犬(きみ)がいるから 村井理子

2017.11.15

12散歩の時間

 

 朝晩ぐっと冷え込むようになって、私の住む琵琶湖西岸にもとうとう秋がやってきたようだ。夏の終わりに発生した台風で大きな被害を受け、ハリーと日頃通っている琵琶湖の浜辺も様子が一変してしまった。立派だった松の木が何本も根元から倒れ、無残な姿になっている。かろうじて倒れなかった木も、枝が引きちぎられるように折れてしまい、なんとも気の毒な姿だ。美しかった浜辺は随分と形が変わり、遠浅になった印象がある。大きな自然の力を前にして、穏やかなだけの湖ではないのだと痛感している。

 それが理由というわけではないが、最近のハリーと私は、週末以外は浜辺に向かうことが少なくなった。町内をゆっくりと時間をかけて散歩することを楽しんでいる。ハリーと一緒に歩く練習を重ねなければ、いつまでたっても普通の散歩なんてできないという、ある意味当然のことを悟り、決心したのだ。琵琶湖まで車を走らせて、泳がせて、さあ帰るぞ! なんてことは、遊びではあっても散歩ではない。ハリーにとってとても重要な、飼い主と歩調を合わせる訓練にもならない。浜辺を思う存分走らせれば、ヒャッハー! な犬はできあがるが、あの体の大きさでヒャッハー! だけでは問題だらけである。

 最初のうちは、魔法のハーネスを装着した状態でも引っ張る力は強かった。しかし、毎日少しずつ、根気よくハリーに言い聞かせ、立ち止まらせ、歩調を合わせることで、最近では引っ張る回数も随分減ってきた。私との繰り返しのやりとりも効果があったとは思うけれど、なによりハリーを満足させ、ゆったりと歩かせているのは、好奇心なのではないかと思う。今まで歩かなかった山道、渓流、田んぼのあぜ道。鹿の角が落ちていたり、他の犬や、野生の生きものが歩いた跡もある。そんな、今まで知らなかった情報のすべてが彼にとっては楽しいのだろう。立ち止まって周囲を眺めたり、においを嗅いだりする回数が増えたのだ。
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 同じ道を散歩するから、毎朝顔を合わせる人たちも増えた。小学生の通学路のパトロールをする人、横断歩道で旗を持つ人、登校中の子どもたち……毎日出会うそんな人たちに声をかけてもらうことで、ハリーは徐々に地域に溶け込んできた。「なんだ、あの黒い大きい犬は!」とか、「脱走した黒犬はあいつか!」と噂されていた時期は、もう過ぎたはずだ(そう信じたい)。今ではどこに行っても、「ハリー!」と声をかけられる。毎日、近所の保育園の園児たちが、ハリーを見学しにベランダの下まで来てくれる。当のハリーも、とてもうれしそうだ。

 朝夕とひたすらハリーを散歩させている私はといえば、心身共にすっかり健康になってしまった。ハリーの散歩があるからと、深酒は減った(体重は減ってない)。仕事に行き詰まり、ああもうダメだと気分が沈みはじめると、自分を奮い立たせ、リードを握りしめ、ハリーと一緒に外に出る。しばらく歩けば、心のもやもやなどどこかへ消えてなくなっている。こうやってハリーと外出することで、心の霧が晴れなかったことなど一度もない。どんなに寒くても、雨が降っていようとも、朝、ハリーと一緒に散歩に出て、しばらく歩いて家に戻れば、何にも代えがたい達成感を得ることができる。私はやるべきことをやり遂げたのだ、今日もハリーを満足させることができたのだという、ささやかではあるけれど、確かな喜びを毎朝得ることができる。こんなに大きな犬を散歩させたのだという、わずかな自尊心が少しずつ積み重なって、私に力を与えてくれていることは間違いない。

 何より嬉しいのは、ハリーが私の労力に応えてくれることだ。散歩で楽しい時間を重ねれば重ねるほど、ハリーは私に愛情を返してくれる。一緒に歩けばそれだけ、心が近くなる。これほど単純なルールもない。そして、これほど飼い主にとってうれしいルールも存在しないのではないか。だって、一日のうちわずかな時間を犬と共有し、歩き、楽しめば、それでいいのだから。満足した時のハリーほど愛らしい存在は、なかなかいないとさえ思う。散歩が終わり、フードを食べた後のハリーの落ち着いた表情は、なんともイケワンである。隣に座ればうれしそうに体を預けてくる。話しかけると、真っ黒い目でじっと見つめてくる。本を読めば、一応、ハリーも本を読んでいるようなフリまでしてくれる。
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 私が時間と労力を割いて多くをハリーに与えているのは、私がより多くを与えられているからだ。確かに、力も強いしやんちゃなところはまだ残っているけれど、あの甘えん坊で優しい性格は、そのまま大切に育んでやる価値があるはずだと思う。大変だと口では言いつつ、さほど苦労だとは思っていない理由がそれだ。むしろ、大きなぬいぐるみみたいな犬が朝から晩まで側にいてくれる日常を、どうしたら苦労だなんて言えるだろう。家の中はボロボロになってきているけれど、そんなことさえどうでもいいと思えるほど、私はハリーとの日常を楽しんでいる。


 

この連載は月2更新でお届けします。
次回2017年11月30日(木)掲載