ハードな翻訳作業が続き、ふと気づけば夏になっていた。雨が降らないじゃないか、善良な滋賀県民としては琵琶湖の水位が大変気になる、と焦っていた梅雨スタート時の私だったが、珍しく真面目に仕事をしたおかげで、煩わしい雨期を知らず知らずのうちに乗りきってしまったようだ。いつの間にか鳴きだしたセミ。強い日差しを遮り、部屋の中に涼しさをもたらしてくれる庭木の緑。日に焼けた中学生が、笑いながら家の前を通り過ぎていく。ああ、夏である。美しい夏だ。
いくつになっても、夏はいい。夕暮れ時に空が赤く染まる様子を見ると、世界にこんなにも心を打つ色があるのかと考える。小学生の頃、自室の窓から見た太平洋に沈んでいく大きな夕日も、同じような赤だった。もう何十年も前の記憶なのに、あまりにもいきいきと蘇ってくる。今、私が見ているのは、雄大な比良山系に沈む夕日だけれど、心を揺さぶられるその鮮やかな色に、あの頃と同じように魅了されてしまう。海の青、山の緑、夕日の赤。若い時には理解できなかったけれど、景色を構成する自然の色ほど美しいものはない。それなのに、目の前にあればあるほど見過ごしてしまうものだ。
すっかり中年になった私は、それらをひとつ残らずこの目に焼き付けようとする。私が子どもだったころ、なんの変哲もない景色に両親が感動していたのは、なるほどこういうことだったのかと今になって理解する。
さて、わが家の黒犬である。なぜだか雨が大嫌いなハリーは、朝のトイレを済ませると、クーラーの効いた部屋にそそくさと戻り、日がな一日ゴロゴロと梅雨を過ごしていた。私が仕事をはじめると、定位置に寝転んでうっとりと私を見つめていると思いきや、一分ぐらいで深い眠りについてしまう。そのままずっと寝て、夕方にあくびをしながら起きてきて、水をゴブゴブと飲むような日々だった。まったく理想の生活だなあとうらやましい限りだが、首のあたりのダブダブとした皮膚が、最近、よりいっそうダブダブしてきたように見える。犬というのは、あっという間に太る生きもので、ハリーもこちらが気を緩めると一週間でずっしりと重くなる。私とハリーの朝の散歩も、そろそろ再開の時期を迎えたのである。
ハリーとの散歩にはかなり気をつかう。なにせ真っ黒だから、気温の高い時間は避けねばならないし、真夏であれば散歩ははなから諦め、泳がせることに徹底したほうがハリーにとっては安全である。久しぶりに朝の散歩に出ようと決めたその日は、朝から曇りがちだったが、山から吹いてくる風が涼しくて心地よかった。梅雨の終わりごろにある、爽やかな日で、ハリーも外に出ることをまったく嫌がらなかった。私も、久しぶりにハリーと歩くことがうれしく、お気に入りの首輪とリードをつけて、それじゃあ、軽く家の周りを行きますか! とばかりに上機嫌で歩きはじめたのだが……。
とある道に入った瞬間、ハリーの動きが止まった。右に行けば山、左に行けば琵琶湖という分岐点で、ハリーは左を向いたまま一ミリも動かなくなったのである。
当然、右に行こうと主張する私と意見が対立した。私ひとりでハリーを湖まで連れて行き、泳がせるには車が必要だ。何かあったらハリーを積み込んでさっさと戻ってくるためだ。徒歩で湖に行くのはダメである。何かあったら、もうそのときは地獄しか待っていない。というわけで、久々に徒歩での散歩をしていたその日、私は右の山方向を主張したのだけれど、ハリーは頑として譲らずに、そのうち、表情が卑屈になってきた。
だ・か・らっ! 今日は、湖には、行・き・ま・せ・ん!! と言い、私も譲らなかった。双方譲らず、三分ぐらいが経過したときだった。ハリーが突然、右の山方向に走り出したのである。卑屈な表情が面白いと写真を撮影していたところをいきなり引っ張られた私は体勢を崩し、結果、iPhoneは宙を舞い、眼鏡が吹っ飛んでいった。それでもぐいぐい引っ張って止まらないハリーに「オイッ!! とまれ!!」と叫びつつ引きずられていく私を見ていた農家のおじいさんが、腹を抱えて大笑いしていた。
結局ハリーは、そのまま山方向にグイグイ進み、そしておもむろに方向転換すると、家に向かって一直線に戻ってしまった。「あんたが湖につきあわないのであれば、俺は家に戻るまでだ」と、その真っ黒な後ろ姿が物語っていた。
結局、走って家に戻ってしまったハリーをそのまま留守番させ、眼鏡を探しに戻り、やっとのことで回収し、私も家に戻ってバタリとベッドに倒れこんだ。ハリーは、そんな私の横にそっと寄り添って、いびきをかいて寝ていた。まさかそれがやさしさなのか。毛むくじゃらの体が暑かったから、全然眠れなかった。2019年の夏も、こんな感じで大騒ぎである。
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次回は9月15日(日)掲載です。