犬(きみ)がいるから 村井理子

2017.5.30

01犬(きみ)がいるから

 

 わが家に黒ラブのハリーがやってきてから、早いもので数ヶ月が経った。これを書いている今も、真っ黒で、妙に温かい生きものが私の足下にいる。左足の上にどっかと座られているので、すごく重い。そろそろ体重は20キロに届いているはずだ。成犬になったら30キロを超えると言われている大型犬で、その成長スピードたるや、まるで化け物だ。つまり、ふわふわの毛が生えた、かわいらしいタイプの犬ではない。ひょいと持ち上げられた時期はとうに過ぎた。盛り上がった筋肉がしっかりとした骨格に絡みつき、まるで荒々しい山を思い起こさせるような、そんな犬だ。
 そのうえ、どうもこの犬は、パーソナルスペースってものを理解できないらしい。どこへ行くにもついてきて、常に足下で待機している。トイレも風呂も、私にプライバシーなんてものはないような雰囲気だ。「ちょっと邪魔なんだけど」と声をかけると、ゆっくりと私に視線を向ける。ギロリと音が聞こえそうである。漆黒の瞳を、まっすぐ、意味ありげにこちらに向け、射貫くような視線を投げてくる。「どいてよ」「いや、決してどかぬ」の攻防戦である。
 日増しに広く、大きくなる額。その横に、完璧なまでのバランスで配置された大きな耳。まっすぐ伸びた鼻梁、きっちりと閉じられた口吻。短くて、黒い被毛はビロードのようで、どこまでも美しく、滑らかだ。突然押し寄せてくる感情を抑え、冷静さをなんとか保ちながらも、こう思わずにはいられない。
 ああっ、この子、どうしようもなくイケワンだわ!

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 まさか自分がラブラドール・レトリバーを飼うなんて、夢にも思っていなかった。昨年の夏に、長年共に暮らした老犬を失ってからは、犬は諦めるべきだと思いはじめていた。ペットを失う強烈な痛みに、再び耐えることなんて不可能だと思っていた。新しい命を迎えるのであれば、それをいつの日か必ず失うことも同時に受け入れなければならない。もう一度それが私にできるだろうかと自問自答していた。感情的な葛藤に加え、老犬をなんとか楽に旅立たせようと奮闘した結果、私の蓄えは底をついていた。動物を飼うことには大きな責任が伴い、それには当然お金も必要なのだ。
 それなのに、まさか大型犬がわが家に来るなんて、想像もしていなかった。一年前の私に、「未来のアンタは大型犬と暮らしています」なんて言ったら、「またまたぁ」と、決して信じようとはしなかっただろう。なにせ、わが家にはすでに大型犬と同じぐらいパワフルな11歳の双子男児がいる。それに、もう40代も後半にさしかかるという私に、大型犬との暮らしなんて、体力的に無理に決まっている。まさか、大型犬なんて、ねえ……。
 実は、大型犬に対する強い憧れは、子供の頃からずっと抱いてきた。一度でいいから大型犬と暮らしてみたいと、ずっとずっと考えてきた。温厚な性格と、大らかさ。常に人間に寄り添うやさしさ。大型犬の魅力はひとことでは言い表すことができないし、無理に言い表そうとがんばると、「大型犬、すごくいい!」という、小学生男児みたいな言葉しか出てこなくなるくらい好きなのだ。老犬を見送った痛みも、時とともにある程度は癒えた。元来、相当な犬好きの私は、犬との生活をぼんやりと夢見るようになっていた。
 警察犬を引退したラブラドール・レトリバーの里親を捜す警察犬訓練所のサイトを頻繁に見ているくせに、「無理無理無理」と、顔の前で両手を振っていた。残念ながらわが家はその犬の里親になることができなかったけれど、それでも連日、そのホームページを見ては、いいねぇ、素敵だねえとため息をつく日が続いた。そして運命のある日、そのページに子犬の出産情報が掲載されたのだ。高鳴る胸を抑えつつ、見てみた。
 ぬおおおお! なんなんだ、この黒い塊は!!
 そして、来ちゃったのである。真っ黒で、ふわふわで信じられないほどかわいいのに、妙にやんちゃな黒ラブが、わが家に来てしまったのだ。わが家にやってきたその日こそ神妙な顔つきで大人しかったものの、二日目にはすでに本領を発揮、走り回り、飛び跳ねていた。ケージに入れようものなら、この世の終わりかというほど鳴き声をあげ、外へ出せと要求した。抱き上げると、ウルウルの瞳で私を見て、まるで「助けてくれてありがとうございます」と言わんばかり。その表情に油断した瞬間、がぶりと私の手に噛みつくのであった。
 わが家に到着して一週間後には、破壊活動を開始した。その熱心さたるや特筆に値する。そして今に至る(何もかもボロボロ)、である。破壊されたものは数知れず、家具という家具にはすべて歯形がついた。昔、「男の子の双子がいたら、家を一軒潰されるわよ」と言われたことがあるが、なあに、家一軒なんて、黒ラブ一頭で事足りる。ベランダの分厚い床板を食いちぎられた日には、笑うことしかできなかった。寝室のドアを噛みまくった日は、叱ることが無意味に思え「全部食われてから取り替えりゃいいや」と諦めた。
 とにかく、ハリーの両目がランランとしている間は、一切、油断してはならない。黒ラブの賢さたるや、想像を遙かに超えるものだった。一瞬の隙を突いてありとあらゆるイタズラを繰り返す。靴を隠し、紙を食いちぎり、食べ物を盗む。ふと気づくと、何かをくわえた状態で、スタタタと早足で移動する。「あっ!」とこちらが声を上げると、それがゲームスタートの合図だ。できるもんなら取り返してみろとばかりに、長い尾をバタバタと振りつつ、嬉々として走り回る……いろいろなものをなぎ倒しながら。終わることのないイタズラ。諦めと許し。ハリーよ、お前ってやつはどこまでパワフルなんだよと、ため息しか出ない日々である。

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 それなのに、なぜ私はこんなにもハリーが好きなんだろう。なぜこんなにも、この犬がかわいいと思うのだろう。イタズラを散々繰り返されても、服をビリビリに破られても、私はこの犬に強く惹かれている。控えめに言っても、かなり夢中だ。私の横にぴったりと座り、幸せそうな表情をするハリーは、最高のイケワンだと心から思う。
 ハリーはきっと素晴らしい犬になる。ちゃんと育てれば、最高のパートナーになってくれるに違いない。この犬と、これからも楽しい日々を送ろうと思う。いっぱい遊んでやろうと思う。思い切りかわいがり、大切にしようと思う。きっと、私が一生忘れられない犬になるだろうから。

 

 

この連載は月2更新でお届けします。
次回2017年6月15日(木)掲載