆跡は、見てのとおり後者の広がっているタイプです。画数の多い漢字は端(はな)から書きません。三鷹は三タカに、冷蔵庫は冷ゾウ庫に、といった具合で。
反対に、普段の字より縮まるタイプの人はわたしみたいに横着せず、漢字で書きはじめた単語はすべて漢字で書ききっている印象です。画数が多い字を正確にすばやく書こうとした結果、線が部分的につながってぎゅっとして見えるのかな、と推察します。
そもそも、ちゃら書きをしない人だっていますよね。
実際に、以前そういう方といっしょに仕事をしたことがあります。あるとき、その女性の先輩が「汚い字でごめんねぇ」と直筆のノートだったか紙だったかを見せてくれました。助かりまーす、なんて言いながらそれを受け取って見てみたら、謙遜するにも程がある字のきれいさで絶句しました。
○○さん、本物のちゃら字、見ますか?
危うく、そう言ってわたしのちゃら書きメモを先輩に差し出しそうになりました。過度な謙遜は心臓に悪いので、ぜひやめていただきたいなと思ったできごとです。
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三七度五分のちいさな手紙
文房具屋や紙ものイベントへ行ったとき、一筆箋やメッセージカードがずらりと並んでいると胸が高鳴ります。
敬愛するイラストレーターのグッズに飛びついたときの多幸感。あれもいい、これもいい、と目移りしながら、これまで知らなかったアーティストの作品に出会えたときの静かな興奮。
手軽に言葉と気持ちを贈ることができるうえに、コンパクトなサイズで種類豊富だなんて、最高すぎる。つい惹かれ、考えるより先に手にとってしまいます。
一筆箋は文字を書くスペースがだいたい五~七行ほど。イラストで縁取られた罫線なしのものもよく見かけます。メッセージカードはもともと罫線が引かれていないものが多いです。わたしは手のひらサイズで白色無地、すこし凹凸がある風合いのカードをよく選びます。
文字を書くスペースが限られているという窮屈さが、かえってちょうどいい。伝えたいことを簡潔に伝えることができるのは潔くて、気持ちがいいことだと思うから。
十年ほど前、楽器店で働いていたころ、商品を発送するときは一筆添えるものだ、とお店の大先輩から教わりました。使うのは、A4のカラー用紙を四等分に切り分け、かわいい枠で飾っただけの簡単なカードです。
地域に根づいていたそのお店は、人と人とのつながりをとても大切にしていました。こうやって手書きでお礼をしたためるというささやかな心遣いが積み重なって、信頼を築きあげていくんだな、とリアルに感じたものです。それ以来、A6サイズのちいさなカードにひと言書き添えることがわたしの日常になりました。
いまでも相変わらず、なにかを発送するときは、必ずひと言手書きのカードを添えています。
作品集やオリズナルグッズを販売するオンラインショップをほそぼそと運営しているのですが、ありがたいことに、時折そこで商品を購入してくださる方がいらっしゃいます。商品を梱包するとき、併せてメッセージカードの準備も欠かせません。むしろ、お礼や感謝の気持ちを書かなくては発送できないとさえ感じます。
手書きの文字にはあたたかさがある、とよくいいますが、インクを通して紙に移った書き手の体温が、目で言葉を追っていくうちに相手に伝わっていく。そんなイメージを思い浮かべながら、毎回メッセージをしたためています。
便箋はもちろん、裏紙であれ、ちょっとした付箋であれ、メッセージが直筆で書かれているものはどれも手放せません。書類をまとめているワゴンの一画にスペースを設け、あらゆる手書きの文字たちをそこで大切に保管しています。
たまにふっと手を伸ばし読み返してみると、やっぱり書いてくれた人たちの体温がいまだに感じられる。夜中にホットココアを飲んだときみたいに、こころが落ち着くんです。
あのとき、たしかにそれを書いた人がいて、わたしがそれを受けとった。その事実だけで十分な気がします。
大切に包んだグッズのそばにちょこんと添えた手書きのカードを通して、三七度五分くらいの微熱な気持ちがすこしでも届いたらいいな。祈るように、そう思っています。
(第3回・了)
本連載は、隔週更新です。
次回:2025年12月5日(金)掲載予定

